チェシャ猫

 さて、前回は近藤智彦「「出来事」の倫理としての「運命愛」ーーードゥルーズの『意味の論理学』におけるストア派解釈」(「ドゥルーズ/ガタリの現在」小泉義之、鈴木泉、檜垣立哉編、平凡社、2008、p. 41-57)を紹介しながら、さて、ブレイエ本人における「準-原因」ってなんだっけ、ということをちょっとだけ補足しますね、といって、話を終えたのでした。では早速。


 ブレイエはまず、<夜が明けた、故に明るい>という命題を例にします。第一項は第二項の原因でなく、「いわば原因のようだ」とされるものにすぎない、と。そして、この種の非実在的因果性は言語における表現だけを見いだすことが出来る、すなわち接続詞をもつ言語によってだけ関係の異なった様態を実在について答えることなく表現できるのである(48)と。

 これは、たしかにヒューム的っちゃヒューム的な因果論批判です。原因と結果の間の関係とおぼわしきものは、慣習的な類推によってのみ成立した関係であり、この場合その慣習とは言語、それも接続詞です。ですから、非物体的なもの。しかし、逆に言えば、「この論理学に固有の特徴があるとすれば、それは、実在との接触の外部で、またおよそ見かけに反して、感覚的表象とのあらゆる接触の外部で自らを展開することにある」(60)ということにもなります。言語の自律と言いたいくらいですが、それはやめておいて。

 それはあるいは、ある種のモナドジーとして捉えることも可能なのではないか、と思われるふしは、次のブレイエの一節に見ることが出来ます。長いですが引用しましょう。

「運命とは、それに応じて出来事が規定されるこの実在的原因、この物体的根拠であって、それにしたがって出来事が相互に規定されるような法則ではまったくない。他方で多様な原因が存在するように、宇宙の根拠があらゆる存在者の多様な種子的動詞体を含む以上、運命は再び「諸原因の関係[連結]」(ヘルモン・アイティオーン)と呼ばれるが、それは、原因・結果の関係ではなくて、原因のすべてを包括する唯一神との関わりによる原因相互の関係である。この関係は、諸々の原因を相互に従属させるような、諸原因の間の継起の関係でさえある。何故なら、存在者が相互に生起するのは、世界の配列そのものに従ってのことだからである。しかし、ここで再び問題となるのは、諸々の存在者それ自体の関係であって、諸々の出来事の関係ではない。」(61)

 つまり、原因は一者に由来します。あるいは、唯一の実体である火に。そして、すべての事物はこの単独の原因である火の結果として生じるもの。だとすると、ブレイエのいう「諸々の原因を相互に従属させるような、諸原因の間の継起の関係」というのは、窓のない、相互に交通のないモナドとは違うようでもあります。そうするのであれば、物体的なものはそれらの間で働きかけ働きかけられる、という当初の前提を崩さないで済みましょう。しかし、出来事のレベルでそれはない。ということは、もし物体そのものを、火の結果である以上その様態(あるいは緊張の度合いの一表現)であり、出来事であるとし(すべての主語は火であり、すべての事物は「火がペガサスる」「火が机る」といったように)、それゆえに物体相互の間にさえも原因結果の因果論というかたちでの交通はない、と見ることも、あるいは可能かもしれません。素人の思いつき以外の何ものでもありませんが。ドゥルーズライプニッツ論はあるいはその答えを与えてくれるかもしれませんが、あれ、難しい。。。

 しかし、それを諸表現間の(接続詞等々による)連関とその自律性、とみなすのであれば、こんどはドゥルーズの言うような意味での「猫のいないほほえみ」としての共立的な出来事を、抽出する世界観といえるのかもしれません。そして、そのストア派言語学シニフィアンシニフィエの淵源が含まれているのなら、チェシャ猫とシニフィアンはあるいはこの同じ土地の出身なのかも、とまで、妄想は進んだところで、とりあえず止めておこうかなあと思います。