おめえに喰わせるタンメンは

 さて、前回から、ランシエールの「不和」を取り上げてきました。前回はイントロダクション代わりに「不和」という概念についてちょこっと説明をしたところで話を終えていたのでした。端的に言えば不和とは「聞いてない」ということで、同じルールが適用されるはずの二人のあいだの係争なのに、一方には他方が対象として見えていない、当然聞いてもいない、ということでした。では、それを元にすると、「公正な分配」という正義の観念以外にどんな正義が見えて来るというのでしょう。

 しかしまずは議論のステップとして、いちおう、共同体の正義というものをまずは公正な分配としてみることにしましょう。なにが公正な割り振りかに関しては、そりゃいくつか考えがありましょう。それがどんな風に切り分けられるかは、また後で論じるとして、まずはこの「公正」という計算に間違いがあることだってあるだろう、とランシエールはいいます。まてまて、そりゃ、分け前のある当事者も分け前のない当事者もいるだろうけど、この間違い、計算違いも修正だってできるでしょうし、そもそもそれが公正ってものじゃないの?と思われるかもしれません。
 なるほどそうかもしれないけれど、そう考えるのだとしたら、分け前のある当事者も分け前のない当事者も登録されている、感性的なものの布置を定義しなければならず、そのためそれは目に見えるもの語りうるものの秩序であるということになるまいか、というのがランシエールの意見。かれはこれをポリスと呼びます。でも、世の中そうは簡単に収まりません。当事者はそこにいる、同じルールだって適用されることになってる、いるのにいつまで経っても登録されない。そういうことだってありえます。不和というのはそういうことです。


貴族にとって、当事者がいない以上、政治的場面は存在しない。平民は、ロゴスをもたず、したがって存在しない以上、当事者はいないのである。ある貴族が平民たちに言う、「あなた方の不幸は存在しないことが、そしてその不幸は避けようがない」。(55)

 存在しない。えらいいわれようです。でも、どういうことでしょう?ふつう、ひとは存在しない相手に話しかけたりしません。ここで、ランシエールの説明はこうなります。


「名前のある人々の言語と名前のない存在の鳴き声のあいだには、言語をやり取りする状況が形成される可能性はなく、討論のための規則もコードもない。この意見は、支配者の頑固さや、そのイデオロギー上の盲目を反映しているだけではない。それは、厳密に言って、帰属の支配を形作っている感性的なもの(le sensible)の秩序、つまり支配そのものを表している。」(52)

 名前のない存在の鳴き声。ぶうぶうぶう。バルバロイでもいいけれど。まさに向こうは「聞いてない」。
 あれ、でも、さっき、同じ判断規則が、云々、といっていなかったかしら?それなのにここでは討論のための規則もコードもない、となっています。矛盾していないでしょうか?
 いえ、ここで、ランシエールの鍵となる信念が登場してきます。平等、がそれです。そして、平等を支えるのはロゴスなのです。
 えらいひとはこちらの言葉を鳴き声扱いするかもしれません。でも、彼らも一応主人であるからには、奴隷に言葉で命令を下します。そこが付け目です。


「ある命令に従うためには、少なくとも次の二つのことが必要である。すなわち、その命令を理解しなければならないことと、命令に従わなければならないということを理解しなければならないことである。またそのためには、あなたに命令する人間とあなたがすでに対等でなければならない。あらゆる自然的秩序を蝕むのは、この平等である。おそらく目下の人間は、ほぼあらゆる場合に服従するだろう。それでもやはり、そのことによって社会秩序が、その最終的な偶然性に送り返されることに変わりはない。不平等は、最終的に平等によってのみ可能なのである。この平等の効果が、自然だとされる支配の論理に浸透するとき、政治が存在する。」(42)

 ランシエールも認めているように、なんぼ言葉がわかるといったところで、それは命令を理解しさっさとこき使われるのに好都合というばっかりで、余りよいことはありません。それでも、おなじ言葉の平面にいるというただそれだけの理由で、一瞬だけでも平等が訪れることもあるかもしれない。
 そんな馬鹿なという人もいるかもしれませんし、バカとはいわんが夢かもしれないという人もいるでしょうが、個人的にここで頭に浮かんだのは、王侯将相、寧有種也と叫んだあのひと。紀元前209年に一瞬だけ歴史の主役になったあのひとです。陳勝呉広の乱、という、あの反乱劇の主役。あの中国でさえこんな人がいるのですから、まあ本当に儚い偶然とはいえ、起きない事件ではありません。そういえば、もしランシエールが正しいとするなら、もしかすると、この二人を支えたのは、秦の度量衡や文字の統一政策なのかもしれない、ということもできるかもしれません。
 ・・・もっとも、この二人が反乱を起こすきっかけになったのは、徴兵されて赴任先に赴く期日に間に合わない、遅刻したら死刑、どうせ死ぬなら、という事情だったわけですが、そう考えると「〆切は誰にも平等だ」ということになるまいかしら、とも言えそうですが。

 なにはともあれ、この「登録され損なった」貧乏人たち。ランシエールは、彼らのことを、分け前なき者たち、と呼びます。他人事とは思えない命名ですね。


「分け前なき者たちの分け前、つまり貧しい者という当事者ないし集団が存在するときに、政治が存在するのである。貧しい者が富める者と対立しているというだけでは、政治は存在しない。というよりむしろ、貧しい者を実体として存在させるのが、政治・・・だと言わなければならない。」(34)

 これが、ランシエールのいう政治的なものの定義であり、そしてまた正義の主題でもあります。

 ちなみに、お金持ちのお返事はこちら。


「富める者の集団は、たった一つのことしか述べないだろう−それは、きわめて厳密に言って、政治の否定である。すなわち、分け前なき者に分け前はない、と。」(38)

 おめぇに喰わせるタンメンはねぇ!って奴ですね。そういや、このネタの持ち主、コンビ名を次長課長っていうくらいですから、そりゃあ分け前はあるほうの人たちと自ら名乗っていることになります。


 ・・・ん?もとは次長課長社長というトリオで、社長に夜逃げされたんでしたっけ?
 そうすると話も変わってきますね。。。

 次回は、じゃあどうしたらいいっていうのさ、というところから、話を続けていきましょう。今回は、豚に姿を変えられてしまったユリシーズのおともだちについてのラカンのコメントを〆にかえさせて頂きます。セミネール第一巻第十一章第二節から。


 このブ−ブ−という鳴き声について他に何が言えるでしょうか。この鳴き声は他の世界へのメッセ−ジでもあるのではないでしょうか。私はユリシ−ズの仲間達のブ−ブ−という鳴き声に次のような声を聞きます。「ユリシ−ズが懐かしい。彼が我々の中にいないのは残念だ。彼の教え、彼がその存在を通して我々に示したものが懐かしい」。
(中略)
 豚のブ−ブ−という鳴き声がパロ−ルになるのは、その鳴き声が何を信じさせようとしているのだろうかという問いを、誰かが立てる時だけです。パロ−ルは、誰かがそのパロ−ルを信じる正にその程度に応じてパロ−ルなのです。
 では、豚に変わったユリシ−ズの仲間達はブ−ブ−鳴くことによって何を信じさせようとしているのでしょう。それは、彼等がまだ人間的なものを持っているということです。この場合ユリシ−ズを懐かしむ気持ちを表現することは、この豚達が自分達をユリシ−ズの仲間として再認してほしいと要求することです。