神様ファンド


 Economimesis、読んで字の如くエコノミーとミメーシスのごっちゃ煮です。デリダにしてもあんまり芸のない造語ですが、それはさておきましょう。デリダは、判断力批判において、ミメーシスについての全理論が展開される箇所が、第43節の報酬のアートとリベラルなアートの対立、第51節における芸術の賃金からの独立性という、賃金に関する二つの指摘に挟まれている、ということを議論のスタートポイントにします。何やら薄弱ですね。でもとりあえず、ミメーシスとエコノミーは関係があるっていいたいのかしら、くらいのところは、なんとなく想像がつきます。

 ではまず、ミメーシスということから考えてみましょう。アリストテレスの時代、ミメーシスというのは優れて人間的な能力でした。だいたいそもそも自然、フュシスからして、同じものが同じものを生み受け継いでいく。人間はそのなかでも、純粋にその模倣再現部分を取り出していろんなことに使ってみて、そのことに喜びを感じることの出来る生き物です。ですから、人間は猿まねが好きなのではなく、あらゆる種子胞子を発芽させることの出来る豊かな土壌、あるいは土壌の持つ生産力であり再現力ないし再生力であり、つまりは能産的な自然だったということになります。つまり、何かを演じることは何かを真似ることではなく、創造行為そのものだったのです。ラカンは象徴的なものは虚構の構造を持つといいましたが、それに近い。

 ところが、カントの時代には、すでにミメーシスは猿まねになっています。ですから、大事なのはオリジナリティ、創発性。芸術も自然を手本とし自然を模倣するなどというものであってはいけなくなっています。自由の産出、自由による産出、自由意志を作動させ活用するもののみをアートとすべきなのです。ここでは人間は創発において特権視されることになります。同時に、自然というのは、かつてのような能産的なものではなく、力学的、機械的必然性に従うものとされるようになります。だからこそ、にんげんさまがそれを模倣したところで滑稽でしかないわけですね。でも、創発アナーキー、というかカオスになってしまうとそれはそれで困る。すると、自然の計画性と人間の能産性を一身に合致させるものが必要です。それが天才。

 自然が産出力を失い、逆に人間は産出するものになる。このとき、両者を媒介するのが天才の役割とされるようになります。天才たる詩人は約束するより多くを生み多くを与えるという能力を神から受け取り(41)このおまけ[un en-plus]という剰余価値は詩人によって受け渡されることでその無限の源泉へと回帰することが可能になります。(41)


「この天才たる詩人は、誰からも支払われない。その<より多く>ということについて、少なくとも人間のポリティカル・エコノミーにおいては、誰からも支払われはしない。しかし、神こそが彼を養う。言葉paroleを通じて、神は詩人と対話を交わし、感謝=承認と引き替えに、詩人にその資本を供給し、その作業=労働の力を生み出し、また再生する。神は詩人に、剰余価値を与え、そして剰余価値を与える手段を与えるのである。」(42)

 ついでにいうと、面白いことに詩人は王=太陽という形象に庇護される(43)ことになっています。まあ、自然もやがて枯れますから、自然そのものの再生力を保証するのは無限に恵を垂れる太陽の力、というところでしょうか。

 日照りの日も来そうな気もしますがね。スターリンショスタコービッチとか。。。

 とはいえ、ここで忘れてはならないのは、デリダは詩人を明らかに資本のメタファーで語っているということです。ですから、デリダははっきりとそうは書いていませんが、これはカントとほぼ同時代にアダム・スミスが先行的蓄積と呼んだような、あるいは後のマルクスにおいて原始的蓄積とされているようなテーマと合わせて読むべきなのでしょう。
 つまり、気の毒な詩人はいまや無尽蔵な剰余価値の産出者、といえば聞こえは良いのですが、そのメタファーがあるばっかりに延々と搾取され続ける可哀想な自然です。そりゃ、泉は枯れるし土地は痩せる。才能も枯れるでしょう。でもここでは、詩人は神から特権的に資本投下されているはずなので、枯れてしまうわけはないとでもいうかのようです。こうしてみると芸術家は資本家というより経営者で、資本家は神様のようですが、この資本家、村上ファンドよりもシビアに資本を引き上げてしまうように見えなくもありません。
 実際には、(誰か勤勉な人が倹約していたおかげで)文化的蓄積があり、そのリソースをとことん使い倒すことが出来た、と見るアダム・スミス的な見方か、あるいはマルクスのパロディーとして、ひとを消費者と芸術家に二分化し、消費者の側からは産出力を奪い、それを芸術家に「重点配分」(文科省の必殺技です)し、ついでにその芸術家の作品ないし興行からあがりをふんだくる(文科省の以下自主規制)というシステムと読むべきか、いずれかのほうが、少なくとも神授説よりは良いかもしれませんね。詳しいことは三浦朱門せんせいが斉藤貴男氏の取材に答えたあの発言をお聞き下さい。

 ここまで来るとそろそろ引っ張り出しても良いでしょう、ラカンせんせいの能書きを聴きましょう。


デカルト以降知は、とりわけ科学的知は、知の生産様式に基づいて構築されることになったのです。それは社会的といわれる我々の構造の重要段階と同時なのですが、それはまた社会的というだけでなく形而上学的でもあります。それは資本主義です。資本の蓄積、それはデカルト的主体が、ここでいう知の蓄積に基づいて確証され基礎づけられる存在に対して取り結ぶ関係なのです。(1965.6.10)

 次回はその辺も絡ませつつ、続きを見ていきましょう。