ひかるかいがら

 さて、ここまで、われわれはドゥルーズシネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)の理論的骨組みだけをインチキに取り出す、という試みを行ってきました。計画通りここまでドゥルーズが論じる映画の一本とて引用しないというラディカルっぷり。居直るにもほどがあるというものです。
 そして、この第二巻のサブタイトルにもなっている「時間イメージ」すなわち時間性そのものの露出、という問題を見てきました。そこでは当初ベルクソンに想を得た、結晶核という美しいイメージでその露呈の機構が説明されてきたのでした。一方では現在に流入し、現在と(そして未来の予期を)形づくる純粋回想と、その流入を(事後的に)可能にする、現働的とも潜在的ともつかなくなる現在と、そしてその現在は流入を通じて一瞬で過去へと結晶し・・・といったありさまは、ドゥルーズならではの美しさに満ちています。

 とはいえ、だいじなところで、ドゥルーズは奇妙なゆらぎを見せます。前回も引きましたが、重要なのでもう一度引きましょう。

「結晶の中に見えるのは時間それ自体、時間のほとばしりなのだ。主観性とは決してわれわれの主観性ではなく、時間、すなわち魂あるいは精神、潜在的なものである。現働的なものはつねに客観的だが、潜在的なものは主観的なものである。それは、まず情動〔触発〕であり、われわれが時間の中で感じるものであった。さらにそれは時間自体であり、触発するものと触発されるものに二重化する純粋な潜在性、時間を定義するものとしての「自己による自己の触発」なのだ。」(114)

 自己による自己の触発。自らに触れる純粋回想。その「自己による自己の触発」が時間性そのものを作り出します。ここにあるのは、自らに折り返される、あるいは出来事を通じて自らと出会いの時を迎える純粋な記憶と、そこからの主体性の到来ともいうべきものです。

 しかし、そのあとドゥルーズが、主にアルトーに依拠しながら論じるそのメカニズムは、この自己触発の柔らかなイメージとはほど遠いものなのです。

 まず、そもそも運動イメージから時間イメージへの移行を可能にしたものがいつの間にか変容します。たとえば、ジャン・ルイシェフェールを援用しながら、ドゥルーズはこう語ります。

「映画のイメージは、それが運動を逸脱させたこと自体を引き受けるとき、世界の中断をもたらし、見えるものに、ある動揺をもたらすと、彼はいっている。この中断や動揺は、エイゼンシュタインが望んだように映画を可視的にするどころか、反対に思考において思考されないものに、同じく視覚において見えないものに関わるのである。・・・映画において思考は、固有の不可能性と対面し、それにもかかわらず、そこから一つのより高度なり機能あるいは生成を引き出す、と彼は言っている。」(235)
「感覚運動上の断絶は人間を見者にするのだが、この見者は、世界における耐えがたい何かに打ちのめされ、思考における思考不可能な何かに直面するのだ。この二つの間で、思考は奇妙な石化を被るのだが、それは思考が機能し存在することの不可能性であり、思考がそれ自体と世界から剥奪されている状態なのだ。」(237)


 そうです、運動の逸脱や中断は、この思考不可能性との出会いによって説明されるようになるのです。そしてこの後になってはじめて、イメージは第一に非合理的切断において再連結されるようになり、そこには独創的で特徴的な連結の様式、連結を解かれたイメージの特徴的な脈絡が見られるようになります。ですが、実際には、そこではまだ存在しない力能としての思考があって、それは外部から生まれ、あらゆる内部世界より深いひとつの内部、思考不可能なものあるいは思考されないもの、それに直面する、というのです。そしてここでは、内部化、外部化、統合や分化の運動は存在せず、ある外と内との対面、外の思考と思考において思考されないものとだけがある、と。これをドゥルーズのことばでいいかえると、つぎのようになります。

「われわれはもはや、たとえ開かれた全体であっても、思考の内面性としての全体を信じるのではなく、内に掘り進み、われわれをつかみ、内部を引きつける外部の力を信じるのである。われわれはもはや、たとえ空虚を越えるものであっても、イメージの連合作用を信じるのではなく、絶対的な価値を獲得し、あらゆる連合作用をそれ自身にしたがわせる切断を信じるのである。」(294)


 こうして、運動イメージから時間イメージへの移行は、(それこそ唐突に)まったく別の、といっていいモデルで説明されます。いや、もちろん、これが始動因であり、そこからは結晶モデルに移行するのだ、と一貫性を保つことは出来なくはないでしょうが、ちょっと苦しいかな、と。ここで、この唐突に出現した内部ないし外部の「思考不可能なもの」により引き起こされた切断、こうした概念は、アルトーに由来する(特に邦訳では「貝殻と牧師」と題された著作集第III巻に)、ということは、すでに触れておきました。ドゥルーズはこう説明します。
 まず、アルトーにとって思考とはなんだったのでしょう。ドゥルーズによれば、それはこうです。

「イメージは衝撃を生み出さなければならず、思考を生成させる神経的波動を生み出さなければならないと彼[アルトー]はいう。「なぜなら思考とは、つねに存在したわけではない、すれっからしの女だから」。思考の機能とはもっぱら自分自身の生成であり、いつも内密で深い、その生成の反復である。イメージはそれゆえ思考の機能を対象とし、思考の機能はまたわれわれをイメージに送り返す真の主体である、と彼はいう。」(231)


 難解です。ここでは、まずイメージが思考を生成させる衝撃をもたらす、とされています。つまり、思考はそれ自体で存在しているかどうかは定かではないから、と。奇妙なことに、これはある意味で純粋思考ともいうことのできる、ベルクソン的な純粋記憶とは距離があるように思われるのです。しかしそれはさておいて、その直後に思考の機能とは自分自身の生成であり、その生成の反復である、とされています。では、思考は一度イメージによる衝撃を受ければ、それを反復し、かつそこから自らを生成する、ということでしょうか?アルトーは残酷の映画について「物語を語るのではなく、思考が思考から演繹されるように、たがいにたがいから演繹される一連の精神状態を展開する」と語っていた(243)のですから、それはさほどの間違いではないようです。しかし、その思考がまたわれわれをイメージに送り返す、という意味はあまり定かではありません。それはあるいは、「一人の作家の力量とは、彼がこの問題的な、任意の、しかし決して恣意的ではない要素を、つまり恩寵/あるいは偶然をいかに認めさせるかによって測られる。」(244/245)という言葉から伺えるように、この衝撃的な偶然を認めさせることであり、そのように思考がイメージに働きかけるということでしょうか?しかし、いかの言明からは、どうもそうでないことが伺えます。

「思考を知に、あるいは思考に欠けている確信に引き戻すどころか、問題的な演繹は思考の中に思考されないものを注ぎ込む。それは思考をあらゆる内面性から引き離し、その中に一つの外部を、その実質を蝕む還元しがたい裏面を穿つからである。思考は一つの知のあらゆる内面性の外に、一つの「信頼」の外部性によってつれだされるのだ。」(245)


 それでは、この言明を再びアルトーの中に位置づけておきましょう。ドゥルーズによれば、「彼[アルトー]は、映画の功績とは、全体を思考させる能力ではなく、逆にある「無の形象」や「外観における穴」を導入することになる「分離の力」であるとみなす」(233)のだ、とされています。

「思考が、それを生み出す衝撃(神経、骨髄)に依存するということが真ならば、それはただ一つのことしか、つまりわれわれはまだ考えていないという事実しか、全体を考えることと同じく自分自身を考えることの不能性しか、石化し、脱臼し、崩壊した思考しか、考えることができない。いつもきたるべきものである思考の存在、まさにこれをハイデガーは普遍的な形式のもとで発見することになるが、アルトーもまたこのことを、もっとも特異な問題として、彼に固有の問題として生きるのである。」(234)


 この、思考の中心、みずからの内部、その中心における外部、思考不可能なもの、そのもたらす衝撃、それは思考自信を生み出すものであると同時に、その思考が「自らを思考することの不可能性」についての思考であり、つまりは自分自身を不可能にする、というものでしかない、にもかかわらず、このもうひとつ上の引用箇所にもあったように、それに対する「信頼」も必要なのです。ラカンなら《他者》への原初的肯定とでもいうべきものが。

 このとき、ドゥルーズのモデルは、むしろベルクソンからは決定的に離れたものです。結晶モデルは、もちろんのことながらベルクソン由来であり、そもそも結晶という言葉自体ベルクソンの用いたものです。しかし、時間性のモデルにかんして、ベルクソンのモデルの中にこの外部-内部、ラカンならextimiteと呼んだであろう審級は存在しません。そして、そのextimiteに逆に見つめられることで石化する主体(これはラカンそのまんまです)、自らの思考ではなく、自らを、ないし自らについて思考しているらしい謎の外部の思考、この来たるべき思考との出会い、というモデルもまた存在しません。そして、このモデルを導入することによって、自己触発という概念は必要なくなります。
 しいてベルクソンにこれを求めるとしたら、ベルクソンには身体とその運動という、一つの衝撃記憶装置兼発生装置がある、ということなのですが、これについては、もう少しベルクソンをゆっくり考えてみないと、ということで、留保させて頂きたく思います。

 他方、このモデルがラカンにおいて親近性が高いということは、石化という言葉が共通に使われている、ということを参照するまでもなく明らかです。石化なんて言葉はありふれている、というツッコミもあろうかと思いますし、ラカンもそもそも何かを念頭に置いて使っているかもしれませんので、気軽に影響関係を証明できたとは言いませんが。もちろん。

《他者》の領野に発生したシニフィアンは、その意味作用の主体を現出せしめます。しかし、シニフィアンシニフィアンとして機能するとき、シニフィアンは、問題の主体をも、もはや一つのシニフィアンでしかないものにまで還元してしまいます。シニフィアンは、主体を、主体として機能するように、すなわち話すように召喚するのですが、その召喚そのものによって、主体を石化させてしまうのです。ここにまさに時間的拍動と呼ばれるものがあります。(seminaire 11, 188-189)


 このシニフィアンをイメージと同一視させることができるかどうか、それはまだ疑問の余地を残しますが、しかし、《他者》の思考、主体の石化、そして時間性の誕生。ドゥルーズの望むものは、ここにあります。と言ってもいいのかしら。そこまで言い切るのは、まだ時期尚早であるとしても、そんなに筋の悪い見込みではないようにも思えます。というのも、この石化、ということば、色々な場面で使われましたが、この前年の講義で、「狼男」の見たあの「原光景」の夢についての解説と重なっているからです。

木、その枝に宿る狼。ここに前回お話ししたことの余韻が残っていますね。この狼たちは主体をじっと見ています。探す必要はありません。この五匹の動物のしっぽによって五回繰り返される毛並みの方については。問題なのは誰がそこにいるかです。このイマージュがカタトニーによって伝えている沈思黙考の中に、誰がいるのか。それは主体の内省以外の何ものでもありません。石化された子供、己の見たものによって魅惑されている子供、この魅惑によって麻痺させられた子供。この情景の中で、子供を見ており、かつある意味で不可視のもの、まさにその場所において、麻痺させられた子供。我々はそれを一つのイマージュとして感じ取ることが出来ます。それはここでは子供自身の身体の停止させられた状態の移し替え以外の何ものでもありません。ここではその体は木に変形させられています。これについてはあの有名なタイトル、「狼に覆われた木」というタイトルのエコーを響かせていうことも出来るでしょう。(seminaire 10, p. 301-302)


 いちおうページ数を書いておきましたが、引用は海賊版をもとにしていますので(いや、かなりの)若干の語句の移動があります。ご了承下さい。

 とはいえ、それは、ベルクソンからアルトーへの離脱が決定的に隠蔽されていて、そしてその側面をあぶり出せば、むしろ「シネマ」でドゥルーズがとるべき位置と、ラカン的な精神分析の親和性がはっきりする、という意味ではありません。「精神分析は、映画に、いわゆる原光景という、ただ一つの対象、ただ一つの決まり文句しか、決して与えたことがなかった。」(51)と悪口を言うけれど、この原光景のモデルの中にこそ、精神分析は時間性の誕生を描こうとしていたのではなかったか、と憎まれ口を言い返すことが目標なのでもありません。というのも、ドゥルーズには、おそらくこのシネマそのものもそのための一つの足がかりに過ぎなかったであろう大きなプロジェがあるように思われるからです。

 それは、いってみれば真理のなかに時間性を導入したい、あるいは時間の中に真理を位置づけたい、というような、非常に複雑で、困難で、絶望的に無理っぽい企図。それは「思想史的には時間は常に真理という観念を危機にさらす」(181)という言葉から、それにまつわる議論が展開されて、そしてまた消えていく。これについてドゥルーズは、今回の記事ではきれいさっぱり省いてしまった、「偽なるものの力能」を絡めて議論を構築しようとしています。このことは、378頁での再考においてもあきらかです。しかし、わたしはその議論が必ずしも成功しているようには思えず、この本のながれのなかで、偽なるものの力能についての議論はやや収まりが悪いように思っています。じっさい、そこを抜いても本書の大きな流れは成立する、ということは、ここまで書いてきた記事で納得してもらえる、といいなあ、と。うん、無理かも。
 ついでにいえば、しかし、この偽の力。フロイトの「最初の嘘」からはじまって、「精神分析と言語行為論」的アプローチ(っていうか昔2本ほどそんなん書いたような書かないようなでも枚数オーバーして佐藤先生すみませんでしたみたいな)にいたるまで、精神分析的な視点からも十分にフォロー可能ではありますし、真理と虚構と象徴的なもの、いう問題は、それこそラカンを知っている方ならだれでもご存じのこと。今回引用した箇所でも、「《他者》の領野に発生したシニフィアン」とか、この偽の力以外の何ものでもないのですが、しかしなんか、この本の中でこの議論を扱った箇所は妙に据わりが悪い、ように思えますので、無理にフォローせんでもええかなあ、と。まあ、ドゥルーズのこの本、乱雑なようで筋が通っているようで据わりが悪いようでまとまっているようで、と、ちょっと難しい本ではあるのですが。

 ともあれ、こうしてドゥルーズベルクソンからの離反と、(見かけ上はアルトーに名を借りた)精神分析の親和性は明らかに出来ると思います。しかし、そのことで真理と時間性という隠しテーマは問題はどうなるのか。ドゥルーズは、偽なるものの力能という、なんとなくまとまりを欠いた論考を通じてそれにアプローチしています。あとは、精神分析的観点から、真理と時間性、あるいは真理性の中に時間を組み込むことが出来るか、ということが求められましょうし、それは個人的には、長年暖めているテーマでもあります。そんなわけで、そのための手がかりとして、上述の「石化された時」と「時間的拍動」は、つねに念頭に置いていました。だからこそ、ドゥルーズがシネマを通じて、時間と真理という大きな問題にアプローチしていたのではなかろうか、という親近感と、そしてそれはベルクソンアルトーの奇妙な結び目として「偽なるものの力能」という擬似オースティン的ニーチェ的な接続をもってくるよりも、もっとちがうアプローチが可能なのでは、という違和感と、でもそのための壮大な努力にたいする賛嘆の念と、まあこんな具合にいろんなものを感じさせてくれる大著として、なんら映画についての知識のないわたくしの目にも魅惑的に映るのです。

 いや、このように駄文を長々書いても、第1巻を読んだらすべてひっくり返るかもしれないんですけどね。。。むなしい。いや、それはむなしいのではなく、己の不勉強と怠惰と、そしてインチキな手順のせいで生まれた砂上の楼閣的無駄な作業なのだ、ということは言うまでもありません。とりあえず、否が応でも途中経過をまとめる必要があった、ということで、勘弁して下さいませ。