薔薇の蕾

 さて、前回前々回と、ドゥルーズ「シネマ2」のお手軽にして好い加減な要約ということで話を進めてきました。前回は、運動イメージから時間イメージへの変化、そしてそのなかに息づく純粋回想と現在との出会いのメカニズムを、ドゥルーズが「結晶化」という美しいことばで表現していた、ということまで触れました。そんなわけで今日はその、結晶の作り方を勉強してみましょう。

 時間イメージが発生するには、現働的イメージがそれに固有の潜在的イメージそれ自体と関係し、出発点の純粋な描写が二重化し、自らを反復・引継・分岐・背反し、同時に現働的でも潜在的でもあるイメージが構成されねばならない、とドゥルーズはいいます。こうした二重性については、前回簡単に触れました。
 さらに続けましょう。それは時間の直接的な現前であり、過ぎ去る現在と保存される過去の間に二重化する構成的過程であり、現在と、現在がやがてそれになる過去との厳密な同時性であり、過去と、過去がかつてそれであった現在との厳密な同時性である、と、ドゥルーズベルクソン的な時間意識を踏まえつつ語ります。ここまで来るとなんのこっちゃようわからん気がしてきます。しかし、たんなる経験的な時間の流れがそこにあるわけではなく、むしろ時間というものを現象させるメカニズムそのものがそこで露呈する、というのが骨子であろうとは思われます。その決定不可能性、識別不可能性が、ひとを純粋回想のなかへと連れ戻し、現在時はその純粋回想のなかで決定的に過去にとけ込むことで、現在性を失うと当時に過去の永遠の中に保存され、そのことでまた、過去は現在時との等質化を、ある種の浸透を、引き起こすのであると。

 たしかに、それはちょうど、結晶核と媒質の間の交換が可能なように、現実的なものと想像的なものの識別が不可能になることなのだ、といってもいいでしょう。かれの結晶核という言葉はそこから由来します。このあとのドゥルーズの言葉は印象的です。長いですが二箇所引きましょう。

「実際、一方で結晶核は潜在的イメージであり、現働的には不定形である媒質を結晶化させることになる。けれども、他方でこの媒質は、潜在的に結晶可能な構造をそなえているはずであり、この構造との関係において、こんどは結晶核が現働的イメージの役を演じることになる。ここでもまた、現働的なものと潜在的なものは、そのつど区別を保持しながら識別不可能なかたちで互いを交換しあう。」(102)
潜在的な結晶核(「薔薇の蕾」)が現働化するかどうか、まえもってわからないのは、現働的な媒質がそれに対応する潜在性をそなえているかどうか、まえもってわからないためだ。」(103)

 つまり、たとえば結晶核が潜在的な過去であったとしましょう。そこからは、時間が脱臼し、停止し、空白になったような瞬間が発生します。それが現在を取り込んで、それを媒質として結晶は大きく成長する。そのとき、結晶核と媒質を区別することは出来ません。しかし、ある結晶核は、そのひとのなかでつねに核として機能している、という言い方はやはり不正確で、それは現在時、現働的な媒質の結晶化を待って、はじめてそれと知られるのです。「その場における現働的-潜在的回路であって、転移する現働的なものに応じる潜在的なものの現働化ではない。それは結晶イメージであって、有機的イメージではないのだ。」(110)とドゥルーズは言います。しかし、ドゥルーズのもつ生来の傾向は隠せず、例のまとめにあたる第10章第2節、377頁では「胚種」という言葉が使われていたりします。本質的にはこの人、差異と反復以来「世界卵」のひとだとは、むかしちょっと書きました。

 したがって、結晶の構成は、一方で純粋に潜在的なままにとどまる、この奇妙な実在、普遍あるいは宇宙としての純粋過去を必要とします。ここだけが、純粋に形而上学的な仮定であり、ドゥルーズベルクソンを必要とする理由でもあります。ちょっと長いですが引用しましょう。

「過去の諸層は存在する。それらはわれわれがみずからの回想イメージを掘り起こす地層である。しかしこうした過去の諸層は、永遠の現在としての死、最も収縮した領域としての死ゆえに利用することさえできないか、それとも層化されていない実体の中で、破壊され、分解され、解体されるがゆえに、もはや喚起することさえできないかのどちらかだ。おそらくこの二つは一致するのだろうし、おそらく普遍的な実体は死という収縮点においてしか見いだされないのだろう。しかしそれらを混同してはならない。そこには、時間の二つの異なった状態があるのだ。すなわち、不断の危機としての時間、そしてより深い、巨大な恐るべき第一質料としての、普遍的生成変化としての時間である。」(159)

 この、第一質料、なんとも古典的なこの用語、ここさえ出来てしまえば、あとは「不断の危機」を通じて介入する現働的なものが、その純粋回想に触れることで、過去へと、一瞬で凍り付くように過去化し、その現在性を失わせます。しかし同時に、純粋に潜勢的なままであったはずの、すべての過去の総体、過去の宇宙全体が、現在時に一瞬にして流入してくる、といってもいいはずです。そのことによって、その流入によって、過去ははじめて過去となるのです。興味深いのは、ドゥルーズは一瞬、その時間性の出会いないし触発を主観性ととらえていることでしょう。このモチーフは、なぜか一瞬現れてきただけなのですが、決定的に重要です。

「結晶の中に見えるのは時間それ自体、時間のほとばしりなのだ。主観性とは決してわれわれの主観性ではなく、時間、すなわち魂あるいは精神、潜在的なものである。現働的なものはつねに客観的だが、潜在的なものは主観的なものである。それは、まず情動〔触発〕であり、われわれが時間の中で感じるものであった。さらにそれは時間自体であり、触発するものと触発されるものに二重化する純粋な潜在性、時間を定義するものとしての「自己による自己の触発」なのだ。」(114)

 さて、ドゥルーズの議論をそのまま追うのであれば、ここでは本来「偽なるものの力能」と仮構作用についても論じなければいけないのですが、ここは、この主観性という方向性を重視して、アルトーと思考についてドゥルーズが論じた箇所まで、すこしジャンプしてしまいましょう。そこを次回。でもその前に、この主観性がなにを意味しているか、そのオチだけは書いてしまいましょう。


「[ベルクソンによれば]唯一の主観性とは、時間であり、根底でとらえられた、時系列的でない時間であり、われわれは時間の内部にいるのであって、その逆ではない」(113)
「[プルーストならば]時間はわれわれにとって内的なのではなく、二重化する時間、それ自体失われてはそれ自体において保存される時間、現在を過ぎ去らせ過去を保存する時間に対して、われわ/れが内的なのである、と」(113/114)


 こうした時間と主観性とのかかわり、しかし、そこにおいてドゥルーズは、決定的にベルクソンと別れなければいけないポイントに来ているように、わたくしには思われるのです。にもかかわらず、割と多くの場合(少なくともドゥルーズ専門家でない外野の素人の野次馬の見物人から見た場合)、この本はベルクソンは映画に否定的だったけどしかしドゥルーズベルクソン理論を巧妙に換骨奪胎しながら映画を論じたことになっている、ような気がするのですが、しかしここから先にあるのはベルクソン的な内在性の理念と、そしてそこからかろうじて許容されるであろう触発の否定ではないかしら、と、いつも思っている箇所を、次回から。