1 知性(知的認識)から定義へ

「鉄を鍛えるためにはハンマーが必要であり、ハンマーを手に入れるためにはそれを作らねばならず、そのためには他のハンマーと他の道具が必要であり、これを有するためにはまた他の道具を要し、このようにして無限に進む。しかしこうした仕方で、人間に鉄を鍛える力がないことを証明しようとしても無駄であろう。」「事実、人間は、最初には生得の道具を得て、若干のきわめて平易なものを、骨折ってかつ不完全にではあったが作ることができた。そしてそれを作り上げてのち、彼らは他の比較的むずかしいものを、比較的少ない骨折りで比較的完全に作り上げた。こうして次第にもっとも簡単な仕事から道具へ、さらにこの道具から他の仕事と道具へと進んで、彼らはついにあんなに多くの、かつあんなにむずかしいことを、わずかな骨折りで成就するようになった。それと同様に、知性もまた生得の力をもって、自らのために知的道具を作り、これから他の知的行動を果たす新しい力を得、さらにこれらの行動から新しい道具すなわち一層探求を進める能力を得、こうして次第に進んでついには英知の最高峰に達するようになるのである。知性がしかしそうした工合のものであることは、何が真理探究の方法かを理解し、また探求をさらに進めるための他の新しい道具を作るのにそれだけは必要であるその生得の道具とはどんなものかを理解しさえすれば、容易に明らかになるだろう。」(「知性改善論」(畠中尚志訳、岩波文庫、1968)、pp. 29-30


 ちょっと長いですが、まずはスピノザ本人の引用から引っ張ってみました。

 この言明は、ある意味では、ここから取り上げる、クリストフォリーニさん論じるところのスピノザの方法論を、本人がよく表現してくれている箇所といってもいいかもしれません。デカルトがそのコギトの探求によって、まずは絶対確実な根拠あるいは論拠を探し求めたのにたいして、スピノザのやり方はむしろ、とりあえず手持ちの物を動かしてみて、それが実際に持つ構成力を確認しながら作業を続行するというものです。まずはこれを念頭に、前回ご紹介した、Paolo Cristofolini, SPINOZA - Chemins dans l'ethique, Presses universitaires de France, 1998. の第一節を読んでいくことにしましょう。
 『エチカ』全体をつうじて、一番難しいのは冒頭だ、と、クリストフォリーニさんはいいます。
 たしかに、それはそのとおり。『エチカ』の冒頭は、いってみればひとつの核であって、それが展開していくにしたがって、ようやく少しずつその意味が明らかになっていくからです。
 だとすると、その場合、この本が「幾何学的方法」にのっとって、つまるところユークリッドの『原論』をモデルに書かれる意味はあったのだろうか、それを最初の問いとしてクリストフォリーニさんは設定します。こうしたスタイルは当時のヨーロッパでは流行っていましたし、なかでも書簡集8、9にも登場するボレリのユークリッド論は、たしかにスピノザとそのグループのあいだで論議の対象となっていました。が、こうした議論をつうじて伺えるのは、スピノザはボレリの議論、とりわけユークリッド的な「定義」の用い方から距離をとっていたことだ、というのです。どういうことでしょう?

 クリストフォリーニさんによれば、スピノザの使う「定義」は、公理に先行しそれとは区別されますし、また定義それぞれの結びつきが有機的全体を創り出すようなかたちでは創られていません。とくに、規定された事物の本性に関して網羅的ではない、という点は注目すべきで、ここを考えると、自己原因としての神の定義からスピノザはエチカを切り開いたのだとする読解はちょっと問題があることになります。定義間の結びつきがないということは、自己原因と神、実体と自己原因等々を結ぶものはないということです。こうした関連性が確立していくのは、定義の証明の進行にそってであり、またいくつかの重要概念はことのついでに、適当な場所で定義されているだけだったり、あるいは定義そのものがなかったりします。

 じゃあ、スピノザにとって幾何学的方法というのは、バロック風の仕掛けであり、外的なものだったのか、というと、それもそんなに単純ではない、ともクリストフォリーニさんはいいます。スピノザにとって、問題なのは学の自立的な理論を確立することであって、学の基盤となる完結した公準の体系を作ることではない。普遍的な法則の定式化への出発点となる共通概念を示すことが目的だったのだと。
 でも、この共通概念とその定義にアプローチする方法ってのは、じゃあどんなものなのか。合理的な論証によるものでないことは確かです。というのも、スピノザのいう定義とは、前提であって演繹の結果ではないからです。かといって、直観的な学というわけでもない。なぜなら、後で見るように、スピノザによる直観の学とは個物の本質を突き止めることを目指すものであって、普遍的認識をねらうものではないからです。

 だから、「エチカ」冒頭の難しさは、その箇所を読書百遍していても意自ずから通じたりしない、先に進まないとしょうがない、とクリストフォリーニさんは最初の立場を繰り返します。しかし、じゃあ定義が合理的な推論の帰結でないとしたら、そこで定義されている諸概念のでどころはどこなのさ?

 それを知るためには、第四章付録まで飛ばないといけない。そこにあるのは「知的認識(妥当な認識intelligence)」です。

 「基本的な諸定義はしたがって、我々の心的な行為であり、この諸行為は我々と存在との関係に先立っており、いま触れた付録の三二章で述べられているように「我々の最良の部分」に由来している。この付録から、われわれは知的認識は真の生の土台であり、またそれは精神の生そのものであることを学ぶ。これによってわれわれは、他者の精神を享受することが出来、また他者の精神だけが我々に喜びを与えることが出来るのである。というのも、われわれはかれらと社会的連帯と友愛という関係によってむすばれているのだから。」(14-15)

 つまり、知的認識とは精神の生であり、人間の最高次の目標とは、この知的認識の元にあるものを妥当な仕方で認識することです。とはいっても、それは体系的に事物の意味を認識することではなく、分散した諸要素を取り集める人間の能力のことを指すものです。それは、精神の生から、そして他者とのコミュニケーションのなかから導き出された諸要素を取り集める、ということであり、それがintelligoなのだとクリストフォリーニさんはいいます。このタイプの読解を示したのは、もちろんロゴスを論じたハイデッガーですが、クリストフォリーニさんは、ヴィーコについての著作もある方らしく、ここではヴィーコとの類縁性を指摘されています。

 したがって、スピノザ幾何学的方法をとったことには内的な一貫性はある、とクリストフォリーニさんはまとめます。それはユークリッドのような純粋な形に比べると、公準と定義の分離という異例性はあり、その体系の材料は純化されてはいるが組織化されていない、と。しかし、それは「知的認識の元にある」ことの意味に由来するものです。ですから、冒頭で定義された諸概念はそれそのもので明晰化され、定義によってその意味を尽くされるものではなく、継続的に豊かにされ、重層決定されていくものなのだと。これが、冒頭でわたくしが(クリストフォリーニさんの著作からいきなり脱線して)ハンマーの比喩を援用した理由でもあり、またクリストフォリーニさんが「知的認識」ということばに託した意味でもありましょう。まずはごく「簡単な道具」としての定義を置いて、そこから議論を展開させ、取り集め、その定義そのものの力量を証明すること。

 このことは、以前にもご紹介した、カッシーラー読み解くところのスピノザに通じるところがあります。(というか、比較的スタンダードな解釈と言うべきなのでしょうか)。カッシーラーさんが読むスピノザにとっても、最終的な目標は、やはり特殊な個別的存在を、必然的普遍的法則の所産として理解し、かつそれらのあいだにある必然的な結合において理解して初めて、その個別的存在の十全な観念が得られるとされています。このとき、定義とは性質から出発してそれを説明に用いるのではなく、法則的な順序に従って発生させることであり、真の学問的な定義はつねに発生的であるとされ、その構成規則が述べられるときであるとされているのです。

 たとえば、図形の定義をどう決めるかを考えましょう。このときに、抽象的にその特質を定義するより、これこれこうやると書けるもの、としたほうがいいじゃん?というのがスピノザの説明です。形而上学もそれと同様に、諸現象を空虚な類概念に還元するのではなく、そうした存在をその自然の秩序に従ってそれを生み出す現実的な諸条件にもとづいて理解することにあるのだ、とされるようになります。ですから、精神は原因から結果へのこの前進にさいして事物によって外から規定され強制されるのではなく、おのれ固有の論理的法則にのみしたがう「精神的な自動装置」となります。少々強引ですが、数学における「構成主義」とこれをたとえてみたい誘惑に駆られないこともないのですが、まあ軽挙妄動は慎みましょう。

 なるほど、では、その最初の簡単な道具と、その展開、あるいはその持つ構成力とはなんなのだろう。そこから、第二節へと議論はうつります。