低温殺菌処理された世界

 さて、前回前々回と、「科学論の実在―パンドラの希望」(川崎勝、平川秀幸訳、産業図書、2007)からおはなしを続けてきました。前回はかれの「実在論」が、ハイデッガーなら「カプセル状の自我」とよぶであろうような、内部にたっぷりの妄想(と言語)、外部に不可侵の物自体があって、言語が対応という名の下に、あぶなっかしくそれを架橋しようとこころみている、という考え方の否定からはじまっていることを見てきたわけですが、今回はでは、もっとはっきり実在という言葉に光を当ててみましょう。

 うれしいことに、前回までの話が頭に入っていれば、実在の規定の変化については話はもっとわかりやすいものです。前述した「分節化」「発話」の定義からわかるように、より多くの分節化、より多くの発話があれば、それだけ実在性は増していく。このあたりは、非常にタルドに近いものがありますし(この辺でちょっと説明したことが)、そういうラトゥールがタルドを評価しているのも当然といえば当然です。「一つの実体は、それと協働していると観察された多数の他の実体と連関している場合に、実在性を獲得する。逆に、連関ないし協働(人間および非・人間との)を放/棄せざるを得ない場合に、実在性を喪失する。」(202/203)

 さて、ここから二つの術語が定義されます。

・実体(substance):「「実体」の語は、歴史に左右されない「下に残っているもの」ではなく、多数のエージェントを一つの安定し一貫した全体へとまとめ上げているものを指し示している。・・・実体は集合体の「安定性」を指し示す名前である。」(193)

・制度(institution):「実体を指し示す最良の語は「制度(institution)」である。」(194)


 うん、とっても明快ですね。実体はこうした一連の指示の集合体のなかで安定性を持つもの、そしてその安定性を保たせているものが制度です。

 ですから、たとえばこのパストゥールの発見のあった1864年について言えば、「一八六四年以降に構築された一八六四年は、一八六四年の間に生み出された一八六四年と同一の要素、組織、連関を有していない。」(217)ということになります。そしてまた、このときのパストゥールが正当で、自然発生を巡る議論ではパストゥールの反対者だったプーシェさんが間違っていたと言えるのは

「二つの立場を非対称に保つために現在なお作動している制度的機構を明晰かつ厳密に示すことができるという条件下でのみ可能なのである。この問題に対する解決策は、問題を以下のように定式化することである。われわれは誰の世界で今生きているのであろうか?パストゥールの世界であろうか、それともプーシェの世界であろうか?」(214)


 ということになります。つまり、われわれはパストゥールさんの命題と分節化とより多く連関を持つ世界に生きている、ということです。当然のことながら、ここからは、では歴史のネットワークの中から孤立したに見える、忘れられて無視された真理が再発見されるときはどうなるのだ、という疑問も残るわけですが、これはいまは控えておいて、ラトゥールの議論を追いましょう。

 ここで一つ面白いのは、ラトゥールが「パストゥールの世界、プーシェの世界」というような、ある種の多世界論的な物言いをしている点でしょう。それはまた同時に、「パストゥールとの出会いにより、微生物にも変化が生じたのである。微生物にとって、パストゥールはいわば「事件として生じた」のだ。」(186)という、一見すると奇妙な実在的変化についての言及にもつながってきます。これについては、多くの人がライプニッツを連想することでしょう。

 てっとりばやく手元の山内志朗ライプニッツ―なぜ私は世界にひとりしかいないのか (シリーズ・哲学のエッセンス)」(NHK出版、2003)をひもときますと、この「実在的変化mutatio realis」は、面白いことに「すべての存在者は互いに交通を有している」(ライプニッツ『実在的現象と想像的現象を区別する方法について』)という箇所のあとにあらわれているのです。
 実在的変化とは、たとえば夫がインドにいる間に、ヨーロッパで妻が死ねば、即座に夫には実在的変化が起こる、というはなしです。ん?夫は妻の死のことをその瞬間は知りようもないわけだから、なんにも変わりようがない、という気がしますが、ライプニッツせんせい曰くちがうのだと。たとえば、妻がいてそしてその妻が死んだ、とかいうのは、夫にとって外的な規定であり、実在的な規定とは内的な規定でなければいけないはずだから、妻の死はなんら実在的変化をもたらさないはず、ということにたいして(まっとうな意見に思えますが)ライプニッツは反論します。述語は主語の概念にすべて含まれるはずなので、内的規定に根拠を持たない外的規定は存在しない、云々。

 率直に言うとここでの山内先生の解説は今ひとつ判然としないのですが、うん、ライプニッツをまだよく分かっていない当方にも大きく問題があることは確実なのでそれはおいておいて、しかしあるいはモナドの交通という概念を、ラトゥール的にそれ自体が実在を定義するもの、と考え直して、それゆえ実在的にも変化が起きるはずだ、と解釈してみても面白いのかもしれない、と思ったりする次第でございます。

 さて、次回はさいごにひとつ、ファクティッシュというラトゥールの概念を拾いつつ、おはなしを閉じることにしましょう。