政治と美学

 ここ三回ほど、ランシエールの「不和」を扱ってきました。
 さしあたり、ここまでの議論で「公正な分配」にだけ正義を限定するのはいかがなものであろうか、という理由も少しずつ見えてきました。たしかに、公正な分配では、そもそもが「分け前なき者たち」に位置するものたちに何を与えるか、という議論はいつまで経っても浮上してこないのです。分配は共同体の中の「あるべき場所」を占めているものたちのなかで行われます。あとあと触れようかとも思っていますが、ようするに「社会に参画」し、その「義務」を果たしているものたちのあいだで割り振られるので、「平等」などというイデオロギー上の虚構のせいで発生する、ノイズのような連中に振り回されては迷惑、というのが共同体の論理です。

 このように、分け前なき者たち、公平な分配という、管理者側の知の対象外にある者たちをむしろ真理と捉えるような見方は、精神分析にも共通するものです。



 そうすると、残る問題はそうすると、この計算違いが計算に入れられるようになる実際の過程、とまではいわずとも、その過程の進行を支えることになる論理はどういうものだろうか、ということになりましょう。
 さきほどの引用箇所にも、ちょこっと美学的という言葉が出てきます。ランシエールがこの論文で繰り返し、共同体の「感性的なものle sensible」という言葉を用いていることからもわかるように、そこには美学的な要素が入りこむ、というか、美学的な要素とそもそも区分できない、というのが、その答えになります。ここには、排除は常に感覚的、という前提があると言ってもいいでしょう。なにせ、この「分け前なき者たち」というのは、言葉をしゃべるようでぶうぶうと音を立てている生き物、あるいは耳障りなバルバロイなわけですから。


「この承認は、合理的論証であると同時に、「詩的」な隠喩でもある言語行為によって生み出されるのである。」(102)
「ロゴスと、ロゴスを感覚とともに計算に入れること…との結び目そのものに関わるがゆえに、政治的対話の証明の論理は、不可分に表出の美学でもある。」(103)
「したがって、政治は原理において美学的なのであるから、近代における政治の「美学化」などなかったのである。しかし、ロゴスの秩序と感性的なものの分割=共有との新たな結び目としての美学の自律化は、政治の近代的布置の一部をなしている。」(104-5)

 つまりは、ここで言われるような「美学的」なもの、あるいは詩的な隠喩とは、こうした不在のもの、あるいは存在しない当事者を見つけ出してしまい、真理として描き出してしまうということに関係するものだと言うことになります。この「美学」を、たとえばジャン=リュック・ナンシーのいう「イメージ」と重ねてみるのもよいかもしれませんが、それはまた別の機会に廻しましょう。

 しかし、こうして定義された民主制下の政治に対して、ポスト民主主義、あるいはコンセンサス民主主義と呼ばれるものが取って代わりつつあります。
 この新しい制度の特徴は何でしょうか。それはまずもって、「民衆の見せかけ、民衆の計算違い、民衆による係争が一掃された民主主義による統治」(170)です。なにせ、いままでも「虚偽の真実としての真理」なんていかがわしい話をしてきたのですから、そんなものは一掃してしまうべきと思う人もいて当然ですね。そこで、「制度的装置と、社会の分け前や役割の配置とを同一視する様式」(170)が生まれてくるのです。もちろん、ここでもそのための論争がないわけではないのですが、「当事者双方にとって、状況についてのデータの客観性から期待しうる最適な分け前を手に入れる」(171)ためにその論争は行われるのです。

 良いことづくめですね。このようにしていくと、恐らく「イデオロギー」に曇らされた連中がホントか嘘か良く分からない(そして大抵は自派の利益のためにやっている)妙な権利闘争を切り捨て、科学的思考のできる個人が客観的に導かれたデータをもとに討議し民主的に裁決する、より理想に近い社会が生まれてくるはずなのです。
 そのためのテクノロジーは、たとえば絶え間のない世論調査であるとか、あるいは種々の統計的資料ということになりましょう。それを諸々の「専門家委員会」が判断し、コメントを添えます。そうして導かれた見解は、すぐに法制化しなければいけません。法は社会の運動に適応し、それらを先取りしようとし(183)、それはまた法と事実の隔たりを無くすことで、政治を不在にする専門家によって構成された国家の能力を拡大すること(185)につながるのです。こうして、「専門家の国家は、法の秩序と事実の秩序の完全な一致のなかで、あらゆる見せかけや主体化、係争の隔たりを取り除く」(185)ことになります。

 このとき、民衆たち、いやいまや住民たちと呼びましょうか、かれらはどうなるのでしょうか。


統計学的に還元されたかたちで現前するこの民衆は、認識と予測の対象へと変形された民衆であり、見せかけとそれによる論争をお払い箱にする。そこから、完全な計算の手続きを作り出すことができる。民衆は、その当事者の総計と同一である。民衆の意見の総計は、民衆を構成する当事者の総計に等しい。計算は、つねに割り切れ、余りはない。そして、絶対的に自分自身に等しい民衆は、その現実的な姿に分解することもできる−社会的・職業的なカテゴリーや年齢階層によって。したがって、正確に数え上げうる当事者の意見や利益の算出以外に、民衆の名で到来するものは何もない。」(175)

 これを、ランシエールは再びポリスと呼ぶことになります。
 もちろん、こうした理想がすぐに実現するわけではないでしょうが、それにしても夢はある。問題は何もないように思えます。
 このなかに、一つだけ問題を見出すとしたら、なんでしょう?それは、コンセンサスが基本的に排除の論理に従っているということです。

 なぜなら、このコンセンサスの論理は、分け前なき者の分け前、数えられないものの計算の政治的主体化を禁じることになるからであり、階級なき社会において、排除は主体化されず、包含されない(191-2)からだ、とランシエールは言います。

 次回は、この政治なき民主主義、コンセンサス民主主義について、その展開をもう少し追っていくことにしましょう。