フーコーの風向


 時折意外だなと思うことの一つに、身近な知り合いの精神科医のあいだで、あまりフーコーが評判がよくないということがあります。
 評判がよくないではちょっと言葉が強くて語弊がありますね。すぐに言葉を改めましょう。どうも、ぴんと来ないというか、あまり気を入れて読みたいという感じじゃなかったというか、そういう、どちらかというと「しっくりこない」感と言った方がいいでしょうか、そういう態度を取っている知り合いが多い、というだけのことです。
 もちろん、身近な範囲限定の印象ですから、そもそも母集団にかなりの偏りがあることは否めませんが、それにしてもラカンほかの思想的なことに興味を持つ人もいれば、精神医学史的な興味を持っている人もいるわけですから、やっぱり、ちょっと意外といえば意外です。反精神医学的な傾向があるから当然だ、という意見もございましょうが、見掛上もう少し過激に見えるドゥルーズ=ガタリは賛否両論あるにせよもうちょっと色々と刺激となっているようなのですから、一概に当然とも言い切れません。

 そんなわけで、あらとりあえずフーコーの話をしたはいいものの、どうも風向きがあやしいぞ、と思いつつも、まあ彼らとはまるで畑違いの領域に身を置く我が身としては、ふーんそんなものなのかな、まあどこの業界にも業界特有のしきたりや了解ってあるし、そういうもんなのだろう、と思いはしたものの、個人的には十分楽しくフーコーを読ませてもらっていたので、そんな軽い違和感に対する軽い違和感も、ずいぶんと昔に忘れていました。まあ、所詮は日常雑感の延長程度の話ですしね。
 そんな昔の記憶をふとよみがえらせるきっかけの一つは、先年夏に来日したジャン・ウリの講演会を聴いたことです。
 ウリに関しては、日本での知名度は今ひとつかもしれませんが、ガタリと共にラボルド病院を運営していた方、というと、イメージがつかめますでしょうか。日本語でも、「精神の管理社会をどう超えるか?」などでその一端に触れることはできますから、ドゥルーズ=ガタリはああ言っていたけど、じゃあその考えは実際の臨床のなかでどういかされたのだろう、という興味のある方は一読なさってみて下さい。
 ガタリは元気な人だ、というイメージは皆さんおありでしょうが、この書物のなかではそれ以上に筋金入りに元気な(なにせスペイン市民戦争からの生き残りです、、、)トスケルじいさんがご登場遊ばしますので、そのなかでちょっとおとなしめに見えたウリさんですが、並んだメンツが悪いというだけで本人は至って元気すぎるじいさまだ、というのが、この講演会の思い出の一つ。

 さて、その講演のなかでウリさんは、イタリアの精神医療の現状を批判したあと、フーコーについても軽く触れ、「彼は精神医学のことは何もわかってなかったと思う」という内容の発言をしています。
 当時もちょっとびっくりした記憶がありますが、なにぶん講演会の流れのなかで出た発言ですから、フーコーについてのまとまった議論として出てきたわけでもなく、さてどういうことだろう、という軽い違和感だけを残してその場は過ぎ時も過ぎて今に至ったわけですが、フーコーの「精神医学の権力」を、先日翻訳が出たのをよい機会にもう一度見直してみたとき、なんとなく感じた違和感がかつての諸々の違和感となかよく手に手を取って甦ってきたのでした。これもやはりよい翻訳のおかげでスピードをもって読むことができたからでしょう。想定された発表形態に応じて読書のスピードを変えることで、印象はだいぶ変わってくるものですし、セミネールにしてもそうですが、講義などの文献はある程度のスピードをキープして読まないといけません。原著だとなかなかそういうわけにも行かない哀しき我が身の語学力です。。。

 さて、だからといってその軽い違和感をはっきりと形にできた、というわけではさらっさらなく、わたくしもまたなんか違和感を感じた、という以上のことではないのですが、何はともあれ読んでいくことでその感覚を少しでも明快にしてみる努力はしてみることにしましょう。訳はかなりの場合前掲の邦訳書のものをそのまま借用していますが、わたくしの訳も紛れていますので、一応括弧内の数字は原著で記してあります。なにも拙訳のほうがよい訳というわけではさらっさらなく、古いノートの都合上っちゅうだけなのですが。。。

 あらかじめ申し上げておきますと、おそらくわたくしの違和感は「どうしてフーコーはああも簡単に、ヒステリー患者を反精神医学の闘士としてまつりあげてしまうのだろう」ということに関係します。

 同じ講義といってもラカンの無駄話の多い講義(「無駄話ではじまり - 思いついたように真面目な話をするが - 無駄話に戻って終わる」と「真面目な話で始めるが - 気合いは長続きせず無駄話に流れ - おしまいに駆け足で真面目な話に」の二パターンに大別できる。。。)とはことなり(まあコレージュ・ド・フランスという場のプレッシャーもあるからではありましょうが)フーコーの講義集成はどれも至って明快で実の詰まった内容です。あえて整理する必要もないほどですが、いちおう講義の流れの二本柱を切り出しておきましょう。


 ひとつはこの講義の表だっての目標です。君主型権力から、規律型権力への移行。それを精神医学の現場というミクロな実践のレベルで明らかにしていくこと。
 もう一つは、ご本人もいうようにその当時のフーコーにとっての大きなテーマ、真理というもののあり方の変容を捉えることです。フーコーの言葉を借りれば、出来事としての真理から証明される真理への移行(237)ということになります。

  簡単に言ってしまうと、本講義の目的は、19世紀における精神医学の変容ということになります。1810年代のジョージ三世の精神錯乱という印象的な事件から始まり、シャルコー学派とその終わりを通じて精神分析学と精神薬理学への展望を開くところで結ばれる。そのなかで、この変容が一番目の柱、君主型権力から規律型権力への移行という流れにそって、事細かに論証されていきます。

 しかし、この話の難しいところは、それが第二の柱、フーコーの年来のプロジェクトである「出来事としての真理から証明される真理への移行」とどう重なるのか、その関係はとても一筋縄ではいかない、というところでしょう。君主型権力までは真理は出来事として扱われていたけど、規律型権力では真理は証明・論証されるものになったんだよ、それで精神医学でもね、患者の病の原因とか病因とかみたいなものの真理というものをさ、こんな風に扱うように変わっていって、それは患者自身をこんな風に扱って管理することとも重なっていて・・・という風になれば、そりゃあ話は明快なのですが、やっぱり世の中そんなに綺麗には話は進みません。もちろん、フーコーだってそんなことを考えていたわけではさらさらないのでしょうが。 

 しかし、何はともあれ、じゃあその君主型権力やら規律型権力やら、二種類の真理やらって何よって話になりますから、そこをまずまとめてから考えてみることにしましょう。