島根のシネマは暇シネマ

 世の中、賢く見せるには「自分の知らないことはしゃべらない」ということが大事であることは、よく分かっています。
 もうちょっというと

1. 知らないことはしゃべらない
2. 目的のはっきりしないことはしゃべらない
3. そもそも1.2.のような状況に身を置かない


ということが大事であることも、これまたいうまでもありません。完全に無目的に見える当ブログも、いちおう読書会での議論の続き補足補遺まとめ、あるいは伝え忘れたポイントの伝言等々とその合間の雑談を兼ねていたことは意外に知られていない事実です。
 とはいえ、世の中、出来ないことでもしないといけない状況に陥る、ということもよくあることで、そうなると上記の1-3は一瞬で無効になってしまいます。そんなときはあわてず騒がず補足条項4番

4. そもそも賢く見せようなどと思わない


を付け加えることになるわけで、今回もそんなときです。

 まあ、そんな長い言い訳と共に今回取りあげねばならないのは、シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)」(宇野邦一ほか訳、法政大学出版局、2006)でございます。

 さて、何が困ったといって、この本、取りあげられている映画をほとんど見たことがない、それどころか知らない固有名詞がいっぱい、知らない技術用語もいっぱい、そもそも映画が苦手で映画館でも目をつぶってることが多い、という不出来な輩なのです、わたくし。いや、寝てませんよ、目が悪いので耳から入る情報だけを楽しんでいるのです。そもそもウォークマンからiPodに至るまで、耳をふさいで外を歩いている奴は辻斬りに襲われても文句は言えない、と思っているほどの聴覚優先主義者なので、こればっかりは致し方ありません。まあ辻斬りとかいませんけどね。いまどき。たぶん。そして、そんな事情でまだ未邦訳の「シネマ1」のほうは読んでない。ガエターノの本(「ドゥルーズ、映画を思考する」)も読んでない(廣瀬さんすいません)。うん、ひどい話ですね。っていうかなんで2から出るんだ。マルクスだってなんで亡霊より先に息子たちがでたんだ、と、八つ当たりするだけしておきたい気分。

 ですので、諸々の哀しい事情でこの本を勉強せねばならなくなったとはいえ、ここはすっぱり映画の話を扱うのは諦めて、理屈っぽいところだけ簡単にまとめておくだけにしよう、という、己の分を知ったというべきか、じゃあやる意味ないじゃんというべきか、そんな方向性で進んでいくことにしたいと思います。

 いや、理屈だけをまとめるのも意味があるじゃん、この本、長いし、けっこう錯綜してるし、と、読み進めながら途中までは思っていたのですが、困ったことにこの本、第10章第2節でドゥルーズ本人のまとめがあります。まとめとは書いてないけど実質みごとなまとめです。じゃ、そゆことで、黙ってここ読めばいいじゃん、というご指摘はもっともですが、ここだけだとさすがに簡潔すぎるので、ここをつねに念頭に置きつつ、本文からふくらましていく、という方向で、簡単に、ぶっさいくにどんくさくレジュメを作っていくことにしたいとおもいます。おんなじように映画苦手だけどドゥルーズベルクソン解釈は興味あるし、とか、そんなひととともに。いや、第1巻読んでないとそのベルクソン解釈だって半分しか読めないんだけど。。。

 さて、サブタイトルにもあります、運動イメージと時間イメージ。はなしはそこからです。いや、運動イメージは第一巻のサブタイトルですが。だからなんのことか厳密にいえばわかりませんが。でも、とりあえずこの巻からわかることだけで話を始めましょう。

「運動イメージは事物である。それは、運動の中で、連続的機能としてとらえられた物体そのものである。」(37)
「運動イメージには二つの側面がある。その一方は、対象に関する面であり、運動イメージは、対象相互の位置を様々に変化させる。そして他方は、全体に関する面であり、運動イメージは、全体の絶対的変化を表現する。対称の位置は空間にあるものだが、変化する全体は時間の中にある。」(47)


 うん、なんか、運動イメージのほうはけっこう普通っぽい予感。たしかに、この前の箇所では「運動イメージは、それが表象するはずの対象と似てはいないからである。それはベルクソンが『物質と記憶』の第一章から既に指摘していたことである。」(37)というかたちで、そんな普通っぽくないことは伺えるわけですが(そしてこの辺に関してきっと第一巻で繊細な議論が積み重ねられていたはずなのですが)「経験的形態における時間と時間の流れを構成するもので、以前と以降の外的関係にしたがって継起する時間」というその時間的構造も、また「古典的な説話は感覚運動的図式の法則にしたがって、運動イメージの有機的な構成(モンタージュ)からなる。」(36)という指摘からわかるように、その時間構造からなる言説構造も、まあ古典的な時間図式にしたがうものといって、少なくともこの段階では良いような気がする(くどいようですが第1巻を読んでいないのでその確定は出来ません)、とはいっていいでしょう。

 とはいえ、今回はそこからの逸脱による時間イメージの露呈がテーマ。大急ぎでドゥルーズの言を引きましょう。

「映画イメージに固有の運動の逸脱は、時間を、あらゆる連鎖から解き放つのであり、運動の逸脱は、時間が標準化運動と結ぶ従属的関係をくつがえすことによって、時間の直接的現前を実現するのである。」(51)


 もっといえば、それは単に時間を直接的に現前させるだけでなく、のちの運動イメージによって構成された古典的な時間性の基礎そのものでもあります。

「逸脱した運動があらわにするのは時間であり、それは全体としての、「無限の開かれ」としての時間であり、身体的運動性によって定義されるあらゆる標準的運動に先行する時間なのである。」(51)


 これを、ドゥルーズの美しい比喩を借りて表現して、今回のまとめとしておきましょう。

「もはや単に運動が逸脱的なのではなく、今や逸脱がそれ自体で価値をもつものとなり、その直接的原因としての時間を指し示す。「時間は蝶番から外れる」、時間は蝶番から外れるが、世界における行動のみならず、世界の運動が、この蝶番を時間に課していたのである、もはや時間が運動に従属しているのではなく、逸脱した運動が時間に従属しているのである。感覚運動的状況→時間の間接的イメージという関連にかわって、純粋に光学的で音声的な状況→直接的時間イメージという位置づけられない関係が表れる。」(56-57)

 そういうわけで、今回はこの「蝶番から外れた時」、そこで出現する直接的な時間イメージを考えていきましょう。