らららポンセ

 さて、前回はフロイトの「大洋感情」をテーマにしながら、その拒絶の背景には、自我の形成過程あるいは個体発生にとどまらないなにがしかの歴史的変化があり、それによってわれわれは、「バラ色の光」のなかでは息もできない哀れな魚になってしまったのではないか、と予想を立ててみたのでした。じゃあ、何の変化でしょう。

 そのヒントは二つ。一方は、以前もちょっと扱いましたが、デリダが『エコノミメーシス』で扱った自然とアートについて、あるいは自然観の変容と人間の想像力=創造力の位置づけの変化。他方は、ラカンがこの『文化の中の居心地の悪さ』をかなり長く扱ったセミネール第7巻におけるサド的な自然です。
 なんでいきなり自然なんだ、というご意見もございましょうが、それにはひとつ。先日とある研究会で新宮一成先生も述べていたとおり、フロイトが当時ゲーテ作品とされていた『自然について』に大きく影響を受けて進路決定を行った、という事実が一つ。つまり、フロイトはこの論考に見られるような、汎神論的な自然への賛歌に与するところがなかったわけではない、ということです。こうした汎神論的感情については、これまで何度か説明してきました。ですから、大洋感情と汎神論的自然には、密接な関係があるといっても、もちろんおかしなことではないはずです。ただし、問題は、自然とはこの当時、ドイツロマン主義においてマジョリティであった、スピノザをご本尊としたゲーテから初期シェリング的な汎神論のなかに位置づけられるものとは別の、様々な動きを見せていたと言うことです。たとえば、こうした汎神論的な自然への一体感は、ルソーの『孤独な夢想者の散歩』の第五の散歩のなかにすでに伺えるところであり、また、ゲーテ本人で見ても、若きウェルテルで語られているところでありますが、同時にウェルテルがそれをティピカルに示してくれているように、その自然はきわめてデモニッシュな凶暴性をはらんでもいますし、その裏表でもあります。じゃあなに、例のあの、内なる自然としてのエス!みたいな話をしたいわけ?とされてしまうと、ちょっと面倒なので、すこし論じてみましょう。
 『エコノミメーシス』でのデリダの立場は、もちろんかなり複雑なものですが、一つのモチーフを簡単に取り出せば、カントの時代までに、自然はかつてアリストテレスの時代に持っていたような能産性を失い、機械論的な因果法則に従うものに格下げされてしまい、人間(つうか天才)だけが唯一純粋な創発性、産出性を持つものであるとされるようになっていた、と。ここから、人間が資源である、という時代は始まったと言っていいでしょう。もっといえば、人間の情動が資源であり、あるいはそれは「人間の潜勢力」の資本化という最近のネグリからパオロ・ヴィルノにいたる議論につなげていくことも可能なはずです。しかし、同時にカントにとって、崇高のモチーフはどういうわけかつねに自然が例に取られていました。ここには一つの分裂がある、と考えてみることもできます。一方では自然は機械論的な合目的性と法則性に押し込められながら、同時にそれらを圧倒的に凌駕したものとして立ち現れてくるはずの崇高なものも、カントのイメージでは、自然だったということです。まあもちろん、それはゲーテの時とはちょっと違った形ではあれ、やはり裏表だ、と考えることもできますが。

 さて、しかし、ここにはひとつ、張っておくべき伏線があります。そのまえにつかの間、自然に悪というべき繁茂性が付与された時期があるのです。それが、サドが「悪徳の栄え」のなかで描いている法王ピオ六世のシステム。ここでは、自然は古典的な、そう「人間が人間を生む」によって成り立つ、ミメーシスの繰り返しによる自然な産出とその循環から逸脱し、その圧倒的な繁茂性によってその循環を破壊することが描かれています。『カントとサド』がここにも。カントが自然からは奪われ、人間の中にあり、それゆえ優れて人間的美徳であるとしたその自由な産出性を、サドはむしろ神に対立するものとしての自然の中に見いだし、それゆえにそれを、人間的悪の根拠となるものとみます。つまり、自然はあまりにも産出的すぎる。だからこそ、人間は破滅という役割を担ってよいのであるし、担うべきであると。

 ラカンは、セミネール第七巻において、このサドの自然を論じながら、即座にそれを隣人愛と結びつけています。

 「・・・彼は理論へと、語で語られた教義へ越えるのです。それは彼の作品では破壊の享楽、罪に固有な徳、悪のために求められる悪です。それは結局、『ジュリエットの物語』の中でサン=フォン*1という人物が神に向かって自分の信仰を宣言する奇妙な言葉、確かに更新されてはいますが、それほど目新しくもない言葉、つまり意地悪な至上存在という言葉です。
 この理論はこの著作の中で法王ピオ6世の<システム>と呼ばれています。この法皇はサドが彼の小説に登場させている人物の一人です。さらに彼は<自然>とは悪による悪の魅力と嫌悪の広大なシステムである、という見方を展開しています。ですから、倫理の歩みの本質は、絶対の悪への同化を極端に実現することにあります。そのお陰で、本性上悪である自然への倫理の統合は一種の反転して調和として実現されることになります。
 ここで私が指摘するのはただ、思考から逆説的定式の探求への諸段階として示されているものではなくて、むしろ思考の分裂、爆発だけです。それは、それ自体で袋小路へ至ることになる道です。
 しかし、象徴的戯れの秩序の中にいる限りでの我々にサドが教えていることは、限界を越え、隣人という領野そのものの掟を発見する試みである、と言えないでしょうか。この領野は、我々が我々自身の似姿に関わる限りで展開される領野ではありません。この似姿としての他者の中に我々は容易に自身の反射像を見ますし、我々自身の自我を特徴付けているのと同じ無視の中にこの他者を必然的に巻き添えにしています。その様な似姿としての他者ではなく、最も近いものとしての隣人に関わる限りで展開される領野の掟を発見する試みをサドは教えているのです。」

 ですが、ここはサドの言うような「残酷な神が支配する」という意味での自然と取るよりは、法王のいうような、圧倒的な繁茂性としての産出的自然、その繁茂性の故に腐敗にまで到達するような自然、というかたちで押さえてみてもいいでしょう。そして、その自然は人間においては、《他者》の享楽というかたちで、隣人愛、己にもっとも親しい内的なものでありながら、己にとって異物であり、そして己の知らないところで己を用いて享楽している、そんな《他者》の享楽の持つ産出性としての自然の産出性として重ね合わされている、ということです。たとえば、ブランショのサド論(『ロートレアモンとサド』小浜俊郎訳、国文社、1970)では、サドにはフロイトを先取りしている思想がある、として、以下のような文章が紹介されています。「これこれの幻想をわれわれに可能にする諸器官が製作されるのは、母親の胎内においてであり、現前した最初の物体、聴取された最初の話が発条を完全に決定してしまうのだ。」(222)この段階で、ブランショがどこをフロイトの先駆と見たのかははっきりしません。しかし、ちょっと見た目にそう思えるような、幼児期とりわけ母親との関係がもつ決定論、のようなかたちで、これがフロイトに先駆けていると考えるのはちょっと皮相的。むしろ、この箇所は「現前した最初の物体、聴取された最初の話」ということばに、フロイトが『科学的心理学草稿』で持ち込んだ、最初の他者との共鳴関係を聞き取るべきでしょう。そして、そのラインを引くことで、ラカンがサド的自然から隣人愛に話をズラしていったことがより理解しやすくなります。ご存じのように、セミネール第七巻では、隣人愛はこの最初の他者に対する拒絶と関係づけて論じられているのですから。


 そうそう、このへん、ちょっと細くしておきましょう。おなじく、ブランショのサド論(『ロートレアモンとサド』小浜俊郎訳、国文社、1970)から。「この奇妙な世界は、もろもろの個人ではなく、多かれ少なかれ興奮し緊張したもろもろの力の体系で構成されていると、言うことができよう。緊張の低下が起こる場合、破局は避けがたい。さらに、自然のエネルギーと人間のそれとのあいだに差異を付ける必要はないのだ。」(217)ここまでストア派からモッラー・サドラーからと見てきたような、力の一元論的システムの中に、サドも位置づけられるとブランショは言います。*2

 そして、このことの意識をもっともはっきり伺わせてくれるのは、シェリングの『人間的自由の本質』であることは、まちがいありません。シェリングの神は、「神自身のうちにおいて神自身でないものに、すなわち神の実存の根底であるものに」(61)苦しめられています。もちろん、シェリングはそれを苦しみとは言いません。憧憬といいました。しかし、根底にあるのものが混沌とした無規則であり、「決して割り切れぬ剰余であり」(62)そこをもとに万物が、それも神の努力によって秩序あるとものとして生まれている、ということは確かです。この暗き淵の底に輝く憧憬によって、神が自らを表象しそれを観想することで、世界は秩序へと向かいます。そのために、神の似姿としての人間は作られる。神の道化とはいいませんが、神の箱庭療法といってもおかしくありません。シェリングの時点で、自然の秩序はその根に深い混沌を持つのです。この憧憬を、あるいは『カントとサド』のラカンなら、意志と呼んだかもしれません。己のうちの享楽に苦しめられた神は、人間を道具として、よく言えば己の似姿として、わるく言えば悪魔の糞便として生み出すことで、正気を取り戻します。そして、この奇怪な落とし子たる人間の宿命は、この神の歩みに従って光を求めて秩序へと己を回復していくこと、なのですが、しかしサド的に居直れば、混沌と闇の結晶として生まれてきたからには、悪事の限りを尽くしてあげるのが神様に対する親切ってもんだわ、ということにもなるのでしょう。
 じじつ、ブランショはこうも言います。「生であるがゆえに犯罪が自然の精神にいっそう符合する」のであり、それは「創造を欲する自然が破壊する犯罪を必要としている」からであるが、しかし、こうした自分の保証人たる自然に対してさえ、サド的人間はいらだち、その保証人たる自然を我慢できないものとして呪詛し、否定するのだと(212)。「自然を侮辱する要求をおのれのうちに持つ人間」(215)、こうした無への意志、「否定の精神」と同一化されることによって認められる人間の主権(218)は、「おのれのなかに快楽の能力を根絶したためにこそ偉大」なリベルタンを、ストア派的な無感覚アパテイへと変えていき、それがゆえに狂暴なものへと化していくのです。この快楽をフロイト的な(緊張の緩和によって特徴づけられる)快感と一緒にすることは、もちろんできませんが、この「快楽」と横並びに「一瞬の美徳の動き」(221)も同列に並べて、否定すべき対象として描かれていることは注目すべきでしょう。

 さて、こうして論じていくことで、大洋感情の裏面としての、《他者》の享楽、という構図はある程度正当化されるのではないかと思います。そして、ここに一つ付け加えることがあるとすれば、前々回まで見ていたような、存在から本質への動きを、現前する世界の創造ないし生成として、ここに重ね合わせて考えるのであれば、この析出関係が決してスムースな変移によって、つまり自己の内的運動の成果のみによってとらえることは、もはやかなわぬとシェリングが見ていたという点でしょう。つまり、この存在と本質という二重化は、スムースには折り重ならない。そこには綺麗に折り重なることを許さない、何かしらの過剰が、あるいは「割り切れない残余」が存在していて、人間はむしろそこに関係を持ち、シェリング風に言えばそれを処理するための存在として、産み落とされたと言うことです。まさに選ばれし者の恍惚と不安。

 さて、以下はちょっと余談です。

 この、享楽している神を、欲望している神あるいは斜線を引かれた《他者》に変えること、あるいは自然の過剰を自然の秩序へ変えること、対象aはそこにこそ位置づけられ、そして同時にその不可能性、あるいは割り切れなさ、剰余に重なります。この「割り切れない」余ないし剰余としての対象aという考え方は、ラカンセミネール第10巻の第二章第三節で提起したものです。いまだ存在しない仮構の主体としてのSは、シニフィアンの領野Aに捉えられる。かれを捉えたその最初のシニフィアンが、trait unaireです。それによって、主体は斜線を引かれたものとして初めて仮構ではなく登場する。しかし、じゃあ、それによって主体と《他者》の対応関係が綺麗に成立し、ラカンの言葉を借りれば、《他者》がまるっときれいに輪切りになったかというと、さにあらず。そこには剰余としての対象aが残ります。神がおのれの内なる混沌をまるっとさくっと秩序=自然へと変換できず、人間を生み出してしまったように。しかし、そのことによって人間は神の希望を一身に背負った、いわば神の欲望の対象として登場します。それゆえに、《他者》もまた、斜線を引かれた《他者》、ラカンの言葉をここでも借りれば「わたしの手に届かない《他者》」(37)に、無意識の《他者》に、わたしを欲望する他者に、こちらも仮構の立場にあるものとして、登場します。

 同じ構図は、おそらくストア派を論じるドゥルーズにも意識されていたはずです。一方に、深層、物質性と原因性、他方に表層、非物質的なものと準-原因。この準原因は、物質の持つ原因性が非物質的な表現形と取りきることができない、十全に表現形となることができないからこそ生じたものと考えるのか、あるいは、そうした階層構造をある種のねじれによって平面化するためにあるものなのか、それとも階層性そのものを廃棄して表層へと一元化するのか、様々な選択肢があり得ます。ドゥルーズを論難するジジェクは、ここを突いている、ということは、以前ちょっとお話ししました。それが本当のところどうなのかは、またゆっくり検討してみなければなりません。

 とはいえ、一歩間違えればいつでも混沌と秩序の弁証法くらいの話まで落ちていきそうなこの展開、それを、二元論の拒否というかたちで解消するのか、それとも、すべては混沌の中に、しかしにもかかわらずわれわれは奇跡のように世界を捕まえ、奇跡のように世界はあり、そしてそれゆにえ、にもかかわらず歴史はあるのだ、という、対象a的なかたちにもっていくのか、雨に打たれてだいぶ落ちかけた半木桜の下を歩くとき、どことなく後者に魅力を感じないわけではないのです。って、オチはまたそれかい、というご指導は快く受け入れることにして。


 つぎは藤の季節だ。

*1:この後の文脈の都合上、Sans-fondかしら、と思ってしまうのですが

*2:まあ、それはともかく、かつてわたくしの指導教官は、幻覚の持つ産出性について、わたくしに注意を促したことがありました。というわけで、この広義としての《他者》の享楽のもつ産出性と、そして若き日のフロイトを魅了したであろう、汎神論的な自然のもつ産出性、それがじつは同じ時代に生まれた自然観の裏表かもしれない、という可能性を、いまちょっと考えています。