あれか、これか

 さて、前回はエミール・ブレイエ「初期ストア哲学における非物体的なものの理論」(江川隆男訳、月曜社、 2006)を中心に、A.A.ロング「ヘレニズム哲学 : ストア派エピクロス派、懐疑派」(金山弥平訳、京都大学学術出版会、2003)と、それから「哲学の歴史 ; 第2巻 帝国と賢者 : 地中海世界の叡智」(内山勝利責任編集、中央公論新社、2007)所収の原稿と、「生存の技法としての「自己感知」−−−ストア派における「自己保存」と「自己意識」の同根性をめぐって」上・下(『思想』971号、pp. 6-25、同972号、pp. 73-95、岩波書店、2005年)と、神崎繁先生の論文を援用しながら、ストア派の、特に構成と親近性という概念を中心にレビューしたのでした。前回はその核のところまで。今回はその広がりを。

 前回述べたように、ストア派において実体とは事物が働きかけ働きかけられるものに限定され、それらからなるネットワークの中で成り立つものであるとするなら、見かけ上の個物はその内的構成においても、外的構成においても、同じように構成されたものとしてとらえられるべきです。前回は、スピノザの話などもしましたので、人間の内的構成とその環境世界との親近性、くらいまでで話が止まっていましたからね。
 その構成はヒエロクレスによればこうなると、神崎先生が紹介されています。すなわち、自己自身に親近的な関係にある状態は厚意であり、同類に対する関係では慈愛である。動物も組成上の必要に応じて選択的な関係を結んでおり、群棲的な人間もまたそうである(「生存の技法」p. 16)と。こうして、構成のネットワークは次第に、これも神崎先生のことばを借りればボトムアップ式に拡大して、世界を構成することになるはずだと。
 これは、たんに哲学的な面からだけでなく、論理学的な観点からも要請されている、と引き続き神崎先生は論じられています。ストア派では、論理は(というか、接続詞は、というべきでしょうか。この時代、論理学はそのまま言語学といってもいいくらいことは、アリストテレスを論じるバンヴェニスト以来おなじみのことではありますが)3つあります。
 一個目は選言、つまり「あれかこれか」(キルケゴールではない)です。たとえば、動物は世界の事象を関連づけるにあたって選言的な関連づけをおこないます。すなわち、あれか、これか、という離散的なとらえ方を行うということです。子どもで言うと好きか嫌いか。なんとなくフロイトの属性判断っぽいですね。
 ついで二個目ですが、これは仮言です。〜ならば、〜だ、って奴ですね。たしかに、一般的成人は関連づけによってああなればこうなるという事態の推移の予測を、すなわち推移的で結合的な表象をもちます。(81)
 最後に三つ目、これは連言的接合、つまり、〜かつ〜という奴です。なぜこれが条件分岐より大事なの?というと、じつはストアの論理学は全称命題を用いず個別命題の連鎖によって表現するからだ、と。(81-82)別の箇所での神崎先生の例示によれば、たとえばすべての脊椎動物は有血である、という全称命題は、「あるものが脊椎動物なら、それは有血である、ところでこれは脊椎動物である、したがってこれは有血である」となるのだそう(「ゼノンと初期ストア派」「哲学の歴史 ; 第2巻 帝国と賢者 : 地中海世界の叡智」(内山勝利責任編集、中央公論新社、2007)、p. 124.)実に面白そうですね。この、仮言と連言のウェイトは、ブレイエと、ロング・神崎組でちょっと違うのですが、このあたりの整合性はまた考えてみなければなりません。

 全称命題の否定、ああ、ラカン派の研究者としては、それを大前提にすべてを構築するこの論理学の帰結がほんとうに気になってしまうことは当然です。さらには、二値論理の否定などという話も紹介されています。たとえばキケロがこういう。明日ヘルマルコスは生きているか、それとも生きていない、は真ではないとした、なぜなら予定は確定ではないから(キケロ『アカデミカ第一』二・九七)(102)。この二つにあわせて、「宇宙の非存在」(ブルタルコス「共通概念について」断片集第2巻167頁)と、この三つがもたらす帰結については、ぜひぜひ将来的に探って見ねばなりません。*1

 さて、では気を取り直して、もう少しストア派のテュケーとオートマトンを。ちょっと長いですが、ブレイエから二箇所引用しましょう。

「・・・彼らは、必然的なものを一種の真なるものとして、すなわちつねに真であるもの(ト・アエイ・アレーテス)として定義する。必然的なものとは、したがって、事実の普遍性、あるいは彼らが言っているように、あらゆる時間において現在し続ける帰属の普遍性である。しかし、真なるものがつねに恒常的であるとは限らず、それは、出来事の絶え間ない変化ゆえにしばしば変わることがある。まさに真なる命題のこうした本性によって、アフロディシアスのアレクサンドロスによれば、ストア派の人々は、<出来事の偶然性>と<運命の秩序>との一致を可能にしたのである。」(45)

「明日、海戦があるだろう」という命題は、もしこのような出来事が運命によって規定されているとすれば、真である。しかし、この命題は必然的ではない。何故なら、それは、たとえば、明日以降に真とはならないかもしれないからである。この微妙な論点の根本的な理由は、真なるものが、多くの場合、つねに偽となりうるような一時的で束の間の出来事にすぎないのに対して、必然的なものは、ただ恒常的な事実や出来事として理解されるからである。ス/トア派の何人かは、真なる命題と時間の関係に関心をよせていたように思われる。真なるものが偽なるものに落ち入ること(逆転[メタプトーセイス])が容認されていたのだ。ある種の命題は、無規定的な時間の末にそれが偽になるという制限つきでしか認められないだろう。命題のさまざまな様相(可能的、必然的、理に適った)を枚挙する際に付け加えられた、この特殊な事例がまさに明らかに示しているのは、命題が、可能的、あるいは必然的、あるいは一時的出来事として扱われ描写されるということである。(45/46)


 こんな発想を支持してくれる形で構築される論理学、面白そうでしょう。しかし、ただでさえ資料の散逸の多い(輯本だらけだし)ストア派の資料だけに、この辺をまとめて再構築してくれた現代のひとっているのかしら、と。ストアの論理学を現代論理学記号で説明してくれる資料はいくつか見たのですが、このあたりまではフォローしてくれていなかったように思います。

 まあ、それはさておいて、この「論理学的観点から」の三番目の持つ意味を忘れないうちに紹介しておきましょう。全称命題にかわって全体をになうことになる、この連鎖は連言的結合であり、賢者による全体的組織的把握なのだというのです(「生存の技法としての『自己感知』」下、82)。推移への立ち臨みは世界の条件的結合に対する関係的様態であり(83)人間の知恵が他人の着手したものを受けとることが出来る、という、開かれた非完結性を考慮すれば、親近性オイケイオーシスの自己関係的性格に基づきつつも、自己感知から理性すなわち推移への立ち臨みへと進展していくことで、関係項は身体から他者を含んだ共同世界へと広がっていくということになる(85)はずです。ロングはそれをこう表現しています。

「原因・結果の自然的な結びつきは、思考と言語のレベルにおいては、人間の「結合の概念」によって表現される。宇宙は、物質的な諸構成要素からなる理性的な構造体である。自然的な諸事象において、また論理学において、帰結がそれに先行するものに随伴するのは、両者の結合関係が「真」である場合、またその場合に限られる。すべての結合関係からなる「真理」は、≪自然≫、神、あるいは、宇宙的なロゴスの所産なのである。」(219)

 言語、思考、論理から、宇宙の構造へ。それは言ってみればシームレスなのです。とはいえ、これはラフスケッチ。もう少しそれを(出来る範囲で、と但し書きを付けねばならない段階なのが哀しいところですが)ストア派に沿って見ていくためには、ブレイエのここまで述べてきたような論述を頭に入れた上で、もう少し戻ってブレイエを見て、ストア派の宇宙の構造から眺めていくことにしましょう。言ってみればこんどは宇宙の原理からトップダウンで。そうすると、どこかで両方の議論が出会う、はずです。



 ちなみに、余談ついででもう一つロングの本から足しておくと、前回ご紹介した中井久夫せんせいもお好きでずいぶん使われているカイロスとも関係する、時宜にかなったeukairosという言葉について、ロングはこういう見解があることを紹介しています。「運命と呼ばれる一連の原因の結果である諸々の出来事に対して、人間の諸行為の結果が出会い、適合する時点」Tsekourakis, Studies in the Terminology of Early Stoic Ethics, ph.D. dissertation of London University, 1971, pp.91-92.

*1:でもまあ、そんなのは果てしなく遠い先のことになりそうなので、今は、その探索の展望となるものを、ブレイエのテキストから羅針盤がわりに引いておきましょう。長いですが二箇所。それは、私見によればここまでの上でほのめかした「性別化の論理」に、テュケーとオートマトン、そして、時間と真理という問題につなぎ合わせていく方向でひろがっていくはずであり、それがこの論理学の一意的な帰結であることまで含めて理解できれば、逆にラカンの「性別化のマテーム」と「テュケーとオートマトン」という、一応別のトピックをも統一的に理解できる論理を発見することになり、それらはうまくいけば「時間と真理」という問題のカギとなるはず、というところまで。でも、お気づきのように二つのトピックがそれぞれ似ている、では、ただの物珍しがり屋になってしまいます。ですから、ストア派の二値論理否定の論理学が、同時に全称命題の否定さらには普遍の実在の拒否という世界観の構築の基礎となっていることが、包括的に論じている本があったらみなさま教えてください。その一貫性を見出すことが出来れば、ラカンの側の二つのトピックの一貫性の分析の参考になるやもしれず、そうすればただの物珍しがりよりはちょっと出世できるというものです。と、まあ、こんなかたちで、以前の酒の席でTさんにおはなししたネタを補足しつつ。