ロンドン橋落ちた

 さて、前回はブルーノ・ラトゥール「科学論の実在」(川崎勝、平川秀幸訳、産業図書、2007)から、まずはかれの愛する(たぶん)パストゥールのお仕事をもとに、かれが素朴実在論と社会構築主義というわかりやすすぎる対立を否定したところまでおはなししてきました。とはいえ、ちょいとのんびりと話が展開したので、面白いところに入る前だったかもしれない、といううらみがなきにしもあらず。

 で、その反省をもとに、ではラトゥールがどんなかたちで積極的に持論を打ち出しているかを紹介しよう、というのが今回のおはなし。まずは、かれの導入する二つの述語三つの術語*1の、命題、分節化、発話を紹介しておきましょう。このみっつ、一気に読まないとちょっとわかりづらい、という点は念頭において頂いて。

 ではまず命題から。

「私は、人間と非・人間の関係に関して、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの用語、命題(propotisions)の概念を借用して、まったく新しいモデルを確立したいと思う。命題は、言明でもなく、事物でもなく、さらにはいかなる類の両者の間の中間項でもない。命題は、まず何よりもアクタントである。パストゥールも、乳酸発酵素も、実験室もすべて命題である。諸命題を互いに区別しているのは、言葉と世界の間の単一の断絶ではなく、それらの間の多数の差異である。命題は・・・異なった自体が接触をとるために与えられた機会である。この相互作用の機会によって、実体は、ある一つの事象・・・の過程で定義を修正することが可能となる。」(181)


 さて、これだけだとまだちょっとわかりにくい。わかりにくいのは当然で、ラトゥールの議論の中では、命題は単一でころんと転がっていてもなんの意味もありません。これは、つぎの分節化とワンセットになって始めて意味を持つからです。ですので、大急ぎで次を紹介しましょう。

「諸命題の間に確立される関係は大きく口を広げた断絶を横断する対応ではなく、私が分節化(articulation)と呼ぼうとするものである。」(182)
「命題には、客体の固定された境界は存在しない。それは、他の実体の歴史の中の驚嘆すべき事象である。より多くの分節化が存在すればするほど優れている。」(183)

 つまり、命題、すなわち何かしらの働きかけを行い、そして働きかけを受けることのできる要素があり、そしてそれらの間に結ばれる関係を分節化というのです。こうした分節化のことを、あるいは発話といってもいいことになるでしょう。

「きわめて単純なことに、乳酸発酵素に関して語られることがどんどん増大し、次から次へと多数の人々によって語られたことは信頼性を獲得していくのである。生化学の分野は、その語のあらゆる意味において「より分節化された」状態になる」(183)


 そう、そんなわけで、前回の枕に振った矢野顕子の詩のように、この本から魚と話すことを思いだしても不思議ではありません。魚も釣り針も餌も、海もその波も光も風も、そして釣り竿とわたしと私の座る簡易ベンチと港の堤防と、そんなものが諸命題であり、波が竿を揺らし、光が餌の色合いを少し変え、そういったものが分節化であり、発話です。たぶん。ちがってたらどうしよう。

 ここから派生するのは、次の二つです。まず一方に、言葉と物自体、それを隔てる深淵、といった道具立ての否定があります。そして、さらには実在そのものの定義の変換です。

 言葉と物自体、これはおなじみです。一方に事物、一方に言語。そしてこの二つが対応していれば真理、なつかしの対応説ですね。このとき、事物の世界と言葉の世界は、二つの分離した、それぞれが自己完結した世界である、ということになります。そして、この二つを架橋するあぶなっかしい橋を架けようと哲学は冒険してきた、あるいは冒険する振りをしてきた、と。

 ラトゥールがこの、言ってみれば物自体と現象とからなるシステムに対置するのが「指示」ということばです。これは、言語が外部の実在を指示する、というような意味で使われるものではありません。むしろ、翻訳というほうが正確です。あるいは「変換」といってもいい。個々の変換では、当然のことながら「物質(質料)」と「形式(形相)」の間に小さな断絶が存在します。ですから、変換のたびに、ある属性が失われることによって他の属性を獲得していくことになります。問題はラトゥールがこの変換を可逆的である、としている点でしょう。もし可逆的が、情報の劣化無しにもとの形式に再変換可能である、という意味だとしたらどうかなあ、と疑問なのですが、どうもそこまでの意味で可逆的といっているようではないようです。魚が針をつつき、針が釣り糸を揺らし、というならその逆に糸が針を動かし針が魚を動かすことも可能だ、という程度でしょうか。
 そして、こうした一連の指示と変換が、われわれの歴史性を作り出します。「指示を作り上げる諸変換の列におけるすべての変化が差異を作り出すし、差異こそが、生き生きとした歴史性・・・をさしあたり動かし始めるのである。」(192)

 興味深いのは、こうした媒介項の連鎖、小さな断絶を含みつつ連鎖していく指示ないし変換の系列は、ラトゥールにとっては歴史性であったわけですが、同時に、(一般に非歴史的とされる)野生の思考を表すためにレヴィ=ストロースが用いた比喩と奇妙なほどに似通っているという点でしょう。

 「こんにちのトーテミズム」のなかで、レヴィ=ストロースは、野生の思考の世界認識をこういう比喩でたとえます。それは向き合った壁に取り付けられ、厳密には並行でないけれど、たがいがたがいを映し合うたくさんの鏡に似ている。そこには多数の像が形成され、そのどれ一つとして同じものではない。だからそれは部屋の中にある様子を部分的に認識しているに過ぎないけれど、それの全体を集めると、いくつかの不変の属性で特色づけられ、真実を表現するものになる、と。同時にこれは、あとでちょっと触れますが、とてもライプニッツ的なイメージでもあります。そして、こうした一連の「指示」は、どこかしらライプニッツ的な表出に近いものでもあります。したがって、問題は歴史性という言葉をむしろこうした認識の中で把握し直すことなのですが、それはまたべつのはなし。

 さて、このはなしの良いところは、たんにわれわれがいう「ことばともの」の世界に対するアンチテーゼと言うだけではなくて、むしろそれらも、この一連の指示の連鎖のヴァリアントとして捉えられますよ、というところでしょう。つまり「深淵によって隔てられ、対応という危険な橋によって関係づけられた言葉と世界という規範的モデルを得るためには、循環する指示を考え、結び付きを不透明にする不要な中間項としてすべての媒介項を消去さえすればいい。これは、過程が(暫定的に)終了した場合にのみ可能である。」(93)とかんがえるのです。下位区分として位置づけることができる、となると、理論的にはこちらのほうが強力、といえることになるかもしれない。そしてこのことは、シニフィアンの概念を巡るラカンガタリの対立を思い出させるのですが、これはまた別の話。この辺、そう、ハイウェイスターのラカン対一般道でいくもんねドゥルーズ=ガタリなおはなし、でちょっとふれたけど。

 では、次回は彼の本の題名にもなっている「実在」についての彼の定義を考えていくことにしましょう。

*1:数が数えられませんか字がわかりませんかあなた、というツッコミはさておいて。。。3月3日23時修正