パントマイム

 さて、前回までの4回で、いちおうブレイエをなぞってきたわけですが、さすがに素人が(それも頭の悪い素人が)やるとどんくさく紛糾したものになることは避けられない、ということで、ここはひとつ、綺麗な補助線を入れておきましょう。ということで、今回は手短に、近藤智彦「「出来事」の倫理としての「運命愛」ーーードゥルーズの『意味の論理学』におけるストア派解釈」(「ドゥルーズ/ガタリの現在」小泉義之、鈴木泉、檜垣立哉編、平凡社、2008、p. 41-57)の整理をご紹介。

 この「ドゥルーズ/ガタリの現在」という論集には、おなじくドゥルーズの「意味の論理学」とラカンとの関係をめぐる論考、上野修「意味と出来事と永遠と−−−ドゥルーズ『意味の論理学』から」が収められていて、これはとても素晴らしいものなのですが、これはまたあとで紹介する機会を待つことにして。聞くところによればこの分厚い論集、色々あって編者の方々はいくばくかの持ち出しをして出版が可能になったとのことですが、それだけの情熱を捧げるにふさわしい出来であろうと思います。ラカン派からの原稿が無かったことはちょっと残念ですが、それはまあ、むしろこちら側が反省するべきことかもしれません。じじつ、上野先生の論考のクオリティはたいへん高い。これで十分といわれれば、はい、としか言いようのないところです。ちょこっとは言いたいこともあるけど。

 さて、それでは近藤先生の論文から。この論文のテーマは到って明快です。ドゥルーズによるストア派解釈の明確な二元論、ばあいによっては行き過ぎな二元論。
 まず、ドゥルーズにとってのストア派の特異性がなんだったのかということが、クレール・パルネとの「対話」より紹介されます。ストア派の特異な分割線、すなわち物理的な深層と形而上学的な表面の間にそれはあるというのです。それは、ものと出来事、といっていいでしょう。
 つまり、一方にものの状態ないし混合や性質、実体が、他方にはその混合に由来し、そのものの状態に属し、命題で表現される出来事ないし非受動、無性質、不定詞の結果があるというのです。(42)これは、つまるところ物体と非物体の区別にあたるものです。その区別についてはこれまでもおはなししてきました。(42)そして、ドゥルーズの特異性は、この二つの区別をより徹底して、いたるところにその二分法を持ち込もうとした点にあります。それを、物体=原因=深層とそれに対応するクロノス、非物体=意味・結果・出来事=表面とそれに対応するアイオーン、という二系列とおきましょう。

 たとえば、因果論に関して。ドゥルーズストア派の「準-原因」という概念を重視したことは(そしてそれがある時から消滅したということをジジェクが批判していたりしたことは)つとに知られていることですが、それには理由があります。原因というのは、ものの側に置かれます。つまり、諸原因は深層で固有の統一性に送り返されねばならないのです。それは、ある意味で機械論的な(ちょっと軽率な言葉の使い方ですが)摂理と言ってもいいかもしれませんし、そうでなくとも自然への服属といったイメージです。

 さて、近藤先生の解説にならって一応補足しておきますと、ストア派においては、原因はつねに物体の側にあります。しかし、結果は非物体のレクトン、より細かく言えば述語ないし属性なのです。たとえば、メスという物体があると思いねえ。それは、「切られる」という非物体の述語ないし属性の原因となります。このとき、切った貼ったは、その物体に直接的変化を与えたものとして考えてはいけない、というのがややこしいところ。
 つまり、非物体の結果は存在の表層に見出される、というのはそういうことなのです。それはあくまでも存在の表面に関係し、結合も終局もない。このような、非物体的な多様性を構成する諸事実の平面は、物体の構成する深く実在的な存在と力の平面とは根本的に区別されるとブレイエは解説し、ドゥルーズはそれを受けて出来事、表面という術語を多用するのだ、と(44)近藤先生は考えます。


 なるほど、ここで重要なのは、物体の側には常に原因がある、ということ。そして、その物体は前回までご説明していたように、火と気息の一元論で出来ています。ですから、諸原因は深層で固有の統一性に送り返されると、ブレイエは言うのであり、原因のすべてを包括する唯一神との関わりによる原因相互の関係がストア派における運命というブレイエは解説するのです。そう、ブレイエは、同時に内奥という言葉をよく使ってました。「原因は個体の内奥における原因でなければならない。この内的な力は、非物質的な存在者の外的な働きと少しも両立しえないものなのである。・・・彼らがただ個体のうちにのみ実在と存在を認めるのは、もっぱら個体のうちにのみ存在者の原因と生命の中心が存在するからである。・・・ただし、非物体的なものを存在者の原因のうちにおく代わりに、彼らはそれを結果のうちにおくのである。」(23)とかね。


 しかし、諸結果は表面で別の特殊な関係を維持するとドゥルーズは考えるのです。そちらにはそちらで別の因果性があると。それを、ドゥルーズは準-因果性と呼びます。
 非物体的な諸結果の方も、本質的に諸原因と異なる限りにおいて相互に準-因果性の関係に入り、その集合全体としてそれ自身非物体的な一つの準-原因との関係に入ります。この準-原因は、非物体的な諸結果に対して、運命から帰結するはずの必然からの独立性を保証するとドゥルーズは考えるのです(45)。そこからまた、自由も二種類がおかれることになります。諸原因のつながりとしての運命の内面性において救われる自由と、諸結果の結合としての出来事の外面性において救われる自由と(45)。


 そうすると、倫理に関してもこの二分割が適用できます。ドゥルーズは、ゴルトシュミットによるストア派の二つの倫理の区別を援用しつつ、それを敷衍というかより推し進めます。
 ゴルトシュミットによる分割では、出来事をどう解釈するか、ということに関しては二つの方法が考えられる、それは

?厳密には神にのみ許された出来事全体のヴィジョンへ可能な限り上昇すること。
?表象の使用に頼るもの。

の二種類だとされていました。?は、人間の限界によりどうしても不完全に終わります。?は、対称的に常に目的を達しますが、ゼウスの摂理から人間の自律を孤立させる怖れもあります(49-50)。そして、ドゥルーズはこれをゴルトシュミットの解釈を越えて、物体と非物体の区別と対応づけようとするわけです。(50)

 こうして、ドゥルーズは、物体と非物体の峻別と後者の称揚によって、ストア派のモラルを、こう定式化するようになります。「ストア派のモラルは、出来事に関わる。ストア派のモラルとは、出来事をそのまま意志すること、すなわち、到来することを到来するがままに意志することに存する。)」(LS168/上249)
 これは、エピクテトスの「生起することを生起するがままに欲せ」に由来か(46)と近藤先生は推察されています。そして、他方でこれが?に由来するような、従容と運命を受容するというようなストア派のイメージとよく似ているけど違う、という点を力説することになると。

 それを、近藤先生はこうまとめています。

「「出来事は、非物体的結果であるから、それが由来する物体的原因とは本性的に異なっている。また、出来事は、原因とは異なる法則を持ち、非物体的な準-原因との関係だけによって決定される(LS169/上251」という点を指摘している。したがって、ドゥルーズの解釈によるならば、ストア派にとって本来的な「運命愛」の形とは、ニーチェが批判したような摂理によって統御された世界像に基づくものではなく、「物体=原因=深層」から区別/される「非物体=意味・結果・出来事=表面」の平面の独自性に基づくものであることになる。」(51/52)

 その結果はどうなるのでしょう?この、運命愛としての出来事の倫理では、一体何が運命ということになるのか。それをドゥルーズはこう述べています。

「演技可能な瞬間の最小時間を、アイオーンに従って思考可能な最大時間に対応させること。出来事の実現を混合なき現在に限定すること、無限定の未来と過去を表現するほどに瞬間の強度を高め緊張したものにし瞬間的なものにすること、これが表象の使用である。パントマイム師であって、占い師ではない」(LS 172-173/上256)

 この言葉の意味を良く理解するには、引き続き上野先生の論考を紹介せねばならないのですが、いまは措きましょう。さしあたり、事物の因果性からなる運命の時間をクロノスと置き、それとは別の時間をアイオーンと呼んでいる、と考えて下さい。この「パントマイム師」ということばに、ラカン的な響きを感じることも出来るかもしれず、この「表象の使用」という言葉に、ちょっと前に論じた「偽なるものの力能」を感じ取ることは、こっちはより確度高く出来そうです。

 ある哲学者がある異分野を読解した結果、それが過度に行きすぎた自説への引きつけ、牽強付会とその分野の専門家から非難されつつ、しかしその是非を巡って新しいパラダイム(とまではいかないかもしれないけど)を作る、というパターンは良くありますが、ドゥルーズのそれがそこまで行くかどうかはさておくとして、前回までの混濁した話をいったんドゥルーズ的二元論で切ってみて、そのあとどこがそんなに単純には切れないか、と見ていくというのも、ひとつのお勉強かしら、と思います。

 しかし、同時にラカニアンとして興味があるのは、この準-原因。ジジェクがそれをドゥルーズの「暗き先触れ」という概念と、そして対象aと関連づけて論じていたことは、みなさまご存じの通りですが、実際ブレイエはなんと言っていたのでしょう。そのあたりを、次回は軽く補足して。