6をひっくり返すと9になる

 さて、それでは、今回もピエール・マシュレ「ヘーゲルスピノザか」(鈴木一策、桑田禮彰訳、新評論、1986)から、さいごの第四章、「すべての規定は否定である」を見ていくことにしましょう。

 ヘーゲルにとって、否定とはなんでしょう?

 プロレスの必殺技、翼君ならドライブ・シュートみたいな、ヘーゲルにとっての「否定」ですが、ほな、そげんすごか技と?という疑念が湧いてきます。
 まず、規定されたものは否定を含んでおり、何かあるものはこの否定を媒介にして措定されうるのであるから、それは単なる欠如ではなく現実存在を生みだすものである(163)ということが前提としてあげられます。ここまでは、規定は否定、というはなしをこれまで何回かしてきた中でご説明したとおり。しかし、それだけではありません。そういう力を持つことで、否定とは中間項・媒介・媒介作用としても機能することが分かります。その機能によって、他なるものへと導くことで形式的で空虚な同一性を躓かせ、この同一性を変質させなければ現実的内容は存在しないということを示す(164)というのです。だから、始源の一者のなかには、たんに空虚に自己肯定するだけではなく、なにか否定的なものの萌芽があり、それが現実的存在を産み落とすことにつながります。
 でも、それだけではまだ甘い。そこでヘーゲルせんせいがさらに必殺技として繰り出すのが、否定の否定です。キンニクドライバーがキンニクバスターで横にすると無限大とかなんとかかんとか。いや、関ジャニ∞じゃなくて。あれ?なんか勘違いしている?
 この過程においては始めから終わりまで同じ一つの否定が自らを展開する、とされています。なんのこっちゃという気もしますが、気を取り直して順々に追っていきましょう。はじめは、この否定は有限な否定として発見されます。つまり、同一者の外部に他者を設定することとして規定されています。ここまでは、さっき説明した否定の過程です。しかし、つぎに、この否定がそれ自体無限なものとして把握されなおされ理解される時が来ます。無限というのが、自分自身を対象とする、というものだということは、以前にもちょっと触れました。つまり、自分自身が自分の内容であると認めることです。そうすると、最終的にはこの否定は自己以外のいかなる対象ももたないことになります。つまり、これは互いに結合することで打ち消されるふたつの否定、ゆうたら「二重否定=肯定」みたいなはなしではない、ということです。否定は否定しようぜって話ですが、それはもちろん、否定がないということにしようぜという意味ではない、というのは、再帰的近代って奴と同じ理屈です。
 ヘーゲルにとって、否定の否定は、こういう一つの運動を描くためのものです。すなわち、否定は自己へと帰りその過程で規定された諸結果を生みだし、そんでもってその生みだされた結果こそ主体そのものの運動の産物であると同時に始源の実体でもある、ということなのです。だから、実体の中には、反対物の共存が、矛盾が生じてなければ行けない。ヘーゲルにとって、反対物は一つの主体の中で共存するどころではなく、まさにこの反対物の統一こそ、自律的な自己展開過程としての主体の本性をなすものであり、だからこそ、実体としてだけではなく主体として捉えねばならない、というメッセージが出てくるのです。ヘーゲルにおいて、精神は自分のことを想起することによって、その現実化の諸形式の全体をつうじて自己現前し、現動化され、自分自身の歴史を通過しながら、自己へ戻っていきます。否定の否定とは、生きている精神が有限な規定のうちにとどまることを許さなず、こうした規定は精神が自分の自己同一性を発見し実在化するために破壊されねばならないとされるのです。

 マシュレは、アルチュセールのお弟子さんとして、それを主体なき訴訟過程というアルチュセールの言葉と重ね合わせています。アルチュセーリアンではない身としては、procesはたしかに訴訟と過程と両方の意味を持っているけど、訴訟の意味はどれだけ重要なんだろう、と思わなくもありませんが、あとから誰か賢い人がその意義を教えてくれるであろうという期待のもと、このまま訳語のまま採用しましょう。
 これは、それ自体が主体になっている訴訟過程のことを指すとされています。ヘーゲルいう「概念」とは、その内在的運動において事物そのもの、すなわち内容であり、けっしてたんなる表象ではありません。意味が分かりませんね。つまり、この過程において、精神は、過程全体において表現される絶対的主体として啓示される、といことです。こうして、概念は、それが現実化される理性的叙述において、同時に主語でもあり述語でもあり、あるいは両者の統一つまり相互的規定運動となる、というのです。


 さて、他方、スピノザの体系に否定の否定が不在であること、それがその無力さの徴だというのが、ヘーゲル先生の主張。
 ですから、ここまでのヘーゲルの論旨では、スピノザでは規定は否定だった。おれには否定の否定がある。ということになります。ご本人の言葉を借りれば「実体は、スピノザが把握したように、それに先行する弁証法的媒介作用をもたず無媒介的であると、否定的な普遍的潜勢力になる。それは、いわば形相が定まらない薄暗い深淵である。」(『小論理学』161節補遺)闇夜の牛とかアンタこの類の悪口好きね、というところですが、規定が否定でしかないなら、その否定される前の実体は当然闇夜の牛のごとく形相が定まらなくても当然です。逆に、ヘーゲルは否定的なもののもつ構成能力を堅持します。



 そうすると、ここでスピノザが反論するとしたら、鍵になるのはふたつ、スピノザにとって規定とは何か、無限とは何か、ということになるでしょう。

 規定determinatio、そこには、もちろんのことながら、一方では有限者という観念に結びつけられる制限を表現するという意味合いもあります。何かは規定されているが故に有限であり、有限であるが故に規定されている。普通ですね。
 しかし、他方で、『エチカ』第一部定義七にある「自己のみによって作用するよう規定される」という言葉からもわかるように、自己原因に属する自由というのは、規定されない恣意的な活動とは違うということがわかります。スピノザの神さまは、神さまに依存するこの世界の諸事物に劣らず、規定されているのです。おい、ちょっと待て、神に規定とかあったら困るだろ、というごく当たり前の反応に飛びつく前に、ちょっとひとこと。「神は、たんに現存在しているだけの個別的な諸事物にとっての原因であるばかりでなく、自分自身で諸結果を生産する個別的な諸事物にとっての原因でもあるということ。」(210)そう、神が規定されているとしたら、それは作用するように規定されている、ということであり、逆に、無際限に繰り広げられる有限な諸規定の連鎖はそれ自体神のうちで完全に規定されているということなのです。

 ここで、スピノザにとっては、属性や様態といった実体の変状が、個別的に規定されるものでありながら同時に実体同様に無限であることの意味が生まれてきます。これらは、現動態の無限が現存在することであると解されるのです。スピノザのこの主張は、有限を実在的に産出する際の現動を媒介として、無限が有限のただ中に結果として現前することを表現していることになるという点で重要です。こうして、神のもとで、かつまた神に依存するいっさいのもの中で、同一の原因性という理念に連合されているということから、規定という観念は本質的に、否定ではなく肯定的な使用のされ方をしているということになります。というのも、ある結果を産出するということは、どうあっても、不完全のしるしではないからです。スピノザのいう絶対的無限、それは、いっさい否定性をもたない純粋な自己肯定、現動における無限のことを指すのです。




 とはいえ、これを、実体をその変状へと現実に転換する、という風に考えるべきなのでしょうか?そういえば、スピノザは無限様態という言葉も使っています。それは、無限者の有限者への転態transformation、あるいは無限者が有限者のただ中において、なにがしかの規定をうけることを指します。このように言うと、転移transitionの機能によって定義されている、すなわち、無限様態は無限実体と有限な諸様態とのあいだを媒介するものだ、と。それは新プラトン主義の変種としてのスピノザ主義という解釈を支えることになります。ほなまあ、もう一工夫必要やろう、ということになりますが、どうしたものでしょう。


 スピノザの言う媒介的無限様態と直接無限様態の区別は、ここで有用です。直接的無限様態とは、各属性の本性から生じ、その本性を直接的に表現しているもの。間接的無限様態とは、既に様態化されているかぎりでの属性に由来する媒介的無限様態のことを指します。つまり、後者は、既に様態化されているかぎりでの延長という属性から結果する、あの無限の規定のことを指すとされているのです。あれ、まだちょっと難しい。マシュレの説明を聞きましょう。媒介的無限様態とは、つまり、絶対的なものとして捉えられた延長から運動法則が生まれ、これらの法則は総体として把握された物体的自然に合致し浮き彫りにするということを意味しています。ということは、議論はあくまで有限者のほうからのビルトアップ式で進まねばならないということです。しかし、ビルトアップ式といっても、その有限的な個物の総和から全体としての無限が成り立つという話ではない、ということも、既に述べられています。ほな、どうせいっちゅうの?という気がしてきますが、ここで、媒介的無限様態とは、この種のトップダウンボトムアップの二方向からの組み立ての交点に存するものとして読み替えられることになります。

 ここで、確固たる永遠の諸事物の認識と、個別的な諸事物の現存在と配置とを命じる諸事物の諸法則の認識が重なり合うことになります。こうした事物は個別性であるにもかかわらず、一種の普遍者となるのです。
 われわれが見る個物、もっとも単純なそれらの物体は、自然の本質的諸固有性を固定化しているかぎりで、自然を認識することを可能にするものとなっています。それらの物体は、自然の複合的な現実を再構成するもといとなる要素的な諸規定によって規定されたものでもなければ、実在的なものにわれわれの知覚の条件、知解可能な手本を押しつけることにより現実化される、観念的諸形式でもありません。「それらは、自然のなかに存在する永遠のものを、すなわち汲み尽くすことができぬ多様な自然の諸形式のただ中に存在する永遠なるものを、把握させてくれるような、無限の現勢力を持った自然のなかの、いわば普遍的な類(genre)のようなものなのである。」(227)とマシュレは言います。これらは、確固たる永遠の諸事物の認識に属するものです。しかし他方でそれは、それらによって本来われわれが目にすることのできる唯一の対象である、諸々の複合的事物と、それらが強いられる諸々の運動法則とにも従うことになるはずです。

 こうして、自然の中で生産されるものは普遍的な運動法則により規定されており、各事物はこの法則に従い、一定の規定された仕方で、実体が一つの延長する事物であるかぎりで、その実体の本質を表現することになります。これは個体の論理、あるいは現存在の論理と言うことができるでしょう。他方で、これらのどの事物をとっても、一つの個別的本質をもっており、この本質は外在的存在の強制によってではなく、実体の現動によって必然的に存在しています。こちらが、個別的本質の論理です。それが、実体は、その本質において自らを肯定する、ということの意味です。この意味で、唯一の存在と見なされる自然それ自体もその必然性および統一性の理由である固有な本質をもっており、すなわち自然は無媒介的な無限様態とされるのであり、この意味で、実体は自然の中で、自然以外の事物との連関なしに直接表現される、といってもいいでしょう。これはまた、すべての有限な規定が、実体それ自身である内在的原因の無限の現勢力によって無限であると同時に、他から働きかけられる/他に働きかける諸原因が無限に多様多数であるがために、また無限であることをも意味しているはずです。


「神は、厳密に原因的な作用を媒介として、ありとあらゆる自己の変状で自己の本質の必然性を表現するのであるが、この本質に明らかに合致しておりながら、しかもこの本質を制限もできなければこの本質を巻き込むこともできないような完璧に規定された仕方で表現するのである。」(230/231)



 こうして、スピノザにおいては、有限者の形式たる「ある規定された関係」は、それ自体が無限な規定を含むような複合的規定の観念に帰着します。ですから、有限な規定といっても、それは単に外的な運動法則に服従し制限されることで有限者となるという意味ではなくなります。むしろそれらの法則性を可能にする内在的な連関性そのもの、その無限な連なりに、実体の持つ現勢力が生きている。そこには、最初の観念も最後の観念も存在せず、終わることなく諸観念を相互に結びつけ、それ自体ではけっして自足することの内容にしている諸原因の無限な秩序のなかで捉えられた諸観念がつねにすでにあるのです。十全な観念と呼ばれるようなものは、原子のような知性の単位ではないのです。そして、普遍的必然性とは、諸事物に共通な秩序ではなく、実体があらゆる事物のうちで、それぞれ絶対的に等しく多様な無数の変状として具体的に肯定されることを指すようになります。


 ここまで、スピノザヘーゲルの対立点を論じるマシュレの議論を追ってきました。もし、それを強引にまとめるとすると、それはやはり、「主体なき思考」(ドゥルーズ)が可能か否か、という点がポイントであり、両者はある意味ではともにそれを所与の前提としながら、スピノザは主体なき思考によって考えられる者(あるいは結節点)としての主体を、ヘーゲルは思考の運動そのものとしての主体を(否定の否定という力を借りて)描き出そうとした、といってもいいかもしれません。ラカンがそこに付け加えたことがあるとすれば、それは一方ではスピノザ的な文脈で、無限としての主体なき思考と有限としての物質との連結を考えねばならないという宿題を、欠如としての主体とその相関項としての対象aという形で回答することであり、他方ではヘーゲル的な文脈で、たとえそれが欠如としてであれ、不在の原因としての、動因としての主体を残すという点にある、といいたいような気もしますがちょっと折衷趣味的すぎるかもしれない。このへんは、またゆっくり考えねばなりません。しかし、いずれにせよ、「「暗闇の神」というあの《他者》の欲望」そして生け贄、に、その誘惑に逆らうことができた唯一の人物としてラカンが描いているスピノザに、どうやってアプローチしていくのか、その手がかりは、このいっさいの否定性を含まない愛の中に、いくつか見いだせます。



 さて、本書はといえば、ここからさき、マシュレの論述はいささか錯綜して、雑多な要素が横並びになってしまう感があります。この第四章は、全四章構成の一章のはずが分量としては全体の半分を占めており、その意味でちょっと構成がうまくいっていない、という気もしますが、それはこの錯綜とも関連しないわけではないでしょう。その辺は長くなるので註にまとめますが*1、ともあれ、ここまでで、われわれは前回マクラにふった、「どこが好きなの」リストに対して、もしかするとひとつの解の手がかりを見出すことができるかもしれない。それは、規定は産出的である、ということです。あれは、わたしたちはわたしたちの愛の中で何を生みだすの、という問いかけと、あるいは、産出的でないものは愛ではないという哲学の表明と、考えることができるのかもしれません。しかしにもかかわらずそれは愛のルールであり、かつそのルールは表現であっても制限や否定という意味での規定ではないと。いや、ドゥルーズっぽく仮面の力といってもいいのですが。ラカニアンらしく、持っていないものを与えること、といっても、もちろんOKですが。

 でも、ま、言われないから同じなんですけどね(なきながら)

*1:この章でここでマシュレが提示するのは、いささかトリッキーな区別を導入することです。いや、そこまでトリッキーということは、よく考えればそれほどは、無いはずなのですが、結果としてはそんな印象もなくはない。それは、たとえば本質の連関と現存在の連関して定義されるかもしれません。マシュレによれば、スピノザが本質と現存在の秩序の間に認めた距離は現象と物自体との批判的区別を予告しているというのです。
 それはまた、個別的な本質と個体の区別といってもいいかもしれない。一方で個別的事物は固有な本質をもちます。この本質はそれらの事物それ自体のうちに与えられていて、この本質のただ中に、実体が一定の規定された様態でcerto et determinato modo表現されるとされています。こちらは本質の論理です。他方、個別的事物は、他のあらゆる事物との果てしない外在的連鎖のなかで、現存在する。こちらは現存在の論理です。
 この区別を導入するメリットは何か?確かにこの区別をある程度は導入することで、今回のエントリでも、話を少しすっきりさせることができました。さらに、マシュレは、こうして、なぜ個別的事物が実体それ自体のように必然的に現存在しないのか、いいかえれば、なぜ個別的事物の本質が現存在を包含しないのかが理解できる、といいます。つまり、個別的事物の現存在と本質は、それぞれ完全に異なった仕方で「規定されている」からだと。現存在は他においてin alio、本質は自己においてin se、それぞれ規定される。だから、個別的諸事物が永遠性のうちにではなくて、現れては消える運動−−−つまり、外的な諸関係のたえず変化しつつある運動−−−のうちに現存在するという事実は、それらの事物の本質の永遠性−−−すなわち、自らの存在に固執するという内在的な傾向の永遠性−−−に少しも影響を及ぼさないと。

 もちろん、マシュレも、しかしスピノザにとっては、一方は実体的で無限、他方は様態的で有限というようなふたつの実在の秩序は存在しない。分割不可能な連続した唯一の同じ実在が存在し、この実在は因果律によってのみ規定され、有限者と無限者が分かちがたく結ばれているのであるとは主張しています。ですが、こうした区別の極端化を回収する方向の路線は今ひとつはっきりとせず、このカント的な区別、というより、古式ゆかしい存在と本質の論理にマシュレが魅了され、議論そのものがそちらに回収されてしまうような懸念は無くもないのではないかと思われます。