おしゃべりな胃潰瘍

 さて、前回まででだいたい、ブルーノ・ラトゥール「科学論の実在―パンドラの希望」(川崎勝、平川秀幸訳、産業図書、2007)の面白そうな概念は拾っておけたわけですが、さいごにひとつ、ひろい忘れが。それが、ファクティッシュという概念です。お好きな方には、たとえばトビ・ナタンがこの概念を援用して彼の民俗精神療法を理論化していることなぞ思い出されるかもしれません。まあ、そんな含意も含めつつご紹介しましょう。

 で、このファクティッシュfactishという概念、見てのごとく、この概念はフェティッシュという概念をもとに、ファクトという言葉と掛けて作られたものですが、その説明のために例示したものが、なかなか印象深いのです。

 ラトゥールはジャガンナートの物語を引用します。(まあパストゥールといいこれといい、他にもソクラテスからブラジルでの調査旅行とか、けっこう例示の多い本ですな。)これは、あるカースト制度支配下におかれた村に現れた、いわば「啓蒙的な」若者のストーリーで、主人公は不可触賤民が触れることは禁じられている聖なる石、サリグラムは、じつは恐れるに値しないものだと明かすことで、カースト制と不可触賤民性の呪縛を打ち破ろうと決意するのです。しかし、恐れ、尻込みする不可触賤民の長に、その石に触れるように強い、叱咤するその時、その自らの声、態度、そういったすべてから、自らが人間性を捨てて獣性をあらわにしたことに気づき呆然とすることになります。(350-2)ラトゥールはそれをこう評します。

「勇敢な偶像破壊者は何を破壊したのだろうか?私は、破壊されたのはフェティッシュではなく、かつて議論や行為を可能にしていた、議論し、行為する方法なのだと主張したい。・・・偶像破壊行為において「原住民」を震えあがらせるのは、彼らの偶像を破壊しようとする脅迫の動作なのではなく、偶像破壊者が彼らに負わせる法外な信念なのである。」(353)


 さて、ここで上述したファクティッシュの概念が登場します。他の概念の明晰さに比べ、ラトゥールはこの概念を綺麗に整理することはできていませんが(そしてそのことについてびみょーに居直っていますが)、ともあれ、このファクティッシュ、まずは常にそこに新たに刻み直されなくてはならないもの、行為し、議論するのに不可欠なもの(358)と定義されます。しかし、ではそれは構築されたものなのか(そして社会的に構築されたがゆえにただの迷信でしかないとも言えるものなのか)それとも実在的なものなのか、という問いにたいしては、こう答えうるものである、とラトゥールは言います。「あるものが非常に実在的で、自律的で、われわれ自身の手から独立したものであるのは、それが構築されているが故である、と考える。」すなわち、構築と自律的実在性は同義である、と。(359)

 ここでジャガンナートの物語が意味を持ってきます。彼が依拠する啓蒙の世界観は、こうした構築と自律的実在性をイコールとするような世界観とはちがっています。かれは単に迷信を打破したのではなく、世界をさまざまな諸事物の連関とその密度の中に置くという世界観そのものを強引に否定した、とラトゥールは考えるのです。まあそもそも、迷信なんてまじめに信じてると思いこんでるのはその敵対者だけでしかない、というのはよく知られたことですが。では、ラトゥールの発言を、ちょっと長いですが引用しましょう。

「内部が授けられた主体は、外部に追放された客体と同じくらい奇妙なものである。・・・自らの行為の邪魔になるときはいつでも、諸実体を実在の中から吸い出し、虚ろな信念になるまであらゆる実在性を抜き取ることができる。また、彼の行為を堅実にし、異議を寄せつけないものにするような確実で疑いようのない機械的実体が不足しているときはいつでも、諸実体をふんだんに実在の中に注ぎ込むことができるのだ。その結果、存在する唯一の世界のいたるところで「外側」に石が存在するようになり、それと釣り合うように、サリグラムに対するたくさんの素朴な信念が、信じる者の精神の「内側」に存在するようになる。認識論と存在論の対立に力づけられたこのような仕掛けによって偶像破壊者は、世界を連続した機械的物質で満たしながらも、その全居住者を表象に転換することによって世界から取り除いてしまうことができるのだ。」(372-373)


 内部が授けられた主体、これはここでははっきりとヘーゲル的な「否定」の力を、すなわち事物の非実体化、表象化を担いうる力を持つものとして意識されています。一方ではこうして表象化された主体の内面空間があり、そこではサリグラムという不思議の石の不思議は、世界とはいっさい関係を持たない主体の内面に詰まった迷信に還元されます。他方で、外的世界は、これまた機械論的因果性のつながりをもたない、ただのモノとしての石が転がることになります。こうして、この啓蒙の精神に則った偶像破壊によって、物自体と意識、モノと言葉という二分化された世界の対立関係が導入されるのです。この世界では当然のことながら迷信を「信念」として(なんなら「社会構築された概念」といってもいいけど)持っている愚かな人間と、科学的に裏付けられた「事実」が鋭く対立し、主体に選択を迫ることになります。

 ですから、「制作」あるいはもっと誤解されそうでリスキーな言葉を使えば「社会構築」なるものが、恣意的に陥りやすい、あるいは衆愚的なものだ、という批判は、そもそもがこうした観点、二分化した対立が成立したのちに逆行してそこから想像されたものに過ぎない、ということになります。そのことを表すラトゥールの言明を、最後に二つほどあげましょう。特に後者は、ラトゥールのこの本のまとめっぽい意味もあって便利です。

「科学者は事実を作っているが、われわれが統率できないものを作るときにはいつでも、われわれは行為によってわずかに不意をつかれる。制作者であれば、誰でもこのことを知っている。」(367)

「行為は、その対象によってわずかに不意をつかれること、それは翻訳を通じて偏移すること、実験は、その入力よりもわずかに多くのものをもたらす事象であること、媒介項の連鎖は、何ら努力を要さない原因から結果への移行と同一ではないこと、情報(information)の/移送は、精妙で多重の変換(transformation)を通じて以外には生じないこと、形相を欠いた質料へのカテゴリーのあてはめというような類のことは何も存在しないこと、技術の領域では、誰も命令者にはなれない・・・ことをなぜ認めないのだろうか?命令者になること、もしくは支配するということは、人間や非・人間の属性ではないし、神の属性でもない。それは、客体や主体の属性として考えられたものであった。」(390)

 デオドール・ライク以来の精神分析で「驚き」が持つ意味を、これは感じさせてくれます。ラカンなら「驚きの効果」(1971.2.17)と呼ぶものです。


 さて、このファクティッシュの概念、これはこれで、もちろん危険をはらんでいることはたしかです。事物と言語、対応説的な真理、そういった二元論を廃して、ネットワークの中の相互作用の密度と、その全体像から捉えられた実在論的世界、という考え方はわかりますが、一方ではそれはあまりにデ・ファクトスタンダードの思想でもあるように思え、そして他方では忘れ去られた真理、フロイトふうにいえば「低い声でつぶやき続けている真理」にたいして否定的に過ぎるのではないかと。

 このへんの問題は、まだわたくし自身クリアになっていないので、これからまた考えねばならないことではありますが、しかし、ラトゥールのこうした説にもっとその深い展開を期待したくなるような美点があるとすると、それはたぶんこんな個人的関心と関わっているからです。



 たとえば、だれかが悩みを抱えているとして、その悩みのあまりたとえば胃潰瘍にでもなってしまうほど深刻であったとしましょう。難しいのは、その悩みが必ずしも現実に対応していないことです。つまり、表象と事実の対応という真理説ではたぶん誤謬にされてしまう。ややこしい言い方をしないでも、一般的には「気のせい」といいますね。で、それを救おうと社会構成主義的なセラピー理論を援用しつつ、それは彼女が構成した世界観であって、それをポジティブなものに代えていこうじゃないか!という考え方は、賭けても良いですが悩んでいる当人が断固として否定します(いやそういう人もたくさんいる、くらいにおまけすべきかしらん)。つまるところ、対応説的真理か、社会構成論的真理か、では、問題に対応できない気がするのです。

 そんなときに、相手と上手に話すことを教えてくれそうな理論はたくさんあります。しかし、ちょうど魚と話すように相手と、胃潰瘍さんとも上手に話のできる、そんなやり方と考え方はあまり無いような気がします。もしかしたらラトゥールのこの考え方は、その候補になりうるものかもしれません。いや、はかない希望かもしれないけど。でもそれは、すくなくとも、分析における構成の仕事、を、いわゆる社会構成主義とはぜんぜんちがった方からちゃんと読み直す助けにはなってくれそうに思えるのです。