証城寺の屋上

「この熱情を支配し、自然の支配と、自然に対する人間の力の拡大に向かって努力する賢者、彼にとって、この世界が罪の泥濘ではなく、己れの活動の場所として存在し、更に又、己れの力の享受と発展のために存在するところの賢者---この賢者は、物理的世界を己れの支配の下に従属せしめ、己れのものとし、享楽し、生産諸力をやみ間なく発展せしめんとしつつある、かの青春の血気に燃えた、楽天的なブルジョアジーの、哲学的に理想化され、純化された姿以外の何ものであろうか?スピノザが十七世紀における資本主義の模範国において哲学的に定式づけ、宣明したのは、近代ブルジョアジーのこの革命的側面である。」(タールハイマー『スピノザ時代のオランダにおける階級關係と階級對立』、 タールハイマー, デボーリン「スピノザと辨證法的唯物論」(佐藤榮譯、共生閣、1930)所収、48頁)


 最近の(というほどでもありませんが)著作で、ジジェクはしばしば、スピノザ主義(たぶんドゥルーズネグリあたりを念頭に置いたそれ)を後期資本主義のイデオローグと論じています。
 まあ、確かにそれは間違ってはない、というより、むしろずいぶん前からそのことははっきりしていたのではないか、あるいはとても古典的な読解なのではないか、ということが、この引用からも分かります。もうちょっとさかのぼれば、たぶんフォイエルバッハも。だから、ほんとうに驚くべきことがあるとすればそれは、後期資本主義から現代的な資本主義にいたるまで、一貫してスピノザをご本尊と仰いでいるといってもかまわないであろう、というその御長命っぷりにある、ということのほうなのかもしれません。それはもしかすると、タールハイマーの言明にあるように、そこに資本主義の持つある種の革命性が保存されているからであり、そしてつねに変わらず資本主義はその革命性から力を得て、さまざまにメタモルフォーゼンしている、ということなのかしら、と、夢想を羽ばたかせたいところですが、これはまだただのイメージでしかないので、やめておきましょう。

 ですが、『エチカ』の静謐な哲学者というイメージと、この「革命的」などとご大層な、あるいは動的なイメージのする言葉とは、なかなかに結びつきがたいものがあることも確かです。というわけで、たとえばネグリドゥルーズのような、かなり吹っ飛んだ、というかいまふうの研究に通じる路線もじゅうぶんに押さえつつ、かつ淡々と手短に『エチカ』の解説というかダイジェストというかポイントの要約をしている著作があったりすると、それはきっとすばらしいだろう、とお思いのあなたに(だれやねん)、今回ご紹介するのはPaolo Cristofolini, SPINOZA - Chemins dans l'ethique, Presses universitaires de France, 1998. でございます。原著はイタリア語(1993年)ですが、そこはお奉行様ご勘弁をいただいてフランス語から。といっても、本編は60頁程度に収まってしまう、このコンパクトな分量なら、イタリア語のお勉強のためにもそっちで読むべきだったかもしれない。。。でもほら、フランス語版にしかないおまけも大事だし。うん。

 この本は、ちょっと変わったスタイルを取っていて、7つの「道程Itineraires」によって『エチカ』を解説していこう、という筋立てになっています。全部で60頁ほどの分量ですから、各「道程」に割り当てられたページは5,6頁から十数頁。その7回を7回に分けて、ということは一回一回はとても短く、そしておなじくらい静謐に紹介していくことにしましょう。というわけで、今回はとりあえずその七つの道程を紹介して、お話を終えておきます。短いけど。まあ、ちょっと間も開いたのでリハビリもかねて。

1 知性から定義へ
2 無限から有限へ
3 身体から想像力の力能へ
4 想像力から学へ
5 神の属性から人間の本質へ
6 受動的情念から知的愛へ
7 叡智から自由な共和国へ

 
 いや、書こうと思ったんですけど、満月が近いおぼろ月夜がとても綺麗ということに気づいてしまいまして。
 いまからお月見です。