振り向かない?

 さて、前回、前々回と続けてきたランシエールの「不和」、いままでのところでは、こうして一見平凡な状況設定である不和というテーマを取り出すことで、「同じルールの中にあって、分け前をもらってもいいはずなのにタンメンを食えない貧乏人たち」が浮上してくることになります。そして、この貧乏人たちを浮上させるのがロゴスと平等というものであり、これが共同体の感性に基づく「公正な配分」を壊乱させる効果を持っている、ということが確認されることになります。

 ランシエールの立場はここでは両義的です。一方では、分け前なき者たちがいる。かれらは、ロゴスのもたらした平等により、一瞬の偶然をついて自らを実体として存在させます。他方で、分け前なき者たちが現れるのは、自然的、あるいは共同体の原理にかならず不全が起きるからであって、それは偶然の産物ではありません。そして、その壊乱をもたらすものとして、ロゴスのもたらす平等性を考えてもいるようなのです。この点で話は若干循環論的でもありますが。ともあれ、共同体のもつ分配の計算を狂わせるのは、このロゴスの元での平等であり、「この平等は、たんに誰であれ人と人との平等であり、つまり最終的には原理の不在であり、社会秩序そのものの純粋な偶然性である。」(40)とされています。ですから、ロゴスが絡んでいる以上はじめからこの原理は不在、とは言わずとも常に脅かされていることになります。


「この共約不可能なものは、利益と損失の平等を打破するだけではない。それはまた、宇宙の均衡にしたがって秩序づけられ、共同体の原理の上に基礎づけられた都市国家という企てを、前もって崩壊させるのである。」(46)」

 先ほどもいいましたように、ここで、この状況で始めて、政治的なものとは自らの存在する場所を得ることができます。そして興味深いことに、それは主体化のプロセスと重ね合わされて論じられることになります。

 まずは政治的なものから見ていきましょう。


 「政治が存在するのは、平等の偶然性が民衆の「自由」として、支配の自然的秩序を中断し、この中断が特異な仕組みを生み出すときである。すなわち、「真の」当事者ではない当事者を含めるように社会を分割することである。あるいは、少しもその当事者に固有なものではない「固有性」の名で、また係争の共同体という「共通のもの」の名で、全体に等しい一部を創設することである。」(44)


 続いて主体化の過程。いちおう、アルチュセールのお弟子さんというキャリアがあり、そのあといくつかの見解の相違からアルチュセール・グループから離れるという経緯があった(と解説にある)ことを考えると、ここのくだりはアルチュセールイデオロギーと主体化の呼びかけに対する問、浅田彰さん風にいうと「なぜ呼びかけに答え振り向くことになるのか」という問いに対する、ランシエールなりの一つの解答であるようにも思われます。
 まずは、主体の定義から参照しておきましょう。


「政治とは、主体の問題、あるいはむしろさまざまな様式の主体化の問題である。われわれは、主体化ということで、ある審級の一連の行為と、一連の言表能力による産出を意味することにしよう。」(69)
「あらゆる主体化は、脱自己同一化であり、自然な地位からの離脱であり、誰であれ計算されるような主体空間の開示である。というのもそれは、計算されないものの計算の空間であり、分け前と分け前の不在とを関係づける空間だからである。」(71)

 こうしてみると、主体が誕生する空間というのは、計算に入れて貰えなかったものたち、分け前なき者たちが、新しく計算に組み入れられるかもしれない、そんな瞬間に開かれる空間であるとされていることがわかります。
 そして、この二つが重ね合わされる瞬間は、このように描かれています。


「当事者なるものは、間違いの表明以前には存在しない。プロレタリアートは、間違いがその名を暴露する以前には、社会の現実の当事者としてまったく存在していないのである。それゆえ、この名が露呈する間違いは、当事者同士の合意というかたちでは解決できない。解決できないのは、政治的な間違いが問題にする諸主体が、しかじかの間違いによって偶然に到達することがあるような実体ではなく、その実在そのものがこの間違いの表出様式であるような主体だからである。」(75-6)

 ですから、なにがしかの間違いがあり、計算に入っていない、分け前なき者たちが生まれる。生まれるといっても、それは誰一人知ることなくひっそりと闇に隠れて生きる者たち、ベム、ベラ、バルトークみたいな連中です。そこに、平等の偶然性が訪れる。
 そのときが、主体化の時間であると同時に、新しい階級の誕生の瞬間でもあります。端的に言って、主体ないし階級というのは、この共同体の内部での「分け前なき者たち」、つまりは共同体の分配の「計算違い=間違い」そのものに新しく名前が付いた、ということでしかありません。階級はポリスの中では出自や職能によって割り振られた集団でした。しかしここで「計算されない人々を計算するための名前であり、社会的集団の現実全体に重ね合わされた主体化の方法」(145)となるのです。

 イデオロギーは、こうした「存在しない当事者」に名を与えるものにほかなりません。


「すなわちそれは、虚偽の真実としての真実である。・・・虚偽だけがその指標であるような真理なのである。それは、虚偽の明確化以外の何ものでもない真理であり、普遍的寄生としての真理なのである。」(148)

 象徴空間のひずみそのものに付けられた名としての主体化のプロセスの定義にしても、この真理の定義にしても、ラカンの読者の方には非常におなじみのものでしょう。この主体化のプロセスは「症状への同一化」としての主体化のプロセス以外の何ものでもないからです。そして、ここで言われている虚偽も、やはり「虚構の構造をもつものとしての真理」というラカンの定義と非常に馴染むものです。たしかに、そこには当事者は存在しない。だから、それに名前を付けることはフィクションでしかない。しかし、一度その名づけに成功してしまえば、つまりイデオロギーを介して、かれらを主体化することに成功してしまえば、それは一つの真理ないしは真理を生み出す構造に早変わりすることになります。「政治においては、主体は充実した身体をもたず、時、場所、機会をもつ断続的な実行者であり、この主体の固有性は、無関係なものを関係づけ、場所なきものに場を与えるために、論理的・美学的な二重の意味で、論拠=筋立て、証明=実演を発明することにある。」(153)というランシエールの定義は、そのプロセスを上手くまとめています。
 ついでながら言っておくと、こうして誕生することになった新しい当事者としての民衆に、ランシエールは「見せかけ」という言葉を与えています。この「見せかけ」、困ったことに原書がないもので原語がわからないのですが、分かる方教えて下さい。。。
 ともあれ、ラカンの読者の方なら察しがつくかもしれませんが、この見せかけの定義もラカンのsemblantを思わせるものです。でもランシエールのは、これ、apparenceを使っているのかなあ、どうでしょう。

 あらあら、ちょっと話は逸れました。ここでは、とりあえず「存在しない当事者」を浮上させることが政治であり、その浮上のための装置が虚構としてのイデオロギーであり、その虚構によって生まれるのが主体である、というところまで確認して、次回はそのプロセスについて追っていくことにしましょう。