カイロス的真理

 さて、前回はフーコーの「精神医学の権力」について、読後に残ったちょっとした違和感は何なんだろう、と思いながら、その理由を探るべく本の内容を簡単に整理しよう、というかけ声で終わっていたのでした。まあ、ともあれ普遍的な内容を少しでも含まないといけませんしね。どうでもいい人間のどうでもいい違和感だけじゃ後悔する意味もありません。。。

 というわけで、いちおう本書の目的は19世紀における精神医学の変容を君主型権力から規律型権力への移行という流れにそってたどることであり、それも単に精神医学の歴史を追うことだけが目的なのではなく、真理の性格そのものが、「出来事としての真理から証明される真理への移行」という変遷を辿っているのではないか、というフーコーせんせい年来のプロジェクトの一環に組み込まれている、ということでした。まあ、全部ご本人が明晰に語っていてくれるのですから、まとめる手間もかかりません。じつにいい人です。

 そうはいっても、まあ一応ご本人の証言を取っておきましょう。
 君主権から規律権力の移行に関しては、非常に明快ですのでここでは手短に触れるにとどめましょう。「君主権力が、何よりもまず、その権力を保持する個人の輝かしい力の諸々の象徴によって表明される」(23)のに対して、「名も顔も持たぬ匿名の権力であり、さまざまに異なる人々のあいだに分配される権力」(23)であり「このように断首され王位を剥奪された権力の代わりに、多数多様で生気に乏しく精彩のない匿名の権力が配置されるのであり、わたしはこの権力を、規律権力と名づけようと思います。」(23)と述べられています。その規律システムの動作の特徴は、これらのシステムを作動させたり機能させたりする頂点の側で、個人の機能が消え去り、ひとりでに作動するようにつくられていることです。そして、それを引き受ける者ないしそれを指導=監督する者は、一人の個人であるというよりもむしろ、誰によって行使されてもかまわない一つの機能であり、これは、君主権の個別化においては決してありえないことだ、とフーコーは指摘します(56-7)。そして、その規律権力の目的は個人の身体・時間・行動様式を完全に捕獲することであり、言ってみれば人間を「身体のいわば機械的要請les exigences en quelque sorte mecaniques」(25)に従ってのみ扱うことで、統治される対象に確固たる基底を与えてやることです。

 その背景として、フーコーが指摘するのは以下の通りです。


「規律の装置の一般的確立の背後において問題となっていたもの、それは、人間の集積と呼びうるようなものであると思います。つまり、資本の集積と平行して、そしてそれに必要なこととして、ある種の人間の集積を行わなければならなかったということ、あるいは、こう言ってよければ、あらゆる身体の単一性のうちに現前していた労働力の配分を行わなければならなかったということです。」(73)

 ついでながら、このおまけというか副産物として、「身体の単一性の背後に、そうした単一性の延長もしくは始まりとしての、潜在的な一つの中核、一つのプシケが投影され、さらには、そのように構成されたすべての個人のために、分割の原理としてのノルムと、普遍的な処方としての正常化=規範化とが打ち立てられる」(57)ことになります。「そして、十九世紀および二十世紀において<人間>と呼ばれるもの、これは、法的個人と規律的個人とのあいだの揺らぎが残した残像のようなものに他なりません。」(60)この辺は何となくフーコーせんせい節って感じですね。

 そして、こうした規律権力の浸透は精神病院にももちろん(あるいは特権的といっていいほど明らかに)見受けられるものです。フーコーせんせいはそのいくつかの実例を挙げて議論を補強していきますが、今そちらを追うことはやめておきましょう。むしろ、この規律権力への移行というある意味世俗的な次元が精神医学という学術領域に浸透して来るには、真理というものを巡るあたらしい考え方が現れてきたことを背景にしているからと考えてみてもいいのかもしれません。フーコーは言います。


「わたしがやろうと考えていること、私が過去数年にわたってやろうとしてきたこと、それは、真理の歴史を、もう一つの系列から出発して研究することです。すなわち、私は、今や確かに押しのけられ、覆い尽くされ、遠ざけられてしまっているテクノロジー、つまり、出来事としての真理、儀礼としての真理、権力関係としての真理に関わるテクノロジーに特権を与えて、それを、発見としての真理、方法としての真理、認識関係としての真理、したがって主体と対象との関係を前提しその内部に位置づけられるような真理に対置したいと考えているのです。」(239)

 そして、科学的実践と同一視されている論証としての真理が儀礼・出来事・戦略としての真理から派生した延長線上のものということを示す。これが「知の考古学」と呼ぶものの役割である(239)、そういう風に、フーコーはいいます。ついでにいうと、この逆、つまり知の考古学の裏面が、認識の系譜学であり、それはどのようなしかたで認識としての真理が出来事としての真理を占領支配したのかを探るものであるとされています。(239-40)

 もうひとつ、フーコーのいう権力、puissance(この言葉は日本語に直せない哲学用語の親玉格ですが)は、厳密に「出来事としての真理」に関するものとしてつかわれていることに留意する必要があります。


「権力」という語が未だ謎めいた部分を持ち、それについて探求の余地があるということについては、それを認めなければならないが。そうした権力の整備、そうした権力の諸々の戦術と諸々の戦略が、どのようにして、諸々の肯定、諸々の否定、諸々の経験、諸々の理論、要するに、真理の作用の一式を生じさせるのであろうか。権力の装置と真理の作用、権力の装置と真理の言説。こうした問題を、私は今年、精神科医と狂気との関係という問題から出発して検討したいと考えています。」(15)

 フランス語から日本語に訳しづらい用語であるというより、そもそも使っているフーコー先生からして、定義が難しいといっているわけですから訳すのが難しくてそりゃあ当然なわけですが、それにしても、これだけではなんのことやらさっぱりわかりません。真理というのは権力が生み出す、つまり偉い人がそうだといったからそれは真理、ってだけのことを言っているのか?と思われてもしかたありませんが、さすがにそんなラフなことを言いたいわけではないでしょう。実際に、フーコー先生がこの言葉を「精神科医と狂気」という文脈で使っているところを見てみましょう。

 まずは、その文脈で更に限定された形で現れた、権力の問題について。


「・・・測定器具の媒介によって示されるのではなく、儀式によって誘発され、狡知によって捉えられ、機会に応じて把握される真理。ですからこの真理に関しては方法が問題なのではなく戦略が問題となります。この真理−出来事と、そこで把握されるもの、それを把握し、あるいはそれにぶつかるもの、その関係は対象と主体の次元ではありません。結果として、それは認識関係ではありません。・・・したがって、認識の関係ではなく、権力の関係なのです。」(237)

 なるほど、してみると、まずは精神医学においても、別の形での真理が機能していた時期があった、ということから例証は始めねばなりません。
 この真理は、フーコー自身もその言葉を使っていますが、中井久夫先生いうところの「カイロス的」な真理だということになります。科学で言う真理が、いつでもどこでも誰にでも、というのを売りにしているとすると、こちらの真理はしかるべき知を持った人間が時をうかがいその時を待ち、必要な手立てをうって、じっと待ちかまえて捉えるものです。
 どこかしら神託的なこの真理ですが、そのよい例は分利criseという概念に現れています。まあ、基本的には急性増悪や、あるいはもっとポピュラーに発作だったり急激な発症だったり、場合によっては「今夜がやまだ」みたいな時に使ったりすることば。お医者さん用語ではクリーゼというドイツ語のまま使うことも多いようですね。語源はギリシャ語で「決定・転機」です。ですから、フーコーが言うように、「分利が起こるとき、病は、その真理において姿を現します・・・分利が起こるまで、病はあれやこれやであって、実のところを言えばそれは何ものでもありません。分利、それは、いわば真理へと生成しつつある病の現実です。そして、まさしくここにこそ、医師が介入しなければなりません。」(243)というのも、まあその通りです。

 次回は、この真理をもう少し追っていくことにしましょう。