光の子

 さて、前回は、シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)」(宇野邦一ほか訳、法政大学出版局、2006)を、2、という題名からも当然その存在が予期される1も読まない、紹介されてる映画も見ない、理論的まとめらしき節のある本の理論的まとめをしよう、という、割とインチキな企画であることを説明して(いいわけして)ほんでもって時間イメージに先行する運動イメージについて簡単にまとめてみたのでした。というわけですごく内容がない記事だったわけですが、そんななかでも、時間イメージが運動イメージの逸脱によって成立し、しかし単なる逸脱にとどまらずより根源的な時間性として運動イメージを成立させているものかもしれない、というところまではフォローしてきました。で、今日はその続き、時間イメージについて。

 とはいえ、このふたつのイメージ、何がちがうんかいな、というのは、言葉そのものからはちょっとわかりにくいかもしれない、ということで、ここでドゥルーズベルクソンの二種の再認の違いを引き合いに出してきます。
 ベルクソンによると、一方には、自動的・習慣的再認は運動感覚的再認があります。これは、牛は草を再認する、わたしは友人を再認する・・・といった具合。わりとふつう。他方、注意深い再認は、対象のいくつかの輪郭を強調し、そこからいくつかの特徴を引き出すために対象に戻り、対象を見直す、といったプロセスを経ます。つまり、対象のほうは同じものであり続けるが、それが様々な面を通過するのだと。そして、前者は感覚運動的なイメージを持ち、後者は光学的音声的イメージを構成するのだ、とドゥルーズはいいます。(60-61)なによそれ、現実が想い出とオーヴァーラップする美しい回想の重層性ってだけ?って気がしてきますが、ここは落ち着いてかれの説明を待ちましょう。さて、かれの説明によれば、なるほど前者が運動イメージに、後者は時間イメージに対応するらしい。ということは、この光学的音声的イメージというのを知らねばなりません。

 その光学的イメージについて、ドゥルーズはこう説明します。

「・・・このイメージの簡素さ、このイメージがとりあげるものの希薄さ、線や単なる点、「とるにたらない微細な断片」は、そのつど事物を本質的な特異性へといたらせ、たえず別の描写へとさしむけながら、くみつくしえぬものを描写するのである。したがって光学的イメージこそが、真に豊かで「典型的」なものなのである。」(62)


 なるほど、なんやようわからん微細な断片であり、それが他の描写へとたえず差し向け続けられることで、汲み尽くし得ぬものが描写されると。つまり、なにやら回想をかきたてるもの、ということなのでしょうか。じゃあ回想イメージと呼べ、ということになるのでしょうか?しかし、どうもそう簡単ではないらしい、と、ドゥルーズは厳密な説明を続けます。ここのとこはベルクソン直系ですね。やや長いですが二箇所引きましょう。

「[光学的イメージは]・・・このイメージが呼び覚ます「回想イメージ」と関係を結ぶのである。・・・いずれにしても重要なのは、それら二つの項が、性質の異なる関係を結びながら、それでも「たがいに追いかけあい」、たがいにかかわりあい、どちらが最初ともえいあにように、たがいに反映しあい、極限では、同じ識別不可能の点へと落ち込んで一体になろうとするということである。事物のしかじかの様相には、記憶の領域、夢の、あるいは思考の領域が対応する。」(63)
「純粋に光学的で音声的な状況(描写)は現働的なイメージであるが、それは運動へと延長されるのではなく、潜在的なイメージと連鎖し、これとともに一つの回路を形成する。問題は、何が潜在的イメージの役割を果たすことができるか、より正確に知ることである。」(65)


 ふんふん、なるほど、つまり、それは単なる回想とはちがうのです。つまり、それは記憶の領域、思考の領域とよばれるもの、あるいは潜在的イメージとなるべきものと、最終的には識別不可能になるまで相互に転換し合うものである、ということのようなのです。第10章第2節でのドゥルーズによれば、それはもはや人が反応し得ないような状況、偶然の関係しか成り立たせない環境、あるいはまた、空虚なあるいは分断された任意の空間が出現している状況を、純粋に光学的かつ音声的状況と呼ぶのであり、人物はそれにたいしていかに反応するかを知らない、とされています。回想イメージとかは、単に時間の逆行が入るけれど、時間軸の枠組み自体は尊重されているから、それとはちがう、と。そして、光学的音声的状況のもたらす混乱については、「注意深い再認は、成功したときよりも、失敗したときのほうが、はるかにわれわれに多くのことを教えるのである。」(75)「それはむしろ、真に潜在的な要素と関係を結ぶのである。」(76)「つまり、われわれに光学的-音声的イメージの正確な相関物を与えるのは、回想イメージや注意深い再認ではなく、むしろ記憶の混乱と再認の失敗なのである。」(76)といったかたちで述べられています。*1

 ほうほう、で、じゃあ失敗するとどうなるのだ、とわれわれは疑問に思います。そこで、ドゥルーズベルクソンの記憶論を援用するのです。

「回想イメージは「潜在性」を表象し、具現するものであり、このイメージを他のタイプのイメージから分かつのは「潜在性」であるが、ベルクソンは、回想イメージが単独で過去の刻印、つまり「潜在性」の刻印をもっているのではないことをたえず指摘した。イメージが「回想イメージ」となるのは、ただ「純粋回想」を、それがあった場所に探しにいった場合に限るのであり、「純粋回想」とは純然たる潜在性であって、即自的に存在する過去の隠された諸領域にある・・・」(74)
「回想イメージは潜在的ではなく、潜在性を(ベルクソンはそれを「純粋回想」とよぶ)自分のために現働化するのである。・・・回想イメージは現働化したイメージ、あるいは現働化の過程にあるイメージであり、現働的な現在のイメージとともに識別不可能な回路を形成することはない。」(75)


 むつかしい。でも、とりあえず、この純粋回想なるものが問題であることは分かります。それは、思い出された回想イメージそれ自体とはちがう。回想イメージは、それ自体はただのイメージであり、即自的かつ純粋な記憶の領域、純粋な潜在性にあるもののなかに、それと重なるものを探しに行った時、始めて回想という過去の刻印をもらってこれるようなのです。つまり、回想は回想としてのほほんとそこにあり、いつでも現在からのお呼びを待ってる、クリックして下さいねいつでも出てきます的エロ動画ではない(なぜエロ動画限定でなければならんのだ?)そうではなく、あるイメージが一瞬にして、フォーカスを絞りきるように過去そのものに焦点を当て、そのことで回想イメージ自体が、はいこれは回想ですという徴を刻まれつつも、そこを通じて流入してくる純粋回想への通路となる。このとき、純粋回想は、いってみれば事後的にその存在がそれと知られうる、にもかかわらずその事後性の条件として、とりあえず論理的に仮構されたものである、ということになります。ですから、この
「即自的」というのは、ヘーゲルがつねにそうであるように論理的に措定されねばならない仮構物であらざるをえません。ついでに言っておけば、上述の引用箇所から判断するに、この逆流を引き起こすのは、むしろその回想イメージがその記憶と現在との間にふさわしい位置を占めることに、そしてストーリーの中にとけ込むことに失敗したとき、ということになるでしょう。

 こうして、あるイメージが一瞬で純粋に潜在的であった記憶の領域総体を動員する。そのことによって、現在と過去が識別不可能なほどの複雑な、めまいのするような交換というか相互変容を起こすのであって、現在のイメージと回想のイメージがごっちゃになったとかいう話ではないのです、多分。きっと。

 ドゥルーズはそれを結晶化という美しいイメージで語ります。それを次回は考えていきましょう。

*1:それにしても、ここではちょこっと夢と記憶、思考と併置して言及があるし、そもそもベルクソン本人がそういう風にして夢を論じていたはずなのに、いつの間にか夢からその立場を取りあげるよね、というツッコミは、とりあえず控えておきましょう。