照らすアスファルト

 さて、前回は、媒介的なものと無媒介的なもの、というアイディアをカール・シュミットが掲げていたこと、そして自身は媒介の弁護士と名乗りながら、ひそかに無媒介的なものを支持する、いってみれば隠れロマン派としてのシュミット、という一面を紹介しつつ、その特異な言語論を次にお話ししますね、といっておしまいにしたのでした。今回はそのお話を。

 媒介的なものの弁護士としてのシュミット先生、にもかかわらず、この間接性=媒介可能性、伝達可能性の拘束よりもつねにすでに先んじている言語が存在していること、それをシュミットの強調することです。言語はみずからを歌い、描き、考える。詩的な語とは、それ自身、よそよそしい他者的な語なのである、と(シュトゥンプ、367)。詩的言語はこのような超主体性を持つものであり、シュミットはそれを「詩人は、文字を書く別なる者のペンであり、道具なのだ。」(NL 55)と語っています。また、詩人は書くのではなく書かれるのである、とルードルフ・ボルヒャルトは述べていることを、シュトゥンプ先生は紹介されています。このような詩的言語の結晶としての、『北極光』において、言語は意味作用の規約から解き放たれ、参照作用を免れたものとなるのであり、また美学的な記号作用へと委ねられることで、コミュニケーションの諸機能を失います。「色、音、内容にかかわる諸関係のすべてを、言語の内在的な横溢のうちから取り出した」(Nl 42)とシュミットは語ります。

 もちろん、それには作品自体の内部に、思考が存在している、つまり詩的言語が詩そのものを思索しているかのような、内的論理が必要です。シュミットは、それをラraとその反転アルarという音韻の構造分析に求めます。エジプトの太陽神、人間の絶望の叫び、サハラ、イラン、アララト、タルタルス・・・(363)こうした一連のアルとラの交錯によって、事実上言語が独自の意味の充溢を達成することになるのです。ここで、「ラ」という音韻は、「思考の財、音の財の貯蔵庫である、個々の詩句にいたるまで、その燃える火を、あるときは照らし、あたため、またあるときは焦がし、燃え上がらせて、輝く炉」(NL 44)だと語られるのです。シュトゥンプ先生は、それを、ここでは、先に言及した、すべてに浸透する<火の過程>が言語的なイメージ作用に霊感を与えているようだ、と評されています。(364/365)


 とはいえ、ここで、ひとつの面白い重心のシフトをシュトゥンプ先生は論じられています。

「一九一六年の『北極光』論において、詩人がその媒質となっている他者とは、その神学的な含意をかんがみれば、神でなければならないからである。神こそが、言語の例外状況を決定する主権者なのである。」(368)そう、くだんの『他者』は、その時点では神でした。上述のボルヒャルトにおいては、それは匿名の言語の権能によるものであったのですから、両者のあいだには、それぞれ詩人を媒介と見つつも、何を媒介するものであるかについては差があったことになります(369)。

 しかし、こうした詩人にたいする宗教的とも言うべき規定にもかかわらず、詩的言語のもつ放埒さは、シュミット自身にとってもあまり心地よいものではなかった、とシュトゥンプ先生は論じます。その証拠となるのは、シュミットがその美学的言語論のラディカルさを制御すべく、さまざまに箍を嵌めようと試みていることからも読み取れるのだ、と(370)

「このような言語の響きの盲目的な帰依のうちに、思考の正しさがつねに保ち続けられていることは、まったくもって瞠目すべきことであるからだ」(Nl 44)

 ここで、後年の、たとえば『ハムレット』を論じるシュミットによれば、詩的な謎の言語は具体的な歴史性の侵入によるもの、とされるようになるのです。そして、その侵入によって、劇の枠組み構造が疎外されるが故に、詩的言語の謎が到来するのである、と(372)。シュミットはそれについて、「絡め取り」「編み込み」「一点集約」といった比喩表現を用いますが、これらは、歴史的な具体化の諸様相を代表するもので、保持あるいは阻止といった動因によって引き寄せられる表象の複合体をイメージ化するものだ、とシュトゥンプ先生は述べておられます。これらをつうじて、時間的安定性、あるいは時間からの解放へ向かうのである、と(375)。「ここにおいて起こっているのは、もはや神の名においてではなく、『具体的歴史性』の名において生じている詩人の無力化であり、美学はこの具体的歴史性の下位に位置づけられることになるのである」(376)このことと、たとえばセルジュ・ルクレールがその著書『精神分析すること』(向井雅明訳、誠信書房、2006)で述べている「一角獣の夢」の分析を重ね合わせてみたい欲求に駆られた、という方は少なくないと思います。いってみれば、言語の自律性は、その背後にある外傷的な具体的歴史の貫入とひとつがいなのです。そして、こちらで恣意的に前期シュミットと後期シュミットを圧縮してしまえば、それが言語のなかに特異的に創り出した音韻規則によって、言語自体が構造化される。主体はそうした言語自体が自らを構造化していく、ひとつの思索のその場所なのです。

 つまり、最晩年のシュミットにとっては、言語は単なる自律したシステムではなく、それぞれの『具体的歴史性』とのそのひそやかな、謎めいた絆をもつものとされており、この絆をつうじて、言語は予言的なものとなる、とされているのです。「このような徴候のもとに、詩的言語は、無意識の言語のみならず、まずもって、「言語の無意識」へと通じる特権的な通路として、その正体をあらわす。」(378)と、シュトゥンプ先生はまとめられています。

 さて、ですから、ここで考えてみるべきは、シュミットの主権論において言語が持っていた位置ということになります。まずこうした、言語自らの自律的運動、という、オカルトちっくでとうてい人前では言えないような概念を抜きにしなければならない。むかし情報工学の友達が言ってましたが、自己組織化なんてあなたが起こさなきゃ起きない(という理由で自己組織化とか言ってくる修士の子の論文にダメだししまくっていたそうな。怖い。)といわれてしまうと、たしかにまあ、そりゃそうだ、という気にもさせられます。しかし、そうすると言語とは、原初に、無根拠に、そして暴力的にひとが(つまり主体であり主権者となる者が)なにかを名指した、名付けた、という、その跳躍に依拠するものになります。だって、現象面として残っている事実はそれだけだから。シュミットは、その発話者の跳躍は言語の媒体となったことによって生じたものであって、こうした言語という動因、神の言語としての神的暴力を抜いてしまえば、それは主権者の決断に依拠するのみ、ということになることを知りつつ、あえて後者を選んだのか、と、ちょっと夢想してみたくなります。

 同じくこの論集に収められた、トーマス・シェスタク「名‐乗る―カール・シュミットにおける名の理論に向けて」(磯忍訳)において、この命名とその主体は以下のように述べられています。

「既存の言語の習慣の秩序のうちへの、語言語および記号言語一般のシステムたる概念的見取図のうちへの侵入、このような隔絶されえぬ侵入の亀裂の入ったエンブレムとして、シュミットは「名」という言葉を徴づけている。」(348)


 こうした言語への侵入の動因は、ここでは考えてはいけないこと、つまり、事後的な再構成(それも多分しなくてもいいというかしない方が良い)によって、つまりそれが引き起こした結果によってのみ法的な仮構として想定されるものとして、明らかになるにすぎないものとなります。

「力=権力の無限の、把捉しがたい深淵から、つねにあらたな形式が出来する。力=権力は、その形式をいつでも破壊することができ、形式のうちにみずからの力を決定的なものとして限定することは決してない。[・・・・・・]それは決してみずからを構成することはなく、たえずただ他なる者を構成する。」(334)

 こうした「力」、そしてこうした「他なる者」としてシュミットがあげるものに、例のあの「声」があります。そう、有名な「現代議会主義の精神史的基礎」でシュミットが論じた、民主主義を基礎づけるための、議決の手段としての喝采の声です。匿名の投票とかじゃなく、というあれ。しかし、こおでシェスタク先生が論じられているように、現実の民族(ラカン風に「現実的なもの」と言いたい誘惑に駆られますが)は拡散した民族であり、結集した民族としての民族はフィクション、法的仮構物にすぎません。現実に存在する声は規定されえない声であり、声へと規定される声は仮構のものなのです。「シュミットが歓呼の声として召喚する民族の声は、来し方も行く先もなく、声とは規定されぬまま、叫び続ける声である。」(338)

 そして、憲法制定権力はそうした意味での民族に由来するものなのです(339)。

 ちょっと余談ですが、同じくこの論集に収められた臼井隆一郎「ノモスとネメシス シュミットとバッハオーフェン 文献学的関心から」によれば、両者はともに名付けること(ネメイン)という考え方を重視していながら、シュミットはそれを大地を取得し、境界線を築くものとして人の営みと関連づけ、バッハオーフェンはそれを森nemusと関連づけ、そこに物質的な大地の生産という意味における贈与と分配の理念を認めた(310)といいます。そして、シュミットからはバッハオーフェンにあった、死や埋葬、異界や異文化との境界としてのヘルメス、そして魂にまつわる言説が排除されていると。「人間は人間を生む」そういった当たり前の内在性を拒否しながら、なお生産を語らねばならないとき、ひとは暴力と媒介とに依拠することになる、そんな風に言うことも、できるかもしれません。最後にちょっと長いですが、この件に関するネグリの言を引きましょう。

「こうしてそれ[決断]は絶対的な内在的事実としての法的秩序のなかに投げ込まれる。この内在性はきわめて奥深いものなので、一見したところ、構成的権力と構成された権力との区別は消滅し、構成的権力は、その本来的な権力性あるいは反権力性にしたがって、ある歴史的に決定された力、特異な欲求、欲望、決定力の総体として提示される。しかしながら、実際には、構成的権力が規定されるもとになる実在的緯糸はそのとき一挙に引き裂かれ、権力の意志的出現としての暴力や単なる出来事の抽象的決定に引き戻されるのである。こうして、構成的権力の基盤創設の絶対的傾向は、力ではなくて権力を純然たる仕方で構想するというシニカルな主張になってしまう。」(「構成的権力」(杉村昌昭、斉藤悦則訳、松籟社、1999)、p. 30)


 それにしても、今回利用させてもらった、臼井隆一郎編「カール・シュミットと現代」(沖積舎、2005)、ほかにもまだまだたくさん面白い話が載っています。こんな学会を日本で開催して、それを本に出来たということは、ほんとうにすごいことと、と、素直に感心してしまいます。