2 無限から有限へ


 さて、前回は、スピノザ構成主義、とでもいうべきまとめで、ちょっと強引に『エチカ』のある種の欠点を救ってみようと試みたクリストフォリーニさんの見解をまとめてみたのでした。それを、わたくしは「最初の簡単な道具と、その展開、あるいはその持つ構成力」というふうに言いかえてみたわけですが、今日の話はそこから。

「神の本性の必然性から、無限の事物が無限の様態の元に生じてこなければならない」


 『エチカ』第一部で構築されたシステムの頂点は、この定理16に見出されます。これは、スピノザのいう無限概念の持つ力動性と拡張性を総合したものということが出来る、とクリストフォリーニさんはいいます。これが種であり、ここからすべてが展開していきます。あるいは『スピノザ 実践の哲学』第四章で、「開展」という項を用意したドゥルーズにならって、この言葉、開展を使っても良いかもしれませんが。

 さて、スピノザの神様は、自己原因として知られています。ということは、自己の原因であり効果である、とクリストフォリーニさんはいいますが、うむ、なんとなくどっかできいたことがあるような。もっともあれは対象であって結果ではないので、ここに違いがあるわけですが、その辺の差異がまた面白いところ、かもしれません。

 いきなり話がそれるのも何なので元に戻しましょう。万物は神のなかにあり、そしてそれによってあらかじめ規定され、、その自由意志によってではなく、その本性の持つ無限の力能によって規定されています。神の自由は本性=自然の必然性としてとらえられます。神の本性は自然であり、ここでは必然性と自由のあいだに論理的な対立関係はありません。対立関係にあるのは必然性と偶然性の方です。つまり、必然性と自由とを対立させるというのは、自由と偶然性を混同しているからだと。しかし、スピノザにとっては神は自然そのものであるが故に自由な原因なのであり、その哲学のなかに自然的=本性的な必然性から離れて存する物はありません。

 そして、自然のなかにあるのは実体であり、それは単一にして神である、ということになっています。様態は実体の多様多形な表現であり、属性は知性が実体から把握するもののことです。ですから無限の知性にとっては、属性は無限。でも、人間は無限の実体かあるいは無限の思惟か、としか考えることは出来ません。フィルタリングって奴ですね。ユクスキュルのダニが酪酸という属性しか把握しないように。これが人間の有限性です。他方、神の無限の本性=自然は、無限の様態のなかに表現されます。ここで、様態というのは事物の現れる仕方であるとともに、事物そのものの表現でもあります。事物や出来事とともに思惟も神の様態である、というのはその意味です。

 さて、ここでは、無限の認識が有限性という観念に先だっています。そして、神はアリストテレス以来の不動の動者として、始動因となるのではなく、むしろ原因であり結果であるものの無限の連鎖の総体として捉えられます。ですから、無限であるとか、謎の始動因の探求へと遡上していこうというパースペクティブは逆転させられ、その必然性にしたがって無限に作用する、自由な原因のみがわれわれのもっている「明晰判明な」観念ということになります。こういう風な議論の組み立ては、ある意味ではスピノザのうちにのこる新プラトン主義の影響といっても良いのかもしれません。しかし、もちろんのことながら、こうして展開されていく運動の連鎖から生まれる個物は、いかなる意味でも、新プラトン主義的な堕落のイメージとは無縁です。むしろ、この個物へと、有限性へといたる運動、そこに倫理学の足場があるのです。

 「さて、私はこれから、神の本質、いいかえれば永遠・無限の存在者の本質から必然的に生じなければならないことがらを説明することにする。だが、そのすべてを説明するのではない。というのは、私は第一部定理十六において、その本質から無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じてこなければならないことを証明したからである。そのためここでは、ただ人間精神と人間の最高の幸福の認識に、われわれをあたかも手を取るように導くことのできることがらだけを説明する。」(『エチカ』第二部序文)

 この著作が『倫理学』と題されているのは、ここによって正当化される、とクリストフォリーニさんはいいます。今後の着眼点は、「何であるか」と同時に「どこまで自己自身を実現できるか」という二重の問いのもとから、我々人間を考えることであり、だからこそこの本は自然学(物理学)ではなく倫理学と題されるのだと。無限にあり得た選択肢のなかで、ただ人間精神と人間の最高の幸福の認識に。もちろん、理論的にはそれは、思惟と延長という人間が知りうるふたつの属性の両面から研究できる唯一の対象であることも確かですし、実践的には、人間が実現すべき目的へと向かう傾向を探求することにも、当然意義があるわけですが。

 しかし、そういう風に、「人間が実現すべき傾向」といってしまうと、当然疑問が。それは目的論では無かろうか。しかし、自然が(特に神の御意志とやらにしたがって)目的を持って行動しているという考え方は、当のスピノザが批判していたものでは無かろうかと。

 これに対するクリストフォリーニさんの答えはこうです。スピノザストラトンやベール、レオパルディといった、自然が人間の目的にたいして無関心であるという系譜と遠いところにいるわけではないが、人間が目的へ向かう方向性を捨てたわけではなく、ただそれを形而上学と結ぶ紐帯を破壊したのだと。われわれが自然本性的に有限性へと向かうのは、われわれがわれわれについての特殊なアプローチを享受するからであり、われわれの精神が自分自身と事物の認識を試みるとき、われわれの精神はその有限性のなかで、目的論的に働かざるを得ないのです。

 しかし、この有限と無限は、『エチカ』のまさに最初のふたつの定義から登場していて、その非対称性が著作全体を貫き、内的な緊張関係をもたらしている、とクリストフォリーニさんはいいます。いや、言っているのはこのあと第三の道程の末尾(p. 32)においてであって、クリストフォリーニさんはそこで(たぶん)第二の道程と第三の道程を再びつなぎ合わせているのですが、ここでは先に述べてしまいましょう。定義1は自己原因の定義であり、無限の哲学はそこから流れ出てきます。ところが、定義2は有限な事物の定義であり、つまるところ同じように有限な他の事物によって制限されたものの定義です。有限な事物は神の実体、諸属性、諸様態以前に定義されているのです。こうして、ふたつの異なった建築物をささえるふたつの柱がここに示されます。有限性は無限のなかにありますが、しかしそのロジックは無限のロジックといっしょではありません。無限へと向かおうとする事自体、その根が無限とは違うところに根ざしていることを示しているのです。ですから、無限がその向かう目的を持っておらず、有限性がそれを持っているのだ、ということになりますし、また、有限性は無限をそのイメージのなかに表象しているとしても、同時にみずからの潜勢力の開花の可能性を制約することで、有限性のうちに再び閉ざされてしまっているのだ、ということになります。

 こうして、『エチカ』は、有限な知性の自己修正の作品となり、完全性へ向かう道を創設する技芸の書となります。無限な知性という観点から書かれてはいません。自らの状況を明晰に認識した有限な知性の視点から書かれているのです。この知性は、自己と無限とのあいだに均質ではない、非対称的な、現実的関係を構築するちからをもっているのです。

 それは、一方で人間の観念が、神の無限な知性とその本性の一部でありながら、誤謬に陥ることがあり得るのかを示しています。同時に、その誤謬の原因が完全性へ向かう力の源であることも示しています。それが、イメージ、表象、つまるところ想像力であり、クリストフォリーニさんの議論のひとつの特色、ひとつの頂点として、次の「道程」で描かれることになります。