大奥炎上

するかどうかはともかくとして、宇宙は炎上する。それがストア派の火の神話、なのだそうです。
 さて、前回まで、エミール・ブレイエ「初期ストア哲学における非物体的なものの理論」(江川隆男訳、月曜社、 2006)を中心に、A.A.ロング「ヘレニズム哲学 : ストア派エピクロス派、懐疑派」(金山弥平訳、京都大学学術出版会、2003)と、それから「哲学の歴史 ; 第2巻 帝国と賢者 : 地中海世界の叡智」(内山勝利責任編集、中央公論新社、2007)を中心とした神崎繁先生の論文を援用しながら、ストア派の、特に構成と親近性という概念を中心にレビューしたのでした。構成は広がって宇宙の構成へと到りますし、そのためにはストア論理学における三つの接続詞を論じなければ、というところまで。

 
もうひとついえば、その昔、ジジェクヒッチコック本に「あなたがラカンについて知りたいと思っていながら、ついぞヒッチコックに尋ねてみようとはしなかったこと」というややこしいタイトルを付けていましたが、いちおうこのブログもその丸パクリで「あなたがラカンについて知りたいと思っていながら、ついぞ〜に尋ねてみようとはしなかったこと」(〜は時価)シリーズというコンセプトで出来上がっているわけですが、今回ストア派に関しては、二値論理の否定、全称命題の否定、真理と時間性といった問題から、将来的にはテュケーとオートマトン、性別化のマテームを一貫した論理として見れるような視座を提供してくれるかも、という見取り図が(野望が)ある、ということもご紹介しました。引き続き文献情報おまちしております。

 とはいえ、人間空は飛べず、地道に歩くしかないこともたしかなので、今回はブレイエに戻って、ストア派の宇宙生成の物語をなぞりつつ、そのなかにブレイエの見たストア派の「出来事」概念を位置づけることで、前回、前々回ととりあげた「構成」がそこにかみ合うように、考えていくことにしましょう。
 さて、ストア派のコスモゴニーの基礎に、「宇宙炎上」(エクピュローシス)[ekpyrosis]なる大火があることは、よく知られています。バーニング、バーニング、景気の良い奴らです。宇宙は定期的に炎上し、そしてそのサイクルを繰り返す。その残り火が、万物を貫くエネルギーです。

 ストア派にとっての唯一真なる存在者は、働きかけるもの働きかけられるものである、とは先週紹介しましたが、それはきちんとした用語で言えば、第一に能動的原因(ト・ポイウーン)であり、それが働きかける受動的なもの(ト・パスコン)である、ということになります。
 しかし、ここでみるように、それらの原初的存在者は火であり、世界の種子的動詞体であり、他の諸々の存在者は原初の火のわずかな緊張と弛緩によって生み出されるということなのです。「むしろこの存在者の緊張の異なった諸状態である。」(24)物体の性質はこの能動的存在者の中に存在する、気息(プネウマ)である(24)とされています。ロングから援用しましょう。「ストア哲学における「緊張」は、場所的な変化とは明確に区別されるべき一種の「動き」を表している。」(238)「ストア派によると、諸物体には、内に向けて動くと同時に外に向けて動く『緊張的な』動きがあり、外に向かう動きは諸々の大きさと諸性質を生み出し、内に向かう動きは統一性と実態を生み出す」(ネメシオス)ロングによれば、こうしたストア派の火はアリストテレス的四原因の集約であり、創造する理性ratio faciensと考えることも出来るものです。「スピノザの『エチカ』の神と同様に、ロゴスは「あらゆる物事の内在的な原因」である。・・・しかし、各個体がおかれている環境もまた、プネウマによって説明可能である。」(252)

 ここから展開される世界観は、結構壮大です。
 まず、第一に、ストア派の世界は自発的諸原理から合成されることになります。「こうした自発的な原理は、むしろ唯一同一の存在者、つまり火−−−その歴史は世界そのものの歴史である−−−の存在の諸契機あるいは諸側面のごときものである。」(25)

 第二に、当たり前のことですが宇宙は火の一元論によって貫かれることになります。「宇宙は、自らの内的緊張によってその場所を規定し、また緊張の多様な度合いによって・・・多様に変化する唯一の物体なのである。」(71)ちょっと分かりづらいですが、たとえばちょっと出来の悪い風船を思い浮かべて下さい。風船をぷうっとふくらます(だって気息だもん)と、この風船、不出来で厚さにムラがあるので、ふくらみやすいところはぷうっと、ふくらみにくいところは凹んだまま、様々な形をとることになります。ここに多様なムラがあり、多様な緊張関係があれば、多様な世界も出来るはず。つまり、世界は緊張という力のさまざまな度合いから成り立つ一元的な世界として描かれることになります。「場所は物体の諸原理のなかに存在しない。物体はそれ自身が広がりであるのに対して、その物体のうちに存/在する本質的なもの、すなわち<力>は、こうした延長に対して優越している。というのは、<力>はその原理だからである。」(72/73)

 第三に、この概念により、世界からは空虚が追放されることになります。でも世界の外部には空虚があって良い。さっきの風船の例えがまずいのは、風船だと中に空虚があるように見えてしまうところですが、そこは空虚じゃなくて膨張する力能を持ったガスが詰まっているものと考えて頂いて、そうすると、この世界の内部には空虚なるものの入り込む余地はないことになります。「世界の諸部分は、アリストテレスにおけるように、そうした諸部分に統一状態を保つよう強制する<含むもの>によってではなく、内的な結合によって世界の端から端まで張られた一つの<力[ヘクシス]>によって結びつけられ、また空虚は、この統一を妨げるためのいかなる力も有していないということである。」(79)


この三番目には、実はラカン派的な観点から見てとっても面白そうなネタが続いています。いまはまだ、わたくしにはそれを展開する余力はありませんが、ひとまずメモをしておきましょう。問題は、前回もちょろっと示唆した、全体の非存在、そして宇宙と全体の区別です。前者の、全体の非存在はいわずもがな、性別化のマテームですし、後者は晩年のラカンのUnとAutreの区別を連想させます。これについては、また後で触れますが、ジョルダーノ・ブルーノにもよく似た区別が存在します。このあたりも、以下の引用箇所がもつ含意をより深く理解した上で、結び付きを考えるべきなのですが、いまはまだそこまでの力量が欠けています。文字通り気息が尽きたau bout de souffleなので勝手にしやがれって感じでメモだけを。

ストア派の人々は、包括関係を示すような言葉づかいさえなくそうとする。世界は空虚のうちに存在しない、それゆえ空虚はいかなる物体も含むことができないが、しかし空虚は世界の外に存在する。彼らは、世界を、空虚をも包括するようなもっと大きな全体の一部分にすることを拒むのである。世界はそれ自体で完全であり、世界に付け加えられるものは何もない。これによってストア派の人々は、宇宙(ト・ホロン)と全体(ト・パーン)の間のかなり不可思議な区別をするように差し向けられた・・・。こうしてストア派の人々は、全体はまさに<あるもの>(quelque chose)であるが、しかし全体は<非-存在>(non-etre)であるということを明らかにするつもりだったのだ。これは、空虚は新たな存在者をつくり出すために世界に付け加わることができないと言うことである。」(83)

 さて、この三番目までたどり着くと、はなしはちょっと複雑になってきます。ここで第四番目、つまり、ストア派ではある事物がある事物でありうる、つまりひとつのまとまりと統一性を持ったものでありうるのは、なんらかの超越的な規定、ないしは本質の分有や本質への包摂といった概念に依拠してではありえない、ということが浮上するからです。
 というのも、そういった、言ってみれば形相と質料の二元論のようなかっこうは、この議論にはそぐわないから。ブレイエは言います。「原因は個体の内奥における原因でなければならない。この内的な力は、非物質的な存在者の外的な働きと少しも両立しえないものなのである。・・・彼らがただ個体のうちにのみ実在と存在を認めるのは、もっぱら個体のうちにのみ存在者の原因と生命の中心が存在するからである。・・・ただし、非物体的なものを存在者の原因のうちにおく代わりに、彼らはそれを結果のうちにおくのである。」(23)このように考えるのがストア派だと。

 では、そうすると事物の持つ本質はその緊張の度合い、ということになるわけですが、属性というのはどうなるでしょう?それは、今の引用箇所にもちょこっと出てきた、結果のうちに置かれた非物体的なもの、そして前回も言葉だけがちょろっとでてきた「種子的動詞体」という言葉に関係してきます。

 そこで、ストア派はこの4番目にある論理学的な回答を与えます。つまり、ストア派では、主語に属する属性を、それがもつ動詞になぞらえるのです。かれらにとって、属性の産出というものがあるとすれば、属性はつねに動詞によって表現されます。これは属性が≪存在≫ではなく、≪存在の仕方≫、様態ポース・エコンと呼ばれるものであることを意味しているのです。この存在の仕方は存在の限界、表面にあり、本性を変化させることが出来ないはず。それはあくまでも、帰結であり結果であって、存在者の中に分類されるものではないのです。つまるところ、これは<働きの形相>とも呼ばれるべきものであり、これをこんにちのわれわれは<事実>とか<出来事>と呼んでいるのだ、とブレイエは言います。
 しかし、それは、ひとつの存在者についての概念でもなければ、その特質についての概念でもない。<事実>は非物体的である、というストア派の言明はこのことを意味する(26)とブレイエは考えます。動詞によって結果=効果を<表現する>こと。たとえば気心症は熱の原因だというのではなく、熱が出る、という事実の原因というべきである(27)とまで議論は進みます。こうして世界は、存在の二つの平面に分離することもできます。すなわち「一方には、深くて実在的な存在、力であるが、他方は、存在の表面に関係し、結合も終局もない非物体的な存在の多様性を構成する諸事実の平面」(28)が。おお、ようやく「非物体的なもの」という題名までたどり着いた。そして、出来事というのは、ここに含まれることになるのです。

 さて、こうして、ストア派でいう存在者は、こうした出来事の集約点として発想されます。

「まず存在者それ自体、つまり実体は弁証論的な思考の対象ではないが、それらは一つの内的な、いわば自己自身のうえに集中した生命をもつものであって、本来的に観想の対象であるというものではない。しかし、この生命は、自己自身の何ものも失うことなく、多様な出来事の表面に広がっている。出来事とは、存在者の内的な力を何も消滅させないものであり、次の段階で原因となることのない、純粋な結果である。弁証論の主題を形成するのは、こうした出来事であり、それらの関係をともなって出来事である。」(99)

 そう、この集約を通じて、出来事と構成が出会うことになるのです。それででは、次回はこうした「出来事」のもつ広がりについて論じながら、話をかんたんにまとめることにしましょう。