未来派野郎


さて、ここまでドゥルーズの「シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)」から、ながながと切れ味いまひとつなレジュメを作っていたわけですが、最後におまけ、ドゥルーズせんせいによる未来予想図を紹介しておきましょう。もちろんのことながら、ドゥルーズ本人もまとまった理論的考察として、というよりはどうみても余談的に断片的に入れてきただけですので(良く考えれば管理社会論とかもそうなんだけどその割には広まってしまったのがえらい人の哀しいところ)、こちらも対抗してごく断片的な引用の羅列で。でも、それはそれで示唆に富むっちゃ富むものですので、あるいはこっから興味を持つ人もいるかもしれません。

 まず、ドゥルーズが映画をひとつのメディアとして見た場合、どう捉えていたかを示すところから始めてみましょう。かれはこう言っています。


「[映画の相関物]・・・それは運動と思考の諸過程(言語以前のイメージ)からなり、またこれらの運動と過程に対して確立される観点(意味以前の記号)からなる。これはまさに、固有の論理をもつ「心理機構」、精神的自動装置あるいは一言語にとって言表可能なものを構成するのである。」(360)
「もし映画が精神的芸術となる自動性であり、つまりまず運動イメージであるとすれば、それは偶然にではなく、本質的に自動装置と出会うのである。・・・人間-機械の組み立ては場合によっては変化するが、いつも未来の問題を提起することになる。そして機械主義は人の心に深く浸透しうるからこそ遠い古代の力を呼び覚まし、運動機械は恐るべき新しい秩序にうながされて、純粋で単純な心理的自動装置と一体になってしまうことがありうる。」(362)


 ということで、心的自動装置、というスピノザ由来のこのことばが、映画のお相手ということになります。自動装置は自動装置に出会います。そしてこの機械論は人間の心にも浸透しうる。この辺はデリダの補綴論とも、そして当然それ以前の諸々の議論ともたいして変わりはないわけですが、そのことによって心のアルカイックな部分が刺激される、ということを指摘した点は特記しておくべきかもしれません。脳に刺した電極は大脳の下の方を結ぶ、みたいな。いや、もちろん冗談ですが念のため。とはいえ、これはいろんな場面で使い道が高そうな、使い回しの効きそうなフレーズではあります。
 とくに、この一節は以下の引用箇所とセットにすると、どこかしら精神分析的な超自我論に親近性をもたせることも出来るかもしれません。

「情報(新聞、ラジオそしてテレビ)を全能にするもの、それはその無内容さそれ自体、その根本的な無効性なのだ。情報は勢力を築くためにみずからの無効性を利用するのであり、その勢力とはまさに無効であるということであり、それによってなおさら危険になる。」(370)


 ラカンは、よく知られているように50年代には「コミュニケーションの目的はコミュニケーションそれ自体である」という風にすでに言っていたわけですが(そして当時としてはそれなりに先進的だったのにいまとなっては余りに当たり前すぎて誰も感心してくれないメッセージになってしまったわけですが)、それとよく似ています。ついでにいうと、ラカンのこの言及を付加しておくと、ドゥルーズの機械によるアルカイックなものの覚醒から、近年とみにかしましいFUDつまり不安(Fear)不確実(Uncertainty)不信(Doubt)という三題噺を理解する手がかりになるかもしれません。

「・・・主体と《他者》との間では、もし不安がかくも絶対的なコミュニケーション手段であり、不安とは《他者》と主体とにとってまさしく共通のものではないのではないかと自問するに至るほどである、ということです。」(Seminaire X, p. 137)


 とはいえ、その自動装置のあり方は、当然のことながら様々な進化を見せます。この時代の自動装置としてドゥルーズが描いたのは、彼の管理社会論ではおなじみのこの一節。

「権力もまた形象を反転させ、唯一の神秘的な指導者、夢を吹き込む人物、行為を指令する人物に収斂するのではなく、情報のネットワークにとけ込み、その「決定者」たちは、不眠者たちと見者たちの交差点を通じて制御、処理、ストックなどを統括するのである」(364)


 この一節に関しては説明不要でしょう。とはいえ、不眠者という言葉はこの著作で出てきた覚えはないので難しいところですが、まあ普通に考えれば夢を見ないもの、ということです。このあたりは、夢や神話を通じての制御、つまりある種の個体化の技術を通じた制御とはちがう、ということがいいたいのでしょうか。あまり自信はありませんが。しかし、そうした内面化の技術の放棄ととらえると、以下の文章とも並びは良くなります。

「新しいイメージはもはや外部性(画面外)をもたず、ある全体の中に内部化されることもない。それはむしろ自分自身において反転可能な権力として、可逆的で重合不可能な表と裏をそなえている。新しいイメージは恒常的な再組織化の対象であり、そこで一つのイメージは、先行するイメージのどんな点からでも発生しうる。・・・。情報が<自然>にとってかわり、頭脳-都市、第三の目が<自然>の目にとってかわる。」(365)


 この、どこかしらハイパーテクストなイメージは、まあこの当時すでにマルチメディアなんて言葉が一般的だったのですから、とくに早いというわけではありませんが、情報の「自然化」という言葉は覚えておいた方が良いかもしれません。管理社会と、それと対になる「動物化」は、当然のことながらこの情報の「自然化」を背景にしており、人間は動物の森ならぬ情報の森に適応する猿になる、ということです。そして、ドゥルーズの面白いところは、この当時の用語で言えばマルチメディア化、が、こうした情報の「自然化」を引き起こす重要なファクターであると見なしているところでしょう。

「現代世界とは、情報が自然にとってかわる世界である。それはジャン=ピエール・ウダールが、ジーバーベルクにおける「メディア効果」とよぶものである。・・・なぜなら視覚的なものと音声的なものの分離、分割は、まさに情報的空間のこのような複合性を表現することを課題としているからである。この複合性は全体性を成立させないかぎりにおいて、心理的個人を超越している。それはすなわち全体化不可能な複合性、「ただ一人の個人によっては表象不可能な」複合性であって、その表象はただ自動装置において見いだされるだけである。」(370)

 つまり、個体化した個人によっては全体化、統合化不可能な散乱した情報のセリーは、巨大な情報空間の自動装置のなかへの適応という形でしか人間にとっては対応不可能である、ということ、かしら。たぶん。。。

 ともあれ、こうしたいくつかの予見の後、ひとつ、長いメッセージを引用して、この巨大な著作の(第二巻だけの)レジュメを結んでおくことにしましょう。

「ところで情報を越えるという/ことは同時に二つの側面において、二つの問いにむけて実現される。発信源は何か、そして宛先はどこか。・・・情報科学はこれらの問いのどれにも答えない。なぜなら情報の発信源は情報ではないし、情報を受けとるもの自身も情報ではないからだ。情報の劣化などありえないとすれば、それは情報そのものが劣化だからである。それゆえあらゆる話された情報を超え、そこから純粋な言語行為を抽出し、支配的な神話、流通する言葉、それらの信奉者の裏面にほかならない創造的仮構作用を抽出しなければならない。これは神話を搾取して利益を得るのではなく、神話そのものを創造しうる行為である。さらにまたあらゆる視覚的な重層を超え、廃墟の外に出て世界の終わりを生き延びることのできる、またみずからの可視的身体において言葉の純粋な行為を受けとることのできる、情報の純粋な受け手を成立させなくてはならない。」(370/371)