ことばの下のことば(4)

 さて、長々と続いたジャン・スタロバンスキーの「ソシュールのアナグラム 語の下に潜む語」(金澤忠信訳、水声社、2006)も今回で一応のオチ、ということで、最後は精神分析的な立場からの考察、というより見通しを触れておきましょう。二つめの搦め手、テレパシー論への叩き台として。

 前回お話ししたように、この著作と精神分析的な言語感を重ね合わせる思考は、とりわけルクレールアブラハム=トロックらに見られるような形で同時代的に豊かに花開いていましたし、そのことはスタロバンスキーも十分に知っていたことでしょう。ルクレールアブラハム=トロックの側からのスタロバンスキーへの言及は、ちょっとまだチェックしていないのですが、それほどはっきりと述べられていたような記憶はありません。ですが、知らなかったことはないと思われます。
 もう一つ付け加えておけば、ラカンが「エクリ」の冒頭においた「盗まれた手紙のセミネール」の終わりの方を飾る例の図式も、ラカンサイバネティクスを援用しつつ、言語の自律的な運動からの主体の産出を論じたものと考えることが出来ます。お暇な方は以前書いたこのあたりに目を通して頂ければ幸いです。

 しかし、わたくしがスタロバンスキーによるソシュールアナグラム論を心待ちにしていたのは、そことは、つまりこうした重ね合わせとはちょっとずれた関心の故でもあります。言ってみれば、それは主体の発生論というよりもう少しコミュニケーション論的よりな関心です。それは以下の箇所によく現れています。


「詩的言説において、読み手や聞き手はその言説のキャンパスをなす語を認識しているのだろうか。ソシュールの推測によれば、ラテン語の聴衆に関しては、肯定で答えなければならない。読み手、聞き手は、想定されたsub-posee発話paroleを識別することができた。しかも詩が複数の<テーマ - 語>を含んでいるときでさえそうなのである。」(80)[65]

 そうです。フロイトラカンのテレパシー論との重ね合わせ、という、ちょいとばかり電波に取られそうなのであんまり言いたくない話を前に述べておいたのは、このため。
 素材が詩文とその規則(暗黙か明示的かはともかく)であり、かつソシュールによってアナグラムと呼ばれるものが実際には音韻の面に着目したものである以上、それは「実際に声に出して読んだとき」(声に出して読みたいラテン語・・・)の効果が狙いだったはずなのです。ソシュールの説明では、詩人、聴衆ともがその効果に意識的であったとされています。ですが、同時にソシュールはこのアナグラムは師から弟子へと一子相伝北斗神拳二千年の掟であるがゆえに、詩文の規則書やマニュアルにのっていないのではなかろうか、とも疑っていたくらいなのですから、そちらの説を採るとすると聞き手のほうがそれを知っている、というのは、ちょっと変なことになります。あるいはサブリミナル効果(これもその効果がホントかどうかはさておいて)のように、知っていても引っかかる、ということもあるのかもしれませんが。
 しかしもし、現在、われわれの(あるいは分析家と分析主体の)あいだのコミュニケーションにおいて、こうした背後の構成的規則がそれとは意識されないまま共有されていて(あるいは感染・伝達されていって)ごく普通の会話の中にアナグラム的に隠された(それがソシュールの言うような規則に同じように従うかどうかは別として)テーマとなる語を、暗黙のうちにやりとりしているのだとしたら・・・ということ、それが、フロイトラカンが時折どうしても悩まされることになったテレパシー的現象の説明の足がかりの一つになるのだとしたら・・・というのが、この本にかけていた内証の期待であったわけなのです。

 ああ、そこ、妄想って言わない。そんなの知ってる。

 しかしながら、もし精神分析で欲望と呼ばれるものがあるとすると、それはこの語が語る、ということなのではなかろうか、とも思うのです。そうすると、無意識とは、それをアナグラム的に分散させていく一つの規則ということになります。そして、わたくしは少なくともそんなつもりでこの、以下に引用するスタロバンスキーのセンテンスを読んだ、ということをお話ししておかなくてはなりません。多分ちょっと牽強付会なのですが。


「だがおそらくソシュールの唯一の誤謬とは、「偶然の結果」と「意識的手法」の二者択一を、かくも明確に設定してしまったことである。このとき、どうして意識も偶然もともに放逐してしまわないのか?どうしてアナグラムに発話パロールからの過程−純粋に偶然でもなく完全に意識的でもない過程−という様相を見ないのか?発せられても黙ってもいない最初の発話からの/素材を、言説に投影し倍加する、発生源としての反復語、同語反復が存在しないわけがあろうか?アナグラムは意識的な規則であるわけではないけれども、規則性(ないし法則)と考えられうるのであって、そこでは<テーマ- 語>の恣意性が過程の必然性に託される。」(186-7)

 さて、わたくしのこうした希望も相当電波ですが、ついでながらお話ししておくと、スタロバンスキーせんせい本人も、このソシュールアナグラム論の解釈からさらに思惟の翼を大きく広げているのでございます。


「問いはこうだ。詩行の直接背後にはいったい何があるのか?答えは、創造する主体、ではなく、帰納・誘導する語le mot inducteur、である。」(184)[152]

個人的には、この箇所で帰納という訳語が良いのか、ちょっとまだわかりませんが、ここまでの論述からも、この部分はすんなり納得が行くことでしょう。そして、この前提を踏まえれば、詩の分析とは、


「詩の諸々の語の下にある潜在的な言葉une latence verbaleを明らかにしなければならない。詩的言説によってふんだんに与えられる諸々の語の背後には、ひとつの特定の語がある。イポグラムは言葉の実体hypokeimenonである。詩の可能性を萌芽状態で含むのが主題subjectumあるいは実体substantiaである。詩は一つの語の展開された機会chance developpéeでしかない。」(185)[152]

というものになります。余談ですが、このソシュールのノートの中で、ソシュールが確率・機会というそれぞれ別の意味でではありますが、chanceということばを繰り返すのが、前にも触れましたがわたくしにはどうしても気になるのは、この箇所の故でもあります。ともあれ、だとするならば、


「おそらくこの理論には、創造する意識に関係するあらゆる問題を解明しようという確固とした意欲がある。詩は諸々の語のなかで実現されるものであるだけでなく、語から出発して誕生するものであるがゆえに、意識の恣意性を逃れ、もはやある種の言語的合法則性にしか依存しない。」(185)

 ここまでは、まあ今までお話ししてきた議論の流れの中でも頷けることではあります。そして、くどいようですが、わたくしの興味は別段ここで言うような暗黙に示唆されるような「主体の抹消」という点にはおかれていない、ということも、ついでにもう一度述べておきましょう。
 しかし、最後にスタロバンスキーは大きく飛翔します。


「ここで再度述べておかねばならないが、あらゆる言説は、<下部集合>sous-ensembleの採取・抽出にあてられる集合である。<下部集合>は二通りに解釈されうる。(a)集合の潜在的内容あるいは下部構造として。(b)集合の先行者として。このことによって、暫定的に集合の資格をもつあらゆる言説は逆にいまだ認識されていない「全体」の<下部集合>とみなされうるのではないか、という問いが導かれる。あらゆるテクストが包含し、そして包含される。あらゆるテクストは産出力のある被産出物である。」(186)[153]

 そう、ここで、あらゆる言説は前の言説をアナグラムとして含み、かつその言説そのものが(テーマ語には長さ制限ないですからね)別の未来の言説のアナグラムの種となる、ということもありうるかもしれない。目もくらむような言語の宇宙です。そして、以下の文章で、スタロバンスキーは本書を結びます。


「・・・潜在的な地fondを、隠蔽された秘密を、ことばの下のことばを存在させることは、つねに可能である。もし暗号がなかったとしたら?果てしない秘密の呼び声が、発見の期待が、注釈の迷宮へと迷い込む歩みが、残るまでだろう。」(194)

 タイトルの付け方というのは、みなさまご経験の通り、本当に難しいものですが、ここまで見事に決まったタイトルというのは、個人的にははじめてかもしれない、というくらい、納得の行くタイトルであり、かつ結び方でもあります。

 こちらの原宏之先生の紹介によれば訳者の金澤忠信さんは極めて豊かな言語能力を誇り(個人的には、ほんっっとにアブラハム=トロックの Le Verbier de l'homme aux loupsの邦訳をなさいませんか?とお願いしたいくらいの使用可能言語のリストですが、残念ながらわたくし編集者には何のコネもございません・・・)、かつ研究者としてもソシュールのノートと大変な労力で取り組んできた方とのことです。(何で聞いたことがあったのだっけと思ったらルディネスコとデリダの対談の邦訳もやってらっしゃったのですね。)ともあれ、よい人にあってよい本のよい訳が出たというのは、本当によいことで、折からのお花見のシーズンに是非一冊お持ち合わせ頂きたいくらいだ、と思う程でございます。

 たぶん、桜によく似合うと思います