真理と過剰、あるいは過剰な真理

 さて、この三回ほど、フーコーの「精神医学の権力」を論じてきました。前回は、フーコーのいう「真理の計略の次元l'ordre du stratageme de verite」(34)というところで話を終えたのでした。たとえばシャルコーの時代の例で言えば、安定した症状を出す代わりに、保険がつくよ、ってなもんです。医者はその症例のおかげで神経科というまだ日の浅い学問を確固たる地位に仕立て上げることができ、患者はこれまたできて日の浅い保険制度の中で、立派な病人として保険の受取人になれるっていう話です。

 この見方は、たとえばトビー・ナタンの民俗精神療法(先年最初の訳書「他者の狂気」もでましたね)や、日本でも中井久夫先生の治療文化論などを参照すると、より納得の行くものになります。以前もちょこっとお話ししましたが(このあたりをご参照下さいませ)、症状というのは基本的に多様なもので、誰にとってもわけのわからんものです。そこで、みんなで話し合います。治療者の側には一応伝統的な知識と経験がありますから、いくつかのモデルを提示していきます。このとき面白いのは患者の側の位置です。患者はこのよくわからん現象の目撃者かつ被害者のような位置づけになります。ですから、その貴重な証言を元に事態をモンタージュ。もちろんどれにも似てないかもしれませんが、たとえば「うーん、おキツネさまってことにしておいてくれると、こういう手があるんじゃけどのぉ」というような感じで、治療共同体が話を引き受けてくれる。あるいは場合によっては新しい神話をつくって受け入れてくれる。患者の方も、「じゃあキツネじゃったっちゅうことかいのぉ」となる。逆に言えば、我々の時代の神話というのは保険(というか保険の点数)であったということになります。そうすると、「無意識は保険のように構造化されている」ことになります。一度やってみたいと思っている年来のネタなのですが。。。


 うんうん、じゃあお前はフーコーの話に納得しているのではないのかい?と思われるかもしれませんが、フーコーのモデルの一つの欠点は、しかしながらこのあとに現れてきます。
 フーコーの言うように、この患者側の症例の提供は常に過剰です。患者は症例を提供することで、神経科医を神経科医として構成してやれる立場にいる、つまり権力的に優位です。「ヒステリー患者に対して規則的な症候が要求されるときに与えられるこうした追加的権力のなかへとヒステリー患者の快楽のすべてが一気に向かっていくことになります。そして、ヒステリー患者がなぜ、望まれるとおりの症候、さらには望まれるよりはるかに多くの症候を、全く躊躇なく提供したのかということも、ここから理解されます。」(313)とフーコーは述べます。しかし、それは必ず「性」という表現をとることになる。これは、医師にとっては困る事態です。これまで築き上げてきた病気としてのヒステリーが、もう一度単なる性的欲求不満の女の詐病に差し戻されてしまうかもしれない。しかし、症候や発作を要求したのがシャルコーその人であり、患者はその規則に従って自分たちの個人的な生の全体、自分たちのセクシュアリティを駆り立て、医師を相手に再現働化していただけなのですから、シャルコーにできるのは沈黙を守るか、あるいは反対のことを述べることであった(323)とフーコーは言います。

 フーコーはそれをこう結論づけます。


「私には、このような種類の大騒ぎや性的な身体表現が、ヒステリーの症候群の解読不可能な残余であるとは思えません。私は、こうした性的な大騒ぎを、外傷の指定に対するヒステリー患者の対抗的術策と見なす必要があるように思います。あなたは、私の症候に病理学的な意味を付与し、自ら医師として機能できるようになるために、私の症候の原因を見つけたがっている。あなたはそうした外傷を欲している。ならば、私の生の全体をとりあげたまえ。そうすれば、あなたは私が自分の生を語るのを聴かぬわけにはいかないだろうし、私が新たに自分の生を身振りで示すと同時にそれを発作の内部で倦むことなく再現働化するのを見ぬわけにはいかないだろう、というわけです。・・・したがって、セクシュアリティは、解読不可能な残余ではありません。それは、ヒステリー患者の勝利の叫びであり、ヒステリー患者が神経科医に最終的に打ち勝ち、神経科医を黙らせるための、最後の術策です。」(324)

 ここで説明はややこしいことになります。なるほど、たしかにそれをヒステリー患者の権力抗争の手段と考えることはできないではありません。よりいっそう訳のわからない、相手が困るようなことを言う。それも、相手の要求どおりに、それをちょっと過剰にしただけなのですから、相手に責められる筋合いはありません。そして相手はそれを再度解釈しなければならなくなり、右往左往しているわけですから、そりゃ自分の権力をより確かにしたような気もしてくるでしょう。
 ですが、もうひとつの説明、たとえば保険を巡る闘争の結果はどうなりましょう?この過剰さの故に、ヒステリー患者はせっかく手にした利権をまるまる失ってしまうかもしれないのです。もちろん、更に有利に話を進めるつもりでレートをつり上げて、元も子も失ってしまうなんて話は良くあるし、バカがよくやること、それまでのことさ、ということもできるかもしれませんが、なにやらしっくり来ない。たしかにそれを権力抗争と捉えることはできたとしても、例えて言えばガン細胞が宿主を殺してしまうような「過剰さ」です。そして、わたくしはこの「過剰さ」が、フーコーの意識の中にどう位置づけられるのかを、いまだちょっとはかりかねているところがあります。

 じっさい、疾病利得という業界用語があるくらい、症状というのはどこかの妥協点で安定をもとめたがるところがあります。たしかに、そのはじめにあった過剰さを否定する必要は全くありませんが、フーコー的な真理の抗争というものは、すくなくともいくつかの治療文化のなかの治療モデルでは、むしろこうした妥協形成にむけて機能しています。疾病利得がそれを示唆するように、西洋の19世紀の後半から20世紀初頭にかけて成立した福祉社会とその保険制度も、ある意味ではその妥協形成の機能のうえに乗っかっています。つまるところ、フーコー的な語彙を使って、戦術や術策というのであれば、戦術や術策の常として、そこには必ずゴールがあり、ゴールに向けた妥協点があるはずですし、ヒステリーにはそうした戦略は確かにあります。そのなかで、ヒステリー者がよりよい地歩を築けるような戦術を選択し、その戦争を見事打ち勝ったというのであれば、それはヒステリーの勝利でしょう。しかし、フーコーが取り上げたのは「真理の抗争」をめぐるそうした戦術目標もなにも一切合切吹き飛ばしてしまうような現象であり、それは過剰というほか評しようのない結末です。にもかかわらず、フーコーはそれを「真理の抗争」における勝利のように捉えてしまう。

 ですから、一方でその過剰さを貫き通したことを勝利と考えるのであれば、それは「真理の抗争」とは何か違った戦いでの勝利と考えなければなりません。他方で、「真理の抗争」における勝利だとするなら、たとえば疾病利得に代表されるような、保険制度の中で安住できる「病人」の誕生という、ある意味ちょっと後ろ向きの勝利を勝利と考える方が普通であり(事実フーコーもそれを勝利としているような箇所があります)、その観点から言えばこの過剰さは何もかもを台無しにしてしまうものでしかありません。

 わたくしは個人的には、こうした諸々の装置、制度の布置の中での諸勢力の均衡として成立する真理を治療モデルとして受け入れるようなかたちでの共同体のあり方に希望を持たないわけではありません。そうした論考を含む論文にたいしてわたくしの指導教官のコメントは「そうは言っても確実にその構築を破壊しに来る幻覚の力をどう評価するのか」というものでした。あるいはフーコー風にいえば、この真理を巡る抗争は長く続き、決して安定するところがない、といってもいいかもしれません。その過剰さ、あるいは原初的な不和というものは、フーコーの中でどう位置づけられるのだろう、ということが一つの疑問であり、さらにいえば、フーコーが依拠しないと宣言する制度的なもの(ドゥルーズの依拠するヒュームと、またガタリやトスケル、ウリらと、ちょっと違った二つの文脈でこの語が重要視されていることは、ご承知の通りですが)というのは、この戦いの中での均衡を見つけ出すための試みだったのではなかろうかとも思えるのです。

 しかし、フーコー的な議論が、この種の不和あるいは過剰というものを、それと名指すことでそもそもそれをどこかしら超越論的な位置に置いて議論を展開することをよしとせず、 あくまでそれを実際の力の動きと変動を描き続けていくことで示唆しているのだ、と考えることも、もしかしたらできるかもしれません。その場合でも、そうはいってもやはり、戦いにおける勝利のモデルが、「有利な和平協定」から「敵の徹底的な殲滅と戦闘それ自体の自己目的化・永久機関化」に変わったのはどこなのか、ということもまた、知の考古学の中での一つのテーマとしてそれ自体考察されるべきだったのではなかろうかしらん、とわたくしは考えるのです。

 確かに、フーコーの言うとおり、このヒステリー者による性の「見せびらかし」によって突破されてしまった神経学的身体の下に、性的身体が現れる、という経緯を歴史は辿ることになります。しかし、それはタマネギ剥いたらまたタマネギ、の入れ子式の、新しい権力闘争の様式なのでしょうか。それとも、精神分析でいう「性的」とは、この「真理の過剰さ」に付けられた名前そのものなのでしょうか。そして、もしかしたらフーコー的な真理とその権力抗争そのものが、こうして歴史の中に始めて登場した過剰な真理によって支えられる者だったのだとしたら、どうなるでしょう。

 精神分析では、それを享楽と名づけているのかもしれません。