鹿せんべいをくれよ

鹿せんべいをおくれよ」なる、衝撃的な(?)エンディング音楽で話題になったフジテレビ系列で放映のドラマ「鹿男あをによし」、最終回はちょうど先週、ないと寂しいねえ、と思いつつ、今日はそのことを本当に雑感だけ。今回の記事のテーマはいわゆる「治療宿」ですが、その辺の資料が手元に見つからなかったので、中井久夫先生の「治療文化論―精神医学的再構築の試み (岩波現代文庫)」(こっちがメイン)とジジェクヒッチコック論(ちょこっとだけ)、そしてちょっとおまけに武満徹の「系図family tree"」を観光ガイドブックにして、もう少し雑ぱくに書いてみましょう。なお学術的な話題を装っていますがあくまで学術性はありません、ねんのため。

 ま、ちなみにエンディング音楽はこんなんです。第一話のあらすじも分かって便利。

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 あらすじはまあ、wikipediaあたりに詳しいので、ここではかんたんに。
 就職に失敗し、転がり込んだ大学の研究室でもミスと人間関係の軋轢からつまはじきにされ、教授の紹介で産休の代打教員として奈良の女子校「奈良女学館」に送り込まれた若者・小川先生が主人公。その小川先生、奈良では元は旅館、いまは小料理屋と下宿を兼ねるおうち(同僚の美術の福原先生の実家、日本史の藤原先生も下宿人)に住んで教員生活を開始します。姉妹校の「京都女学館」の長岡先生というマドンナを発見して浮かれ気分という、ちょっとした幸福はあったものの、反抗的な女生徒の堀田さんとは摩擦が絶えず、学内生活はうまく行かないことばかり。そのあげく、ある日鹿から話しかけられ、なにやら知らぬ「鎮めの儀式」の「運び番」に勝手に任命されてしまいます。なお悪いことに、役目を失敗し続ける彼は、鹿の言うところの「徴」を付けられ、自分の顔が鹿になっていくという呪いをかけられてしまうのです。

 原作は万城目学の同名の小説鹿男あをによし。ドラマと小説の異同のうち意味がありそうな箇所は適宜触れるとして、まずはその「鎮めの儀式」を紹介しておきましょう。

 鹿のはなしによれば、大阪(難波宮)には鼠、奈良(平城京)には鹿、京都(平安京)には狐がいて、この三箇所で大地震を誘発するナマズのしっぽを押さえており、そのために60年に一度、三都市の三匹の動物持ち回りで「鎮目の儀式」を行う必要があるのです。(じゃないとニッポン、地震と火山噴火で滅びるって脅すし。)今年は鹿の当たり年。そのためには、儀式で使われる「目」と呼ばれる道具が入り用で、前回担当者の狐からそれを回してもらわねばなりません。
 先方の京都の「使い番」からそれを受けとって奈良にもってくるのが、「運び番」たる小川先生の仕事で、それさえ終わってしまえば、あとは奈良の「使い番」と鹿が協力して勝手に儀式を行ってくれるはず、だったのですが、小川先生、なにものかの横やりで受け渡しに失敗します。おかげで印を付けられるはめになる、と。
 じゃあ、だれのせいだ?となるわけですが、それは今回の持ち回りの関係二者(狐と鹿)からは外れている鼠の仕業で、どうも今回の儀式には関係ない立場なのが暇なのと寂しいのとで、勝手に「運び番」を立ててインターセプトしてしまったようなのだ、というのです。ところが、鼠にしたって儀式は行うつもりで、「目」を狐から鹿に渡す媒介を自分でやろうと首を突っ込んだだけだったはずなのに、鼠さま御選任の「運び番」が暴走して「目」を返さない、渡さない。そこで、小川先生は、そもそも「目」がなんなのか、そして鼠の「運び番」は誰なのか、そしてどうやってそれを取り戻すのか、そこがドラマの中心軸になります。




 まあ不慣れなドラマの紹介はこの辺にして、身も蓋もなく言ってしまえば、「鹿」の話は小川先生の妄想だと考える方が自然です。つまり、この物語は、都会生活でくたびれ田舎に流されてきた人間が、現地で発症した、ある種の非定型精神病のように考えることが可能です。そうすると、同僚かつ同じ下宿の仲間で、この妄想を信頼して一緒に奔走してくれる藤原先生はじめ、この下宿の雰囲気が、ある種の治療集団のような気配を漂わせてきます。

 このドラマ自体、奈良のあの独特のべたっと広くそして寂れた(失礼)感じが不可欠の、ちょっと土地の気配のするドラマなのですが、冒頭で紹介した、中井先生の「治療文化論」でも、題材に用いられたのは奇遇にも同じ奈良の天理教の開祖中山ミキ。彼女も良き嫁として精一杯働いた後で、ある日「われは天理王命」であり、われを礼拝せねばならぬ、と突如おっしゃることになります。「周縁的存在である『嫁』にこう命ぜられた家族が呆れて断ると彼女は断食をはじめる。二日目に彼女を拝んだ最初の人は彼女の夫であって、この人のやさしさを私は感じる・・・」(47)と中井先生は書いています。中井先生、実はこの中山さんちのたいへんなご近所のお生まれだそうで、この本にはわざわざ奈良の地図が描かれ、そして奈良のコスモロジーとがノスタルジックに語られています。



 この本では、同様の症例がもう二件、かんたんに紹介されています。
 一件は海外に留学した夫に同行した奥さんの症例。夫は大学の勉強のハードさについていくのに必死で、子どものことからなにからが奥さんにのしかかります。田舎町には日本人のひとりとておらず、気候も厳しい。そんななか、奥さんは短期間の鬱のあと、「われは普賢菩薩なるぞ」と称して家族に礼拝を求めます。このときも、やはり旦那さんは礼拝します。諸々の紆余曲折を経て、日本語に堪能な中国人カウンセラーの助けもあり、一家には平穏が戻ります。

 もう一件は、文学部四年生の女の子。彼女の症状は夜な夜な妖精が訪れて対話する、という妄想で、精神科医から分裂病の診断を下され入院を勧められた、ということで、指導教官が中井先生に紹介し定期的面接がはじまったとのこと。生活に破綻はなく、また話も常同性が無く生き生きとしていて、事実彼女の卒論はリルケユング的な解釈でしたが、非常に高い評価を得ていたのだそうです。とはいえ「自殺の危険はなかったかと反問されそうだが、私はじっと考えて彼女が死なないことのほうに賭け金を置いた」(65)という、(ここまでのわたしの牧歌的描写を一気に覆すであろう)シビアな見立てがあったことも、もちろん付言しておかねばなりません。中井先生も、特に見えないものを見えたふりをすることもなく、そのおはなしを聞いていたそう。しかし同時に「土居健郎に倣って、この秘密をうかうか他人に打ち明けないよう」(66)とも女の子に頼んでいたそうです。そのうちに、話は妖精を離れ、彼女の孤独、そして現実へと向かいます。

「私は、この治療の持つ危うさ、あるいは治療関係の内包する危険性を決して忘れないように心がけていた。私は「フェアリー・エンカウンター」(妖精との遭遇)という現象が、西洋において非常に危険なものとされていることを知っていた。それは森のはずれで「逢う魔が刻」に起り、しばしば生命や精神の危難を予告するものであった。しかしまた、友好的な妖精もあり、悪い妖精と戦ってくれる。夕方彼女を訪れる妖精たちはどうもおおむね友好的らしかった。妖精話を聞いているうちに私は、彼女の孤独がひどく身に沁みて身体が冷え冷えしてきた。しかし、不快では決してなかった。恐怖でなく、彼女の「夜の世界」の冷えがくるぶしまでは私をも浸したのであろう。私は、しかし、バリントのことばを護符のように唱えた。「治療者は、舟を浮かべる水、鳥を支える空、いろいろなものを支える大地、要するに「四大Vier Elemente」になれ」ということばである。」(66-67)


 あれ、火は?というツッコミは本当に余計なのでさておくとして、彼女もまた、彼女にふさわしい会社に入り、家庭人としてその後を過ごしているということ。
 この作品では藤原先生がその、やさしいひとの役割を担うことになります。小説では男で妻子持ちで別の家に住んでいる藤原先生ですが、ドラマでは下宿人かつ女性。この辺は、精神科医精神分析家ほかの治療者は患者と恋に落ちるという設定にしないと気が済まないテレビや映画のあの不文律ともいうべき引力はなんなのだろう、と考えさせられますが、それを含めても、まあ妥当な変更かもしれません。





 もうひとつ、ここでは「目」と呼ばれる対象は(現実には「三角縁神獣鏡」なのですが)みごとにマクガフィンとしての役割を果たしています(これは、おそらく作者も意識的にそう設定したことと思いますが。マクガフィンについてはwikipediaにもありますのでご参照下さい)。ジジェクがそのヒッチコック論で「マクガフィン」と対象aの親近性を語っていることは、つとにご存じの通りですが、この作品の良いところは、三角形のサイクルのなかを60年ごとに廻るもの、となっているところで、対象a的な「サーキットをめぐるもの」としての性格がよりはっきりとしているところです。たしかにこの鏡、儀式に不可欠であるとはいえ、重要なのは循環しているという事実そのものであって、循環させられている鏡自体は人間が持っていても何の役にも立たないガラクタであると鹿は力説しています。事実、学芸員には「出来の悪いレプリカ」あつかいされる始末。つまり、鹿のように使用価値の確立された世界に生きている人間(?)にとっては、対象aは存在しないのです。

 ところが、考古学者でもあった鼠の使い番には、この鏡は邪馬台国畿内説を裏付ける重要な証拠であり、そのために彼はこの鏡を手放そうとしません。こうして、「本来は、何事かが十全に使用され(=享受され)、そして十全に循環しているということの証拠となる副次的な物品であり、しかし、この循環に障害が生じることで、その副次的な物品の方が何かの享受(=享楽)や循環のために不可欠、イヤそれを可能にしさえする魔力を持ったものと誤認され、それはある種の人々にとってはフェティッシュ的な役割を果たす」という、対象aに特有な性格が綺麗に出そろったわけです。(え、対象aってそうなの、というかたはこの辺を)

 この循環を支える「使い番」の京都(送り手)と奈良(受け手)は、京都女学館の剣道部顧問長岡先生、通称マドンナと、奈良女学館で小川先生の生徒である、堀田イトさんの二人が担うことになります。このふたり、いずれも実家が剣道の道場であり、自身も達人である、という点から分かるように、構造上まったく同値な人間として設定されています。ですから、小川先生が長岡先生に恋をし、そして(鹿の呪いである「徴」を解くために)堀田さんからお別れの(とても不器用な)キスをされてドラマが閉じられる、というのは、この循環の始まりと終わりを綺麗に見せてくれている、といってもいいでしょう。さらにいえば、「運び番」の役を失敗し続ける自身こそが、こうした循環の中での不透明な対象の役割を担うことになり、王子様ならぬお姫様からのキスでそこから解放と同時に消滅させられることで、治療が終結した、ということも、多分出来るでしょう。ストーリー上はご都合主義そのものに見えなくもないキスシーンですが、自分自身が循環の中の余計なもの、である余所者であり、それはその存在を認められると同時に消え去る運命にある、という、消失する媒介者として主人公が再生するためには必要なステップと言ってもいいかと思います。

 面白いのは、この「徴」を消すためにキスをするという方法、原作では堀田さん、鼠に教わるのですが、ドラマでは鹿から話を聞き出した藤原先生に教わることになります。この辺は、原作で男性の友人であった藤原先生が、ドラマでは(この後)恋人になる女性、という設定の違いを吸収するためなのでしょうが、この媒介機能を入れることで、藤原先生の治療者的側面がより強くなり、他方堀田さんは、言ってみれば長岡先生と並ぶ現地人のエージェントという性格から、自身もまた不安定で、小川先生の妄想に巻きこまれて(二人精神病とまでは言わないけれど)同じ(鹿になるという)妄想を発症したのか、と思われるような性格へと、微妙に色合いを変えることになります。






 さて、ここまで、ついこのあいだ「苦手だ」と公言した映像作品についてのインチキ分析をしてきたように見えなくもないエントリになっていますが、本音はと言うと、この作品、音楽を担当された佐橋俊彦さんの音楽と、堀田イトさんを演じた多部未華子さんの声と、両方がひどく武満徹の「系図 family tree」を思い出させた、というところが、じつのところすべての源となっています。手元の録音では(そして実際に見た演奏でも)遠野凪子さんがまだ少女時代に朗読を担当したはずですが、それに似ているというか多分もっと良い感じの声。武満の音楽は、かれの中でも思い切ってロマンティックで、ノスタルジックで、調性的なものになっていましたし、彼自身映画音楽の経験は多いわけですが、さすがにドラマ音楽を描くときに参考にするような楽曲ではありません。でも、ちょっとこの曲を思わせるようなフレーズがこのドラマでは部分的にいくつか使われていて、音楽担当の佐橋さんにちょっと聞いてみたいような気もするような箇所が散見されていたりします。

 Family Treeは、五万年六万年にもおよぶ長い家族の永い旅を語る少女、と設定されています。古都奈良で、そして京都で、この儀式の(まだ一八〇〇年しかやってないけど)永い循環を司る少女と、それがかぶっても(ちょっと強引だけど)あまりおかしくはなく、そして、家族というもっとも普遍的な治療共同体のひとつが、治療宿を思わせる下宿を舞台に進んでいく、そんなわけで、まあ重なってもべつに悪くはないだろう、と、ちょっと居直りつつ、どっかのオケが「系図」を再録する時は多部さんを使わないかな、とちょっと思いつつ、ひとつだけまたちょこっとだけ学問的を装って付言しておくとしたら、このことでしょう。




 上で紹介した、妖精を見る少女の症例で、中井先生はこう書いています。

「ポイントは彼女がついに常同的、類型的に陥らなかったこと、誇大的にならなかったこと、孤独を否認せず、また少なくとも少数の人間を信じる能力があり、それに応じる少数の人もいたことである。エランベルジュが、謎めかしく、ただ「精神療法の再建のためには、今忘れられている、無意識の持つ神話産生機能(mythopoetic function)に注目しなければならない」といっているが、私は、それとこれとはどこかで関係しているのかなと考えた。私のしたことは、患者に半歩おくれてついてゆき、きずなを張りつめもゆるめもしないと心がけただけであった。」(68)


 この、常同的でない、ということばには、結構な重い意味が託されています。それがたとえば毎日UFOを見る、というような妄想で、話がそれ以上ふくらまない、というのであれば、分裂病とはいわないけれど、妖精の少女の産出力に較べて常同的であることは否定できないし、また、こうした硬直的な「同じ」を繰り返すものは、やはり危ういと。神話の産出は、むしろそれを溶解させるようなところがあります。

「ドイツの精神病理学ミュラー=ズーアは、患者の作品について象徴的なものは被覆であり、最もそこにあるものは押し黙った具体物だと言っている。私も、きらびやかな妄想の底を突き抜けるとしばしば単純明快で具体的で動かし難い「不死なる意志」に遭遇することを報告した、・・・逆に「ミュトス産生」はほとんど自己治療的な衝迫でありうる。」(69)


 この鹿の奇妙な儀式の妄想も、まあ、UFOに較べれば、それなりに壮大です。そしてまた、そのための治療共同体と、それを支えるにたる或る程度のコスモロジーを残した古都がある。奈良がいかに寂れていようとも、奈良そごうがつぶれてイトーヨーカドーになり、女子高生のたまり場がビブレしか無かろうと、やっぱりその他のほんとうに収奪されきったジャスコ型郊外よりは多少なりともマシ(たぶん)。まあそんなわけで、現代人が夢想しうる癒し系の、ひとつの形なのだろうなあ、と思いつつ、ノスタルジーでいっぱいの武満徹の一作品を思い出した、そんなドラマだったわけでした。こんなネタを書くのも微妙にこっぱずかしいので、長いけど強引に一回にまとめてしまったので、読みにくいことおびただしいですが。。。

 じゃあ、そんなわけで「鹿せんべいをくれよ」こんどは歌詞付きで。