生物学的唯物論

 ここまで3回ほど、エミール・ブレイエ「初期ストア哲学における非物体的なものの理論」(江川隆男訳、月曜社、 2006)を中心に、ストア派の、前半二回は「構成と親近性」を中心に世界の構成を、後半第一回目の前回は、そこから「出来事」を取り出してみたのでした。ストア派の、火と「気息」による一元論的世界、そこでは、ものの属性は動詞で表現されるのでした。早手回しに言えば、今回論じるのは、そのことによって、なにがしか超越的な能動的規定(形相、イデア云々)が一方的に受動的な規定(質料)に働きかけるという深層のダイナミズムは否定され、質料そのものが能動者でもあれば受動者でもあり、その相互の働き掛けという平面の織物のなかに物体は置き直される、ということです。このことは、いわゆる主語とその属性という考え方のなかの変化を通じて、主語の位置に置かれるものの性格そのものを変えます。

 さて、前々回までの流れでは、存在者は、実際の事物の連関のなかにおいて、そこに構成される出来事の連言や仮言的な命題の主語として登場するものとなっていました。こうした哲学は当然のことながらある種の人間学的見解にも影を落としますが、たとえばロングは、自己を意識するとは、たとえば幼児と母親の乳房の関係のように、同時に自分を他の何ものかとの関係にあるものとして描き出すことである、という風に述べています。「幼児が母親の乳房に対してもつ知覚は、かくして幼児が自らを意識する知覚の不可欠の部分をなす」(282)これは、こうしたその存在者の「表現」であり、表面にあり(ドゥルーズが表面表面言うのが分かってきたような気もしますね)、多様な非物体的諸事実を構成するという世界の作成の、一つの幼児心理学的例示として考えて良いでしょう。神崎先生の論文の一つの主題にもなっているように、自己感知はある種アプリオリなものとしてストア派では認められていますが、それは自己に親近的なもの、すなわち内的構成の可能性もあるとはいえ、多くの場合は他者との構成関係のなかから浮上してくるものにほかなりません。それが、ある種なめらかな世界の広がりを保証しています。それが良いのか悪いのかは、また色々と(特にその後のストア派における衝動の位置づけの変化をめぐって)考えなければ行けないのでしょうが、いまはブレイエをなぞりましょう。

 ちょっと脱線しますがついでにいうと、ここで面白いのは、ここから導かれる帰結の一つです。すなわち、「繋辞<である>を無視し、主語を動詞・・・によって表現するとき、まったくの動詞として考えられた属辞は、もはや概念(対象あるいは対象のクラス)としてではなく、もっぱら事実あるいは出来事を表現するものとして現れるのである。」(38)「ここから、ストア派の人々が動詞を含む命題しか受け入れないことがわかる。つまり、彼らにとって述語と繋辞は、動詞において一つになるということである。」(39)とされている、ということです。このために、ブレイエは、面白い例示をするのです。たとえば「樹木は緑である」は「樹木は緑になる」じゃないとダメ、と。これ、あの珍妙な動詞、「ペガサスる」を思い出させるよね、ね、ね、と一人で騒いでしまったのですが、まあこんなわかりやすい比較はもうとっくに誰かがやっていることでしょう。問題はこの本が1908年に書かれたということで、版を改めたあとの追記でなければ、1908年生まれのクワインよりは当然先行しています。影響関係とか、どうなのかしら、という興味は尽きないところです。さしあたり手元のクワインの「何があるのかについて」(「論理学的観点から」所収)には、ストアへの言及はないようですが、またゆっくり見直して見ねばなりません。

 なぞろうと言ったのにいきなり脱線してしまいましたが、ということで、こうした存在者の定義は、もっと色々深いところでプラトン実在論と呼ばれるものに対抗する姿勢とリンクしてくるはずなのですが、そこまではまだ、思慮が行き届きません。いま、上でちょこっと触れたあたりの見直しがちゃんと出来ていれば、つぎのブレイエの言明は、またもっと違った意味からも良く理解できるのかもしれませんが、さしあたり今は、表面だけでも議論を追って、言葉をなぞっておきましょう。このように、ストア派では、主語と属辞の関係が、本質的関係か、あるいは偶然的関係かに立脚する様相から、アリストテレスの論理学でいえば偶然的であったような関係、すなわち出来事とその主語の関係へ移行します。(40)述語は個体でも概念でもなく、非物体的なものであり、思考のうちにしか存在しないものとされるのです。(40)「属性は、思考上の概念的対象というその尊厳を奪われ、もはや一時的で偶然的な事実しか含まなくなる。したがって、そうした属性の非実在性において、そしてこの非実在性によって、論理的属辞と物の属性は一致することができるのである。」(41)

 こうすることで、ストア派にとっては、事物の定義という概念も、またそこから敷衍して、可能態と現実態というアリストテレス的なカテゴリーも、当然変更を余儀なくされます。長いですが引用しましょう。まず事物の定義という概念から。

ストア派の人々は、定義は一つの定言命題であると主張するアリストテレスに反して、定義を、既に見たように、諸概念の共存在ではなく、諸事実の共存在を肯定する仮言判断の形式のもとにおいたのだ。彼らは、アリストテレスの<ティ・エーン・エイナイ>[それが何であったか]から<エイナイ>という語を取り除いて、<ティ・エーン>[何であったか]によってお/そらく不変的で恒久的な事実を示したかったのである。(54/55)

 このことにより、諸カテゴリーのもとに数えあげられうるものを指示する普遍的な語は、アリストテレスにおける<存在>オンから<あるもの>テイに移ることになります。ここでは、無限あるいは無規定的なものを世界から追放する動きがある、ということが出来ます。そして、このあるものから出発して、諸事実の連鎖と共存在から構成される運動から、存在者の世界は連関的に構成されます。

「彼らは言う。アリストテレスに抗して、運動は、可能態から現実態への移行ではなく、まさにつねに新たに反復される一つの現実態である、と。クリュシッポスは、種子的動詞体の能動性を/構成するこの種の往復運動の中に不変で完全な運動それ自体を見出したのである。他方で、世界は、大火から世界の回復へ、そしてまた新たな大火へと移行していくような永続的変化の状態の中に存在する。」(75/76)
「変化の中での同一性は、つねに完全で、そのすべての可能態を絶えず展開する世界をわれわれに示すのだ。この同一性は、連続的変化の真っ只中でもその形態が同一の形態であり続けるような生物の同一性と類似している。」(76)

 ここにある世界は、のちにジョルダーノ・ブルーノが、質料において現実態と可能態は同一のものとして存していることを力説することを思い出させるものです。「それゆえに、あらゆる可能態・能力と現実態は、原理のなかでは、包含され、統一され、一なるものとして存在し、他の諸事物の中では、展開され、分解され、多様化されたものとして/存在します。」(ジョルダーノ・ブルーノ「原因・原理・一者について」(加藤守通訳、東信堂、1998)、p. 126/127)ブルーノの世界でも、自然の基体はただ一つだけ(109)であり、その中には「第一に諸事物のなかに内在的な普遍的知性、第二に全体に生を与える魂、第三に基体」(120)が存していて(というか、それぞれは一つのものでその機能的な三側面というべきですが)いるのです。


ついでにいうと、ブルーノもやはり、こういう意味での一者は存在しているが、宇宙はある意味で存在していない、といっています。

「宇宙は、第一の現実態と第一の可能態・能力の影以外の何ものでもなく、その結果、宇宙においては可能態・能力と現実態は絶対的な意味で同一なものではありません。なぜならば、そのどの部分も、それがありうるものすべてではないのですから。さらに言えば、宇宙がそれがありうるものすべてであるのは、あくまでも、われわれ言った特殊なしかたで、つまり展開され、分散され、区別されたしかたにおいてのみなのです。」(128)

 つまり、宇宙は一者とはちがい、ある意味では一者が一者になれずに(斜線を引かれて、という誘惑に駆られます)みずからの非同一となったことで存在します。だから、現実の宇宙においては可能態と現実態は絶対的な意味で同一になりえず、世界は有限で限定されたものからのみ構成される。もちろん、ブルーノがこの後これを「悪」の問題として論じたことはいうまでもなく、そしてシェリングの「人間的自由」の問題へとつながっていくということも、言うまでもありません。昔微妙にそんなことを書いた記憶も。

 さて、最後に、そうしたわけで、こうした生物学的唯物論、ともいうべきものがストア派の特徴である、と、ブレイエは結論づけます。

:「変化を不変的な数学的概念との関係で考えるならば、変化は無規定的なもののように、したがって不完全なもののように思われるだろう。しかし反対に、変化を生命との関係で考えるならば、変化は自らを展開することによってのみ充実して存在する生命の活動そのものになるだろう。・・・しかし、生物の規定性は自らに内在的であり、生物が自己のあらゆる活動を生み出すのはその内的な力によってである。」(100)

 このように、少々風変わりなストア派的な生物学的唯物論では、徹底した内在論が貫かれることになります。それは一方では全称命題を放棄し、動詞に還元される属性から構成されるものとして、存在者を浮上させ、その存在者はまた、それからなる諸命題の連鎖によって、みずらかに親近的なかたちで、より広く世界に連言されていき、つまりはより普遍的なものへと結ばれ、いってみれば存在を蓄積させていきます。

 さて、こうして、前回の「構成」そして今回の「出来事」と、一応その二つの主要概念を軸に、それらが「非物体的」というストアの術語の中でどう位置づけられ、それによってストアの宇宙観がどう構成されるか、とっても駆け足で見ていきました。とはいえ、これだけ長くなっても、たとえば「表現可能なもの(レクトン)」であるとか、あるいはラカンストア派といえば、そう、シニフィアンシニフィエの区分の元祖がこのレクトンに絡んできましてね、とか、そんなはなしもあるはずなのですが、もうほんとうに気息奄々なので、それはまた、いつの火か。いやいつの日か。今回は、形相と質料、本質と存在といったような二元論を持たない、この、自己原因的な物体と、その展開からなる世界、それをブレイエのインスピレーションでまとめて、おはなしの〆に代えましょう。

「したがって、原因は、真に存在者の本質であり、存在者が模倣しようと努力するようなイデア的範型ではなく、存在者のうちで活動し、存在者のうちで存続し、存在者を生けるものにするような産出的原因、アムランの比較に従えば、プラトン的な≪イデア≫よりもむしろスピノザの<個別的で肯定的な本質>に似た産出的原因である。」(15)