排除型社会と抑圧型社会(2)

 この五回ほど、ランシエールの「不和」を扱ってきました。そして、ランシエールが「メタ・ポリティーク」と「コンセンサス民主主義」と呼ぶものを、前回はこっちで適当に「抑圧型社会」と「排除型社会」という風に提起してみたのでした。

 ん?どっかで聞いたことがあるような名前だけどそれはジョック・ヤングの「排除型社会」のことかしら?と思われる向きもございましょう。その場合は対立項は「包摂型社会」になりますが、わざわざ「抑圧型社会」に置き直したのは、そりゃ排除と抑圧という精神分析的私利私欲に駆られてのことに決まっています。。。まあそもそも、どちらかというと名前をお借りした、ということでもあるのですが、ヤングの「排除型社会」に関してはそろそろ邦訳が松籟社から予告されていますので、その発売後にでもまた改めて論じましょう。(それにしてもいまはその予告が消されてしまってキャッシュしか残っていないあたりが、作業のご苦労の多さを物語るようでもありますが。。。)

 とはいえ、一応手短に包摂型とおいてしまうことの一つのリスクを指摘しておきますと、それはランシエールもちょこっと(違う文脈でではありますが)触れているように、アイデンティティや社会的つながりをもち、契約を行う創意に富む個人−大規模な集団的実践を内在化し反映しなければならない個人、というかたちに人々を再教育する(だからこそニートじゃ困るよって話になるわけですが)ことが包摂と捉えられかねないからです。そして、いったんこのように「意欲を持って」頑張ってくれるのならその機会の平等は保証しよう、みたいな。
 もちろん、いやそのほうがいいじゃないか無条件な平等なんて百害あって一利なしだ、という意見もありましょう。ですが、ここではさしあたりその是非を問うのはやめましょう。今の段階で大事なのは、包摂と排除という二項対立そのものが二つとりまとめてランシエールのいう「コンセンサス民主主義」の論理の枠内にあることにかわりはないということだけ確認できていれば十分です。

 逆に、さしあたり「抑圧型社会」と呼んだものに対立させるというのは、ランシエールの「メタ・ポリティーク」の考察が非常にマルクス=フロイト的な症状の概念に乗っかっているだけに、ランシエールの議論との親和性が高い、ということに利点があります。排除型社会はラカンにならえば「知のディスクール」の支配する領分であり、そこでは「専門家」という、言ってみれば主人の権力を持たない、それ故に客観的な立場にいるとされる人間によって細分化されていく知によって社会をコントロールすることが目指されます。他方で、抑圧型社会はむしろ「主人のディスクール」に近い領分です。そこを支配しているのはイデオロギーという虚構であり、これが虚構である理由は、本質的に「無」に依拠しているからです。つまるところ、指示される対象が存在していない。そのかわり、なにか分類され得ないけど予知される、あるいは突発的に襲来してくるノイズは、さしあたり全部そこに放り込んでしまうことで、象徴化は可能になります。逆に、こうした「無」の領域を認めた上で、そこに虚構を構築することで事態を事態として明確化させる、それが人間的な意味での真理だ、ということにもなるでしょう。もちろん、それは「不和」の象徴化でしかないかもしれず、その不和が本来の形ではなく別の形に置き換えられて表現されたものでしかないかもしれない。しかし、逆に言えばその「置き換え可能性」そのものが、社会的連帯(死語ですな)の可能性でもあったことは忘れてはなりません。だからこそ、マルクス的伝統に則ってランシエールが言うように、「係争の共同体という「共通のもの」の名で、全体に等しい一部を創設する」(44)ことで政治が存在することになるのです。というか、サッチャー大先生の御言葉によれば「存在しない」とされている(ラカニアンならじゃあ女と社会を比べてみようかという誘惑に駆られるほどですが)「社会」を社会として存在させているのは、かつてはその故にであった、といってもいいのでしょう。

 排除型社会では、計算に入れられないものは、それはもう「生まれながらに(遺伝子的に)なにかおかしい」とか、そういった他性としてしか扱い得ないのです。面白いのはこのことを多分最初に指摘していたのは70年代のフーコーだということでしょう。(ちなみに、精神分析の理屈というのも、いっけん病理的と呼ばれている現象の構造を人間の条件の中に連続的に包摂しようという傾向が常にあるという点で、やはりこの社会の中では無用なものになっていくでしょう。)抑圧型の社会が、いってみれば社会の中に余白となるような概念を残しておいて、そのなかにとりあえず「分け前なき者たち」を包含させ、その包含をある意味では社会化・象徴化、ある意味では抑圧することで処理しようとしていたとしましょう。他方で、排除型の社会には、その余白がありません。なぜなら、その余白というのは本質的に虚構であり、虚構的な言説の効果によってのみ維持されてきたからです。

 昨今の社会問題に対する言説の中で非常に興味深い傾向とわたくしに思われるものの一つは、こうした「虚構」への嫌悪です。とくに人権とか、まあそのほか権利一般。理由は分かります。そんなものフィクションだから。そして、そんなフィクションをさも現実に効力あるもののように見せかけているのは、イデオロギーであり、イデオロギーというのは根拠なき私欲、利権闘争以外の何ものでもないからです。

 他方、義務というのは、これは悪くありません。なぜなら、社会はいまや明確に割り振りの決められた(市民団体から労働組合、そして終身雇用の会社=社会に至るまで、いかなる「団体association」にも属さない個人として存在せよ、という意味においてではありますが)、ランシエールにならえば「ポリス」として再生したのですから、その個々人に明確に割り振られた「分け前」の分だけ働くのは当然のことではありませんか。それを義務として明文化するのは、とても大事なことです。もちろん、「虚構」が吸収してくれるような、革命的に不可解なリスクというものもあるかもしれないけれど、維持費と発生確率を天秤にかけると、その対策のためだけに虚構を維持するというのは、そりゃ釣り合わない。経済だって不況だし。それよりは、具体的に小さなリスクを潰していって、トータルで満足度を上げるべきではないでしょうか。割れ窓がある街で、それを無くそうとしたとして(ジュリアーニさんお元気ですか?)そのの取り締まりの過程で人権の侵害があるかもしれないけれど、割れ窓を無くすことのトータルなメリットと比べて、本当にごくまれにしか起こらない人権侵害のリスクなど、なにほどのことがありましょうか。そもそも、それを犠牲にしてまで守ったところで、人権というものによってでしか守られなかったであろう公益(えん罪で殴られた黒人とか)があった!などというケースは何十年に一度ではありませんか、と。そもそもそれなら、法運用の現場レベルでのルールを厳密化して対応すればすむ話なのです。

 さて、いまこの論理の攻勢に抵抗する術はほとんどなさそうなのです。しかし、ひとつだけ言いうることがあるとすれば昨今(特に根拠もなく)増大していると世にかまびすしい「不可解な事件・犯罪」というのは、じつのところ余白の中に「分け前なき者たち」を包含する吸収力や余力を失った社会(社会がまだあればの話ですが)、排除型社会が目にすることになる「現実的なものの回帰」であって、つまりは自作自演なのではないかしら、ということでしょう。

 それでは、こうした問題に対して今日はいつになく含蓄に富んだラカンせんせいのおことばを引用して、この長い話の〆にすることにしましょう。


真理、それは我々に精神分析が教えてくれたもののことです。真理は主体が知を拒むところに生まれます。象徴的なものから排除された全ては現実的なものの中に再出現します。これが症状と呼ばれるものの鍵です。症状、それは主体の真理の存する、現実的な結び目なのです。(1968.6.19)

 ラカンを読んだことのある方は、あれ?症状は抑圧されたものの回帰で、象徴界から放逐されたものが現実界に回帰するっていうのは幻覚の話じゃなかったの?と思われるかもしれませんが、ラカンセミネールの第12巻くらいからの上述の定式に移行していきます。このことが孕む問題は・・・と話を進めたい気もするのですが、それはまたべつのはなし。。。