ことばの下のことば(3)

 さて、前回、前々回から扱っている、いよいよ邦訳なったジャン・スタロバンスキーの「ソシュールのアナグラム 語の下に潜む語」(金澤忠信訳、水声社、2006)でございますが、前回は、ソシュールが「アナグラムの作法はきっと詩人達の間に密かにしかし明示的に受け継がれた秘伝なのに違いない」ということで、当時のラテン詩人に問い合わせまでしたところで話を終えたのでした。

 このことは、すくなくともわたくしにとっては、ひどくフロイトの『狼男』論を想起させられる逸話です。あの時もフロイトは、原光景という神話的情景を現実に、患者の歴史上に起こった事実として突き止めるべく必死の努力をしていたのでした。ユングにとっては、それは想像力の問題だったのですが。面白いことにユングはいつもこういうときには常識的な判断をする人でした。ですからユングにとっては、その原光景は想像力の産物であり、現在の現実の困難に突き当たった主体が溯及的に構築する物語であり、大事なのはその現在の現実が何かであり、どうしてその神話素材を選んだのか、という主体の心的能力の問題でした。

 精神分析、あるいはデリダの読者には、この狼男症例を通じて、アブラハム=トロックの『狼男』論、 Le Verbier de l'homme aux loupsを思い出される方もいるかもしれません。

 狼男が多言語使用者(露仏英独)であったという事実から、フロイトおよびブリュンスヴィック、ガーディナーらの狼男症例の素材を解釈し直したこの論考は、そのデリダの序文と共に有名になりました。しかし、同時にこの分析の頂点は、「ロシア語の単語teret(擦る)が、トラウマ的な出来事を結晶化させている。」(Nicolas Abraham&Maria Torok, "L'écorce et le noyau," Flammarion, 2001, p.269)というところにあります。L'écorce et le noyau、外皮と核、言われてみればなにやら種のようでもあります。(そういえばこれも翻訳が松籟社さんから近刊予定になってからずいぶん経つ気がします。頑張って下さい。)
 そしてアブラハム=トロックの症例分析では、狼男の生の重要なターニングポイントとなる出来事が、このteretという単語にすべてが結晶化していく流れが追求されるわけですが、逆にこの「最初のことば」からすべてが派生していく様と、つまりはすべてがこの語のアナグラムとして受け取られてのみ意味をなすようになった、と取れなくもありません。とはいえ、この順序の違いは後々深刻な問題になりますので、軽々に言うのはやめましょう。

 さらにいえば、ラカン派の流れでもこのタイプの分析はセルジュ・ルクレールの有名な「ユニコーンの夢」の分析に、その先駆者を見出すことも出来ます。これはルクレール"Psychanalyser"第五章に所収の論文ですが、日本語でも最初のバージョンである、1959年の口頭発表を読むことは出来ます。(「ある夢にあった『無意識のテクスト』」および「無意識のいくつかの基本的メカニズムの臨床的研究」、早水洋太郎訳、アンリ・エー編「無意識II 無意識と言語」所収、pp.35-52)こちらも、分析の際に出現した諸々の素材、要素がというよくわからん音に圧縮あるいは集約されていきます。アブラハム=トロックの"L'écorce et le noyau"の元論文が1968年、"Le Verbier de l'homme aux loups"が1971年。スタロバンスキーも所収の最初の論文が1964年、単行本化が1971年ですから、ほら、なんとなく時代ですね。とはいえ、方法論的には、精神分析が諸々の要素が一つに圧縮されていく様を描きながら、その圧縮の原点となるところに最初の外傷、あるいは主体化の契機を突き止めようとしているのに対し、ソシュールアナグラム論では主題ははじめからある程度分かっており、その展開規則をフォローしていく形になるわけですが。

 さて、精神科医としても臨床経験のあるスタロバンスキーが、こうした流れを知らないわけはありません。こうした思考スタイルそのものを、スタロバンスキーは流出説的、と呼びます。新プラトン学派から脈々と続く、あの流れですね。このブログを以前からお読み頂いている方には、わたくしがたまさかふざけて「一元論倶楽部」という名前を使ったりすることがあることをご存じかと思いますが(お暇でしたらこの辺とかに目を通して頂けると幸いです。)スタロバンスキーのことばを借りましょう。


「展開されるテクストは、それに先立つ<テーマ - 語>に集約される単位=統一体unitéの状態で包蔵されている。厳密に言えば、「創造」はない。あるのは、先行するモナドの内部にすでに現前しているエネルギー全体の、多様な展開である。」(76)

 この図式は上部構造から下部構造へさかのぼる学説でしばしば使われている、特に、「提供された与件から出発し、心的・社会的・経済的生活の顕在的表現を通して、潜在的内容へ到達することを目指す学説においてはとりわけそうである。」(77)とスタロバンスキーは言います。確かに、先ほどご紹介したルクレールアブラハム=トロックの説も、やはりこの線上においてもいいことになりましょう。ただし、この場合上部構造は症状に、下部構造はその症状を生み出す結晶語のほうに。流出説と言われると、どうしても一者は上の方にあるような気がしてしまうので、一瞬とまどいますが。
 さらに言うと、この"unité"というということばの使い方は、たまにラカンが似たような使い方をする、そして意味の取りづらい時のある語だけに、この箇所はけっこうヒントになったのですが、それはまた別の話。単位=統一体という訳語がそんなに良いとは思えませんが、しかしそれしかないよなあ、という苦心もまったく共有していただけに、訳者の金澤忠信先生のお気持ちもちょっと分かるところです。以前"D'un Autre à l'autre"の話でもお伝えした、Un unifiantとUn comptant,(最初に言い出したのはアンドレ・グリーンのようですが)の対置などにこのunitéの意味の難しさが伺えますね。

 それはさておき、この翻訳には日本語版への序文も冠されておりまして、おかげで現在のスタロバンスキーの見通しも知ることが出来ます。ちょっと長いですが引用しましょう。


精神科医が意識と無意識とのあいだに、夢と夢の思考とのあいだに打ち立てたのと同じ関係を、言語学者のほうはテキストとイポグラムとの間に打ち立てたのではないだろうか。一方においても他方においても、注意は諸々の言語事象に、そして顕現レベルと隠匿レベルとのあいだに打ち立てられる結びつきに向けられている。一方も他方も科学的要請に応えようとしたと言うこともできるだおう。彼らは二人とも生成に関心を寄せている。詩人はある生成的詩法の諸規則に従っているとソシュールは考えており、彼はその例を蒐集する。フロイト神経症的症候の病因論を打ち立て、一連の症例によってそれが確証されると踏む。一方においても他方においても、先行するものと帰結するものとを関連づけようという配慮がある。」(8)

 しかし、今ではその重ね合わせに若干距離を取る、とスタロバンスキーは言います。すぐに続きを引用しましょう。


「援用されている因果性は同じ次元に属してはいない。ソシュールにとって、イポグラム、「<テーマ - 語>」は、第一質料である。アリストテレスの用語法では、それは質料因である。詩人はこの質料をもとに作業をする。フロイトによれば、根底に隠されているものとは欲望であり、これは抑圧によって妨害され、また抑圧と妥協する。欲望は行為者であり、すなわち作用因である。それは意識の裏をかき、語やイメージと作用する。私は今日、以前ほどはこの比較を前面に出そうという気がない。二人の研究を重ね合わせるのは無理がある。しかしそれでもなお、両者いずれもが喚起する批判には類似点を見ている。」(8-9)

 この説明が必ずしも説得力があるといえるのかどうか、については、わたくしはまだちょっと疑問に思っています。とりわけ、ララングという非常に一元論的色彩の濃い概念をラカンがもちいるようになったこともありますから。しかし、この問題を論じるのは、まだまだ本当に本当に大変なことで、わたしにはちょっと自信がありません。ですので、ちょっと保留の先延ばし。すみません。

 ただし、当時に述べておかねばならないのは、ソシュールアナグラム解釈に関して思い切った一元論的展開を持ち込んだスタロバンスキーの、このつつしみと同様、同様、ラカン本人もたとえばアブラハム=トロックのような急進主義にかなり危惧を抱いていたということです。ちょっと長くなりますが、印象的な箇所もありますので引用しましょう。以下は1977年1月11日の講義、48分過ぎくらいからの長い長いぼやきです。


「問題なのはある一冊の本です。これはニコラ・アブラハムとマリア・トロックの本で、Cryptonymieと呼ばれています。これは既に十分多義性を示していますが、つまり、そこでは名前が隠されているということです。さらに"Verbier de l'homme aux loups"と。ここにいる皆さんの中にも、私が狼男について無駄骨を折っていたときに出席なさっていた方もいらっしゃいましょう。私は父の名の排除という話をしていたのでした。このVerbierとは、私がずっと解明してきたことを、度を超して進めていったものだということがおわかりかと思います。つまり、シニフィアンこそが無意識において問題なのだということを、です。」
 そう、つつしみという言葉を選んだのもそのためです。ここでのラカンのぼやきは、ルクレールの口頭発表と共同で発表された、ラプランシュの論文での分数の扱い、ラカンが最初に使い、そんでもって後年ソーカルに非難されることになるあの用法を更に極端に進めていったラプランシュの企図にたいし、ラカンがかなり批判的であったを思い出させます。そこから、ラカンはこう言葉を続けます。

精神分析は科学ではありません。科学の立場をもっていないのです。それを待ち、期待することしかできません。それは一つの妄想です。科学をもたらすと期待されている妄想なのです。何と長いこと待っているでしょう。進歩はありません。そして人が期待しているものとは必ずしも手に入れられるものとは限らないのです。それは科学的妄想であり、しかしそれは分析的実践がある科学をもたらしたことはないという意味ではありません。矛盾している分だけ成熟に達する機会がないのです。そして我々のもっている用法では、我々は科学と論理との間に関係があるということを知っています。私の教えあるいは私の考えといわれるものの濫用、これはしばしば為されることはご存じでしょうが、それ以上に私を驚かしたことがあります。」

 精神分析と科学、ということに関して、かなり多様な思惟を巡らしてきたラカンの最晩年の言葉と思うと、若干切ないものがあります。そして、この八つ当たりのとばっちりは意外な人に向けられます。そう、デリダせんせいです。この箇所は、Ornicar?に掲載されたものと海賊版ではかなり相違がありますので、全面的に海賊版を採用しています。ご了承下さい。


「私をさらに驚かせたこと、それはこの本が単に道を切り開いたということだけではありません、なぜならそれがやったことはささやかなことですからね。私を驚かせたのは、私の知らないある人物、実のところ私は彼が分析中であると信じていますが、しかし分析中であるかどうかは私は知らないある人物、それは仮説に過ぎませんからね、ジャック・デリダが序文を書いていることです。それは熱狂的で情熱的なもので、そこに結ばれたおののきを感じとれると思います。この二人の分析家と彼がどのような関係であるかは知りませんが。確かなのは、彼が二人を結びつけたということです。いっておかねばなりませんが、私がこの道に関わったとはいえ、この本もこの序文も非常にセンス良く書かれているとは思えなかったということです。妄想的なやりかたとしてもそれはちょっとやりすぎです。私は脅えました。堤を切り崩してしまった責任が多少なりともあると思ったからです。もちろん私がそれを閉ざすこともできましょう。こんな茶番を解説なぞしないで、人が操作しているのはこんなシニフィアンの効果のトリックではない、などと言ったりすることもしないで、無意識に賭けることに満足することもできますし。結局、もし人が無理強いしなかったら私は教えを述べることなどなかったでしょうに。」

 いまなら風説の流布で訴えられそうですが、いずれにせよ、一応ご本人は責任を感じているようです。このパッセージには、me reserver à moi やle garder pour moiという言葉が現れていますが、つつしみ、という言葉を私が感じたのも、そういうあたりです。


 ちょっと話が逸れました。それでは、次回は、もう一つの迂回路、フロイトラカンのテレパシー論へのヒント、としてのアナグラム論という方向から、テキストを読んでみましょう。