光あれ

 と神はいった、最初にいった、ということに、なっています。

 神は何を言ったのでしょう?光あれといった、すると見よ、そこに光があった。うん、明るい。明るいナショナルみんなのナショナル(またしても古い)。
 このとき、神は命じるものであり、文字通りの独裁者です。問題は命じる相手。いや、無からの創造っていうくらいだから、命じた相手は無であり、その声は虚空に響くと同時に光を生み出したんでしょう?と言いたい気は、もちろんするのですが、考え方は二通り。

 1. ひとつは、この根源語がすべてのシニフィアンの起源となり、そしてこのシニフィアンの自己展開として世界が形成されていく、というものです。天地創造。何のシニフィエも持たない、純粋にして単一なるシニフィアンの自己運動からの世界の誕生です。このとき、語が指すべき意味とは、同時に指示対象でもある以上、語の誕生とその展開は一方では他のシニフィアンとの連鎖としての意味を誕生させ、他方でその指示対象である客観的対象ないし物質も創出しなければいけないことになります。言葉さんもお仕事多くて大変です。

 2. でも、考え方にはもう一つあります。よく知られたことですが、原初の無とは空虚空無ないし真空を指し示すのではなく、渾沌を、無秩序を、あいまいな質料を指すものだったと考えるのです。このとき、神の言葉はこの質料に形相を与えるもの、ということになります。ジョルダーノ・ブルーノが風刺的に述べた言葉を借りれば、質料は女で男という形相にかたどられるのをまっている。いやんエッチ。そしてそれは夢、夢なんだよ、というところでもあります。

 3. でもまあ、第三の道というのはどこにもあるもので、ここで、この未分化のカオスとしての質料もまた、ひとつの言語であったと考えてみる、という手もあります。井筒俊彦「意味の深みへ : 東洋哲学の水位」(岩波書店、1985)の示唆を借りれば、荘子のいう天籟のように、人間の耳にはさだかに聞こえねど、虚空を吹き抜け宇宙を貫流する不思議な声があると(263-264)。あるいは、もっとはっきりと、こう述べている箇所を参照しても良いでしょう。

「言語意識の深層には、まだ一定のシニフィアンと結びついていない不定形の、意味可能体の如きものが、星雲のように漂っているのだ。まだ明確な意味をなしていない、形成途次の、不断に形を変えながら自分のむすびつくべきシニフィアンを見出そうとして、いわば八方に触手を伸ばしている潜在的な意味可能体。まさに唯識の深層意識論が説く「種子」、意味の種だ。」(259)

 とっても美しい一節です。この、意味可能体を、晩年のラカンが述べた意味生成性(signifiance)に重ねてみたい誘惑はとっても強い。多分いけそうな気もするけど、まあきっちりした論証はまた別途必要でしょう。

 そうすると、これに対する解決策はまたしても二つある、ということになります。
 3-1. 一方では、この宇宙的存在エネルギーとしての言葉は、それ自体では絶対無分節の状態にあるものの、しかし時々刻々と自己分節を続け、自然界に拡散し、あらゆる自然物の声として自己顕現し、また人間の言語意識を通ったときは、人間の声、人間の言葉となる(264)と。
 3-2. しかし、この手の自己分節、自己形成を疑って掛かるのであれば、この生成と自己分節には、なにかしらの触媒が必要である、と考えてみることも出来ます。この著作で井筒先生が好んで使う言い回しを借りれば、「神がわずかに自己顕現的に動くとき」。そこに現れるのは言葉であり、原初の言葉であり、しかしそれはまだ何の限定も受けていない無記的、無相のことばであり、一種の根源言語です。これは、上述のような意味化と物質化(あるいは存在世界現出化といっても良いですが)をたどることで、文字となり、それはやがてカバラへとつながっていくことになります。この、原初の一者としてのシニフィアンユダヤ神秘主義の代表的形態であるカバラの言語理論においては、至高の神の名はあらゆる言語的意味の根源でありながら、しかもそれ自体では言葉以前であり、無意味であり、結局は無なのです。無意味のシニフィアン
 ですから、この言ってみれば「父の名」は、何も指すものがない、指示対象を持たないが故に無意味であり、同時にそれがもつ力、あえて媒介作用といってしまいましょう、それによって、充満し遊動する意味生成性、あるいは意味可能体たちに一気にその指示対象と意味を与える、という点で、言語的意味の根源となります。

 さて、こないだまで見てきたように、シュミットには、そしてそのロマン主義には、当然のことながら、こうした大地に満つる声、一瞬の喝采となって具現化し、また風に消えていく声、というかたちで、「意味可能体」として、つまり現勢化を待つ、潜勢態としての声が存在しています。こればっかりは神学的前提といってもいいかもしれない。
 では他方、シュミットの言う例外状況とは、この声たちとどのように関わるのか。アガンベンが「例外状態」で指摘する、言語活動と法の類似性は、そこを理解するために役に立ってくれます。

「言語を構成する諸要素が現実的なデノテーションをなんらもつことなくラングのなかに存在していて、発話中のディスクールにおいてのみデノテーションを獲得するのと同様に、例外状態においても、規範は現実へのなんらの指示もないままに効力を保っている。しかしながら、何ものかをラングとして前提することをつうじてこそ、規範は通常の状況へかかわることができるのである。」(75)
「過剰なシニフィアンという、二〇世紀の人間諸科学において水先案内人の役割を果たしているこの概念は、規範が適用されることなく効力を保つという例外状態に対応している。」(76)

 つまり、ここでは過剰なシニフィアンが、その指示対象を持たぬままに、しかしひとつの力として機能している、とされています。つまり、ここでは世界のなかにはすでにシニフィアンがあり、そしてそのシニフィアンは、いまだ存在世界を現出する能力を持っていない、とまでは言い過ぎであれば、その指示対象をもっておらず、したがって意味も持っていない。とするならば、状況は3. の段階にあるということになる。つまり、例外状態と漠とよばれているものは、3. に当たります。
 これに対してシュミットが選んだ解決策は、ちょっと難しいものです。『現代議会主義の精神史的地位』でかれが述べていたような、喝采によって決定される民主主義のもつ、自己組織化能力は、3-1. に似ているようにも思えます。しかし、いわゆる「例外状態」というモデルは、これはあきらかに、3-2. のほう、すなわち、この遊動する意味生成性のうちに、ひとつの空虚を、そして同時にその空虚を持ち込む主体性を、ともどもに創り出してしまう、そのようなものにほかなりません。

 というのも、それが前提とするのは、言語活動と世界においても、規範とその適用においても、一方から他方を直接に派生させることを可能にするような内的連関は存在しない(80-81)というような、いたって『判断力批判』的というか判断力批判批判的なものだからです。そして、例外状態が、

「このようにして、規範と現実の不可能な結合、そしてその結果としての規範的な領域の創出が、例外という状態において、すなわち、それらの連関を前提することをつうじて、操作されるのである。このことは結局のところ、ある規範を適用するためにはその適用を停止し、ひとつの例外を創り出す必要があるということを意味している。いずれにせよ、例外状態は、論理と実践が互いを決定不能状態にし、ロゴスをもたない純粋の暴力がいかなる現実的指示対象ももたない言表内容を実現するふりをしている、ひとつの閾の存在を印づけているのである。」(82)

というものであるとするならば、その例外状態にはさらに例外をひとつ持ち込むないし創り出す必要がある、ということです。紛らわしいけど。例外状態のなかに例外をもたらす。


 ということは、もうちょっとぶっちゃけて言ってしまえば、例外状態をもたらすのは、これは前回からの論旨を考えれば(そして『政治神学』あたりの論旨を考えれば)なにがしかの、現実的なものの突入としての、具体的歴史の侵入としての、例外の出現であり、それはいってみれば、法の停止、ないし象徴的秩序の宙づりを引き起こします。そのことで引き起こされたアノミー状況に対して、まさにその具体的歴史と同じ場所で、その場所に到来するものとして、主体が登場し、その主体は主権者として、「父の名」として、あるいは「命名行為」の主体として、最初に「わずかな自己顕現の動き」を見せることになります。その行為には、当然のことながら対象はない。その行為そのものが、対象を創り出すからです。というと何か誤解を招きやすい言い方ですが、その「命名行為」によって名指される対象が生まれるという意味ではなく、その命名行為は依然として対象を持たない、空虚な身振りとして生滅していきながら、しかし法によって分節化された世界の再起動と再分節化によって、対象と呼ばれるものが充満した世界を、存在世界を、現出させるということです。

 さて、精神分析について知識があるかたはおわかりの通り、この理屈はものすごくファリックな理屈です。そして、アガンベンも、おそらく(当然)自分の考察するシュミットの議論を、ファルスの論理学的な方向にしたがって再構成したシュミットである、ということを意識した上でこの本、というよりパンフレットを書いたのではなかろうかと思うのです(証拠はないけど)。主権の論理は主体の論理。

 だとするなら、ファリックな論理とは別の論理としての、例外状態の論理はあり得るのか。それは、当然提起されてしかるべき問題です。


 ラカニアンなら女性の性別化的な論理を持ち込んでみる、というのも、もちろんひとつの手ですし、あるいは、特権的な父の名をサントームに置き換えてみることも、またひとつの手でしょう。アガンベン自身は、ベンヤミン-カフカというラインを引いて、そこに独特な法の停止、というより不活性化、無活動化(128)を見ようと試みていますが、これが持ちうる射程については、わたくし、いまのところまだしっかりと理解していません。むしろ、第6章での「権威(auctoritas)」論で、「父たち=元老院議員(patres)の私的な地位から直接に湧き出てくる」(161)はずの、「適法性を授与する潜勢力」(Magdelain, 1990, p. 686)を考えることの方が、意義は大きいのではないかと思っています。

 この章でアガンベンが引用するマグドゥレンが書いているように「権威はそれ自体では存立できない。認可するにせよ、承認するにせよ、それはそれが効力をあたえる相手である外的な活動を想定しているのである」。ラカニアンなら誰しも思うように、父は死んでいるから父なので、つまりそれ自体で存立することはあり得ません。かならず、その代理人としての、あるいは実行機関としての、エージェンシーとしての主体を必要とします。そしてこの二つの要素が合致しない溝があるとき、後見人はそれを補完するものとして登場してきます(154-155)。それは、法の自発的な執行を意味するのではなく、後見人の人格それ自体のうちにあっての非人格的な潜勢力の実現を意味する(156)とアガンベンは言います。そして古代ローマに置いて、権威は元老院のもっとも本来的な特権であり、行使する主体は元老院議員[父たちpatres]であった、と。

 この場合、権威は父たちにしか存在しない、という点が話のネックといえばネックであり、それがひとりの父に集約されたとしても、おかしなことではありません。しかし、ラカンがいうような、別の意味での一人の父un pere、どこにでもいるだれでもいいどっかのおっさんにも含まれる、命名者としての権能なのではなかろうか、と考えてみることも可能です。ちょっと長いですが引用しましょう。

ジョイスの芸術家たらんとする欲望は・・・彼の父は彼にとって決して一人の父ではなかったという事実の補償ではないでしょうか。・・・こうした父性の次元の補償、つまり、排除Verwerfungが、ジョイスが感じていたことの中にはないでしょうか。つまり、彼は余儀なくそれを父を犠牲にしてその固有名を価値づけることを定められていると感じていたのではないでしょうか。この言葉は彼のテクストの中で、多くのことから導き出されるものです。この名前に対してこそ、彼自身が誰に対しても拒んでいたオマージュが表現されていることを彼が望んだのではないでしょうか。固有名とはここでは主人のシニフィアン以上のものがもたらされるために彼がなし得ることすべてを果たすものです。常に、これは一つの発明品であり、歴史の中を拡散していきます、この主体、彼にとっての固有名は二つありました。ジョイスはそれを同じようにJamesと呼んでいますが、これはその姓であるDedalusの使い方においてのみ、その跡を継ぐものです。このように山を積み重ねていくことは一つの事態にたどり着くだけです。つまりそれは共通名詞に固有名を帰着させることです。」(Ornicar?, no.8, p.13)

 ジョイスの父は、この意味での後見人ではなかった。それは、アガンベンの文脈では権威と、それが効力をあたえる相手である外的な活動、を、ラカンの文脈では、ジョイスの身体という想像的なものの脱落により、無秩序に並置される象徴的なものと現実的なものを、結び合わせることに失敗します。ジョイスはそれを個人的なやりかた、つまり自らの身体性を完全に象徴的なものへと融解し、固有名を共通名詞に溶かし込んでいくことで、補填していきます。しかし、それがつねに「父の名」という万人に共通の尺度で行われねばならず、そうでなければそれは失敗だ、と考える必要は必ずしもありません。万人が誰かに対して、この補填の機能を与えている、そのなかで父の名はあるいはマジョリティないし「理想点」(1975.3.11)であるかもしれない、と。

 そう考えると、アガンベンベンヤミン-カフカで結ぼうとしたラインの帰結として生じる次の一節は、すこしクリアになってくるかもしれません。

「本当の意味で政治的なのは、暴力と法とのあいだのつながりを断ち切るような行動だけなのだ。そして、このようにして開かれた空間から出発することによってのみ、例外状態において法を生に結びつけていた装置を不活性化した後で、法の使用の可能性についての質問を提出することが可能となるだろう。そのときには、わたしたちは、ベンヤミンが「純粋」言語や「純粋」暴力ということを口にしているような意味での「純粋」法なるものを眼前にすることになるだろう。何も命令せず、何も禁止せず、ただ自らのことを言うだけの、非拘束的な言葉には、目的との関連をもたずに自らを示すだけの純粋手段としての活動が対応するだろう。そして、両者のあいだには、失われてしまった原初の状態ではなく、法と神話の潜勢力が例外状態のなかにあって捉えようと努めてきた人間的な使用と実践だけが存在するのである。」(178)