自分、不器用ですから

 楽器を弾かれるかたなら誰しも経験があると思いますが、同じ楽器を弾くひとのコンサートに出かけたかえりに、おもわず自分もうまく弾けるような錯覚に囚われて楽器を弾き始めてしまうことはままあります。

 まあそんなわけで、マイスキーのコンサートに行けばマイスキーの、シュタルケルならシュタルケルヨーヨー・マならヨーヨー・マが、なんとはなしにそのかけらだけでも我が身に宿ったような気がして、楽器を弾くにははた迷惑な時間であることをも省みず弾き始めちゃったりするわけですが、その錯覚は自分から出てきた音を聴いたその直後に醒めることはいうまでもありません。レヴィ=ブリュールだったら融即participation(ときどき、ナンシーはこの言葉に関してレヴィ=ブリュールから受け継いだものはあるのかしら、と、気になるときもあるのですが)とでもいうかもしれない、このどこかしらアニミズム的な感覚はどう説明したものでしょう。
 いや説明するまでもなく、よく言われるように「ヤクザ映画を見て出来てた人がみんな高倉健になってる現象」としてよく知られているじゃないか、という気もするのですが、ここはあえて言い訳をしてみましょう。

 グレン・グールドは、18世紀から19世紀への音楽業界の変化をこう指摘したことがあります。18世紀の聴衆は、技倆のレベルに差はあれ(ついでに言うと身分にも差はあれ)自身もまがりなりにも音楽家であり(偉い王様がこれまた下手な音楽家だったりするのでご機嫌取るのに困ったりもするわけですが)、つまるところコンサートはある意味で同業者の集まりだった(まあ学会みたいなものでしょうか)、しかし19世紀になってから純粋な聴衆とでもいうべきものが誕生した、と。こっちで補足しておくと、近代的なコンサートシステムというのは史上初のアイドルことフランツ・リストせんせいが成立させたということになっています。その前史としてパガニーニもいるわけですが、かれの場合はどうにも前世紀風な、なにやら見せ物興行くさい雰囲気が漂っています。とはいえ、パガニーニブームによって下地を作った上で、リストが見せ物をアイドルに、興行を近代化して、ちゃんとエージェントがつくような形のリサイタルに変換して受け継いだ、とは言って良さそうです。興行師に振り回されている天才少年としての日々を見事なセルフプロデュース能力によって近代的芸術家の活動へと変貌させたリストの才能恐るべし、というとことでしょうか。

 それはともかくとして、このグールドのモデルが正しいとするなら、高倉健化現象は決して嗤うべきことではありません。学会で偉い教授の講演を聴いたぺーぺーの院生がいつかはその教授と同じレベルの研究を、と夢見たとして、それはバカバカしいどころかむしろ卵ヒヨコ端くれといえども研究者たる身の義務として、嘘でも建前だけでも良いから見るべき夢のはずです。とりあえずこれを触発と呼びましょう。

 逆に、高倉健化がなにやら滑稽とすれば、それは猿まねだからでしょう。表面だけ、形だけをなぞっても中身はついてこない、とかね。そこでは言ってみれば、触発は影響くらいに切り下げられてしまいます。すぐ影響されて真似をする、というふうに。この感覚が良識的に思われるとしたら、それはわれわれの良識の中に、すでにある一つの区別が入りこんでいるからに他なりません。何かを産出できる人間と、純粋に消費に回るしか仕方のない人間。この区分は厳密です。そして消費に回るしか能のない人間は「影響」されて、つまりは猿まねをし、多少なりとも産出する能があれば「触発」となる、と。ですから、触発というのは非常に事後的に、それこそ偉人の回想録に「あの時の〜に触発されて」と書かれることでしか立証できないことになります。偉人となって才能を立証した後なら触発と書いてもよろしい。でもそれ以前だったら、全部猿まね。

 この区別があるから自らを無能無力と認め消費に専念する近代的聴衆が誕生したのか、あるいは社会システムとして近代的聴衆が成立したからこの区別が事後に確立したのか、それは定かではありません。ともあれ、前ふりが恐ろしく長くなりましたが、デリダの若書き(1975年!)の論文「エコノミメーシス」はそういったあたりを考えさせてくれる内容になっています。

 次回はこの本の話をちょっと考えてみましょう。