抑圧型社会と排除型社会

 
 さて、ここ4回ほど(長い)ランシエールの「不和」を取り上げてきました。前回は、共同体の中に本質的に芽生えるものとしての「不和」、その姿の見えない当事者をイデオロギー装置によって浮上させつつ、その当事者に再度「分け前」を与える仕組みとしての政治、メタ・ポリティークが、コンセンサス民主主義といわれるものに取って代わられつつある、というところまで話を進めていったのでした。

 まあ、世の中よくわからんことがおきる。それは、よくあることです。じゃあ、そのよくわからんことが起きたらどうするのか。たとえば、ランシエールいうところの「計算違い」や「分け前なき者たち」というのも、そのよくわからんものたちですし、別な見方を取る人たちにとってはそれは、もっとリスク社会論的な意味でのリスクと言ってもいいかもしれない。
 ランシエールのいう「政治的なもの」という概念に従えば、それにさしあたり名前を付け、そしてその「社会のひずみ」でしかないものを「社会」が抱える問題そのものとして、あるいはその社会の「真理」として係争の主題にすることで、言ってみればいったんガラガラポンでシステムを組み換えてみるのが民主主義下の「政治」ということになります。
 こうした意味で捉えられた「症状」は、もちろんマルクス的な意味での症状であると同時に、精神分析的な意味での症状でもあります。精神分析におけるファルス中心主義というのは至って評判が悪い代物ですが、基本的にはこの「ガラガラポン」を行う前提に、さしあたり身体の分節化の中で「分け前なき者たち」であったものに付けてみた名前、というのがファルスに他なりません。
 もちろん、じゃあコンセンサス民主主義が、そうした言ってみれば「社会問題」というものを無視しているというわけではありません。とはいえ、昨今の社会問題の扱いを見ていれば分かるように、現代において「社会問題」は消失し、「社会的リスク」に還元されていく傾向にあることは確かです。リスクなら避けないといけません。それを最少限に切りつめていく方向に社会をデザインするのが、コンセンサス民主主義の役割。ですから、コンセンサス国家というのは、たとえば移民問題にしたところで、アイデンティティと文化の承認を得ている複数の共同体には寛容です。なぜなら彼らは計算の範囲内に、「想定内」にあるから。つまり、リスクが織り込み済みだからです。逆に、


「もはや寛容でないのは、定員以上の当事者に対してであり、共同体の計算を狂わせる者たちに対してである。コンセンサス国家に必要なのは、自らの固有性と同時に、全体に共通する固有性をもった現実の当事者である。コンセンサス国家が許容することができないのは、全体であるような無である。コンセンサス・システムは、堅固な公理に立脚している。全体は全体であり、無は無である。政治的主体化を行う寄生的存在を取り除くことによって、少しずつ全体と全体の同一性、つまり全体の原理と当事者の各原理の同一性、権利所有者と全体の同一性が達成される。」(200)

 したがって、こうしたコンセンサス民主主義の背後にある信念を、ランシエールはこう描写します。


「この体制は現実主義である。現実主義は、観察可能な現実だけで満足する健全な精神態度であると主張している。しかし、実はまったく別ものである。すなわち、現実主義とは、秩序のポリスの論理であり、あらゆる状況で可能なことだけをすると主張する。コンセンサス・システムは、状況が許す「唯一可能なもの」という最少限の配当に還元された近年までの歴史的・客観的必然性を吸収した。こうして可能なものは、「現実」と「必然」の交換装置になる。・・・現実主義とは、あらゆる現実と真理を、可能なものというカテゴリーだけに吸収することである。この論理においては、可能なもの/真理が、学問的権威によって、可能なもの/現実のすべての空隙を補う役割を負っている。」(214)

 あるいはこれは、潜勢態が可能態に全面的に吸収されていく過程、という風にいってみてもいいかもしれません。個々の現実のなかには、ランシエールのいうような「分け前なき者たち」が存在し、当事者として存在していなかった彼らが何かのはずみに、いつかまた当事者として浮上してくる、としましょう。個人の運命もまた同じであるとするなら、それは主体化のプロセスでもあるはずです。それぞれがそれぞれ独自の運命を辿ることになるはずの世界のなかで、そのどっちに転ぶか分からないものがどっちかに転んだとき、潜勢態が現勢態に移行することになるわけです。まあ、ラカン風にいうならポワン・ド・キャピトンのもたらす事後的な効果と呼んでもよろしい。大事なのは、このときにそもそものルールそのものが変わるということです。ヘーゲル風に言うなら、真理というのはそれが明らかになったときには真理そのものの尺度を変えるようなものでなくてはなりません。まあそういえば、政治というのはすべからく「じゃあルールを変えようぜ」というものです。

 ところが、この「ポワン・ド・キャピトン」のような、いわば未知の者に名前を付け、「社会問題」として「イデオロギー」化する必要がない、というのが、この「可能なもの」のミソ。だいたいそれは「観察可能な現実」を元にして得られたデータを見るのであるからして、たとえばランシエール風の「分け前なき者たち」みたいな、イデオロギーとか権利とか理念とかそういう抽象的かつ主観的な見方をしなければ存在しない古くさい何やら私欲にまみれたものとは手を切っています。そして、一度それが「観察可能」であるならば、それは「可能なもの」今風に言えば「リスク計算」によって客観的な「現実」に構成されうるし、そうなればそれだけを相手にすればいいということになります。ここでは対照的に、何が明らかになったとしてもルール自体は変わりません。リスクの数値が上下することはあるかもしれない。新しいリスクが計算に組み込まれることになるかもしれない。けれど、そのシステム自体が変更されることはありません。ルールが細分化され厳密化されることはあっても、トータルで見てルールは変わらない。サッカーがラグビーになることはない。

 さて、でもそれで上手くいってるんなら、何も問題はないのでは?という意見も、もちろんあり得ます、というか多数派でしょう。しかし、精神分析ではおなじみの公式を思い浮かべてみて下さい。抑圧されたものは症状(あるいは社会問題として)となって回帰する、では排除されたものは?答えは、現実的に回帰する、が正解です。ランシエールは、ここではその回帰を移民と人種問題で語っています。


「係争の見せかけと主体化とのこれら政治的な様式が消滅することによって、結果として、もはや象徴化されることのない他性が現実のなかに不意に再出現することになる。そのとき、かつての労働者は二つに分裂する。一方は移民、他方は新たな人種差別主義者である。」(194)
「古いとして可視性から排除されてきた区分が、さらに古い剥き出しの他性というかたちで再出現している。」(195)
「他者が、その剥き出しの耐えがたい差異のなかで新たに可視的になることは、まさしくコンセンサスの働きの残余である。現実的なものの完全な露呈のなかでの見せかけの「合理的」で「平和的」な消失、住民=人口の算出のなかでの民衆の計算違いの消失、そしてコンセンサスのなかでの係争の消失こそが、政治の欠如のなかに根源的他性という怪物を再来させるのである。」(195)

 それでは、次回はここんとこの雑感の中で、その考え方がもう少し具体的に適用できそうなところを考えていきましょう。