好きなものリスト

 きわめてしばしば悩まされる疑問、「わたしのどこがすき?」という例のアレ、ありますね。
 このとき、どの個別的条件を挙げても(顔が可愛い、胸が大きい、肌が綺麗ほかもろもろ)怒られる、というのは、みなさまご経験されているとおり。ジジェクが、個別的条件のリストを満たせば恋愛対象になるっちゅうのばパトロジカルなナルシシズムなんちゃうの?とゆってたことも、一部の皆さんにはご存じの通り。
 しかし、もう一つの逃げ道、君の全てが好きだよとか、その手が通用するわけでもない、ということも、これまた皆様ご存じの通り。同じように、何がして欲しいの?というリクエストに対して、居てくれるだけで良いよという手が通用しないことも、これまたご存じの通り。

 ジジェクが言うように、これがヒステリーの「〜でないことの欲望」とするか、あるいはそのヴァリエーションとして、「欲望されることそのものへの恐怖」という強迫神経症的な去勢恐怖と考えるなら、それはそれで仕方のないこと、と諦めてもいいわけですが、それにしてもあなたの隣にいるひとが、「〜でないもの」としてか、あるいは何ら実質的な規定を欠いたものでしかない「存在そのもの」としてしか規定されないというのは、いささか貧しい話っちゃ貧しい話です。たしかに、あなたの隣人の中に「全て」あるいは「永遠」を感じることがあったって良いはずですし(おおむね錯覚ですが)、それが隣人の具体的な個別性をいっさい否定しないものであってもいいはずなのですが、この両方はどういう訳か両立せず、かつどっちを言っても怒られるというこの難しさ。

 今日の話は、もしかしたらその辺に対する、ささやかな救済案へ通じるかもしれないのですが、具体的道筋とまではいきません。というか、具体的にそれを論じはしませんが、でもまあ、そんなことも念頭におきつつ、ピエール・マシュレ「ヘーゲルスピノザか」(鈴木一策、桑田禮彰訳、新評論、1986)の第三章、「属性の問題」を扱っていくことにしましょう。でもなんで属性?てか属性って何?ツンデレ属性とかメイド属性とかそういう奴?っていうかなんで世の中はエロゲからmixiに至るまでキャラ=属性なの?と、果てしなく疑問は広がっていきますが、それはさておくとして、正気に戻って属性。
 その辺の話に関しては、前々回にいちおうの説明をしてありますので、まあその辺を読んで頂ければと思うのですが、要は世界の卵のような、未規定な塊としての実体なる物があったとして、それがみずから分化し、そのことで個体化され現実存在する実在世界を作り出すのだとして、まあ何か出てくればそれは属性をもつことになります。「外部から必然性なしに実体を形容するから空虚な形式」などという言葉も使われていましたね。ヘーゲルにとって、スピノザは依然新プラトン主義的アポリアを克服できていない、つまり、実体がその諸属性へ移行する運動を合理的に正当化できておらず、それゆえ実体が無数の諸属性のなかで自己表現するというテーゼは実在的意義をもたないと考えられていました。というわけで、いちおう「属性」がこの章のトピックになる理由は分かったような気がしてきますね。そして、そのヘーゲルの解釈が正当であるのか否か、等々をめぐって、議論は展開していくことになります。



 じゃあ、ヘーゲルにとって、スピノザの属性はどういう風に見えていたのでしょう?てがかりは、スピノザにとって神は無数の属性をもつけど人間がわかるのは思考と延長というふたつの属性だけ、ということば。なるほど、つまるところそれは人間的限界なのかいなと。ここでのヘーゲルの解釈を支えるのは、スピノザの実体は諸規定の無という深淵であり、属性は外部からそれを理解する悟性に対して現れ自らを示すかぎりでの実体である、という理解によるものだとマシュレは言います(116)。実体はいっさいの規定を拒む不可視の深淵で、そこに何かの属性を見て取れるとしたら、それはそれを理解する悟性にそう映るからだと。これ、何に似ているかと言えば、カントの悟性に決まっています。これはあのあほほど分厚い『エチカ』注解の書を二冊書いた(しかもこれでも未完だった)ゲルーの解釈にもあるとおりです。すなわち、ヘーゲルはカントに影響を受けてスピノザを解釈した、それによれば、属性は実体の本質ではなく単なる形式、つまり現象に過ぎないことになってしまう。つまり、属性は悟性に対して現れる実体であり、悟性は知覚の諸条件そのものに従って実体を限定する。この意味で、悟性の観点から限定された有限な形式である、と。こういうカント的なスピノザを前提としたヘーゲルは、スピノザが一挙に有限な悟性の観点に身を置いたことからこうした問題が生じたのであって、その結果有限な悟性は本性上無限者を捉えようとしたとたんにそれを抽象的本質に還元し破壊してしまう(123)と解釈した。

 なるほど、じゃあ、それ、合ってるの?というところが問題。いやね、スピノザはそげん解釈は前もって禁じていた、とゲルーは述べますが、まあその違いがどうこうという議論は、いったん棚上げして、こういう解釈を行ったことで、ヘーゲルは何の得があったの?というところから切ってみましょう。こういう解釈をしたことで、ヘーゲルにとっては、スピノザは思考を実体としてさえ提示せず属性として提示しているひとのように見えています。でも、ヘーゲルは、思考は「主体になった実体」と考えています。前回のしっぽのところで、とくにことわりなく思考という語を使ったエクスキューズもかねて、ここで改めてヘーゲルにとっての思考とは何かと考えてみますと、まずヘーゲルには、真なるものは実体として一面的に提示されるだけでなく、さらに主体、すなわち運動する全体性としても捉えられねばならないという大前提がありました。そうすると、思考と実在は同一の過程に属するから根本的に統一されていることになります。この統一によって、この過程のうちでは、現実的なものすなわち精神は、それ自身にとってそれ自身の主体になるはずなのです。

 さて、ではスピノザにとっての属性とは、ほんとうにそういうものだったのか。うんにゃ、たしかに属性は悟性が実体について知覚するものであるにせよ、悟性の観点に依存するものではない、まして、無限な理性に対立する有限な悟性という観点に依拠するものではない、とマシュレは言います。たとえば、属性と実体は同一事物に与えられた異なるふたつの名称、イスラエルヤコブのようなものである、と書簡九でスピノザは言っていますが、しかし、これは異なるふたつの名前が属性であり、それらが示す同一で唯一の事物は実体である、という意味ではありません。ちょっと紛らわしいですが、名前Aと名前Bが実体と属性なのです。だから、実体に対して名前A名前Bというふたつの属性があり、その属性は名前を付けた奴の恣意によって切り取られた属性だということにはなっていないのです。
 また、神の属性は神の実体の本質を表現するものであり、すなわち実体に属しているものであるとされており、したがって属性は実体を含んでいなければならないとスピノザは言いますが、これも、諸属性が実体を述語とか名辞とかいう形式で表象する、と解してはいけません。そうではなく、諸属性が実体の具体的存在になっている、という意味で述べられているのであって、属性は自分自身のカテゴリーに従って実体を映し出す悟性の自由意志に左右される現れではない(136)、とマシュレは力説します。

 とはいえ、より重要な説明は、『エチカ』冒頭の諸命題の発生的性格ということになるでしょう。L. Robinsonの業績を踏まえ、ドゥルーズやゲルーは神の現実存在の証明が発生的な性格を持つとしたのですが、それによれば、『エチカ』は神すなわち絶対的に無限な唯一の実体から始まらない(129)、そうではなく、この絶対的に無限な実体は、その実体を形作る諸要素すなわち諸属性そのものから出発して構築される、とされているのです。ここで、新プラトン主義は終わりを告げます。
 こうして、実体はその実在的なプロセスの中に現れ、客観的に発生することになるとマシュレはいいます。すなわち、具体的歴史のただ中にある対象の現実的運動を能動的に表現するのだと。(132)この分析は自己原因という観念にその十分な意義を与えうるものです。ゲルーによれば、自己原因とは、実体がその実体の現実存在の基礎であり構成要素である諸本質から出発して自分を生みだしていく過程にほかならず(132)、したがって、実体が属性より前に位置づけられるというのは自明なことではなく、逆に属性こそ実体の自己生産の条件として実体に先立っている(133)、ということになるのです。これにより、議論の構成そのものがすっかり入れ替わることになります。マシュレから引用しましょう。

「実体を構成しているこの存在充満、この絶対的自己肯定とは、ただただ「一」とか「一者」しか示さないような一なるものという空虚な形式ではない。それは、あらゆる属性を含み、それらの無限性のうちで自らを表現する、無限に多様な実在なのである。この実在は、最初からすでにそうした全体を内に含んでいるような「存在」ではなく、まずなによりも、諸属性が実体の中へと移行し統一され専有されるときの抗しがたい運動なのである。」(142)


 だとするなら、問題は、この諸属性がどうやって実体に移行するか、そしてその実体の中にどう安らいでいるのか、という点になるはずです。

 その時に大事なのは、まず、一つの誤解を避けることです。どんな誤解か?それは、ここでいう属性が、属性の総和によって最終的に全体的体系が合成されるような諸部分として実体の内に共存している、ということではないという点です。(144)実体は諸属性のおのおののうちにそっくりそのまま存在しているのであって、実体と諸属性の関係は部分と全体でもないし、全体とそれを合成している単純な諸要素の関係でもない(145)と。つまり無限の属性を全部足しあわせたら、はい実体のできあがり!ってわけではないよってことですね。もちろん、属性の実体への統一というのも、集団帰郷のような話でもないと。

 そのことによるメリットは何でしょうか?それは属性を規定、そして否定として捉えないですむ、ということです。属性をばらばらに捉えたとしたら、おのおのの属性の本性はそれ以外の属性の本性の欠如によって理解されることになる、というはなしは前にしておきました。〜でないもの、〜でないもの、というかたちで定義されていくことになる、ということですね。つまり属性は否定的に思考される、と。まあしかし、それでは困るやろ、というのがスピノザの立場です。属性の無限性はそれらが互いに対立せず共存する場所である絶対的に無限な神的本性に関連づけて捉えられた場合にのみ積極的に把握されうるのであって(139-140)、神のうちでは諸属性は自己の類において無限な本質として、いかなる否定性をも排除した形で肯定され、実体は逆に諸属性の統一以外のなにものでもないものとされているのです。(140)


 わかった、ほな、〜でない式の勘定の仕方をするものでもなければ、その属性をすべて勘定して足せば実体になるというものでもない、と。ほなしかし、その属性てなんやねん、というところに、疑問は残ります。
 それにたいして、マシュレが読むスピノザはこう答えます。実体は、あらゆる諸属性の無限性のうちで自己表現する、と。だから、属性は他の属性との関係から出発するのではなく、その属性に固有の無限の中で考えねばならないのだと。こうして、この無限性のために、各属性には実体的な性格が付与されることになります。実体は諸属性のおのおののうちにそっくりそのまま存在しているのです、

 これにより、新たなメリットが生じます。それは実体をその本性の実在的複雑さの中でありのままに理解できる、つまり実体の統一を究極まで思考することができるといっていいでしょう。属性は属性を構成し属性によって構成される実体のうちに、一挙に統一されるというその内在的本性によって、他のあらゆる属性と同一的です。つまり、唯一の同じ秩序、同じ結合が、あらゆる属性のただ中で実現されているのです。そして、それぞれ同一的にすべての属性を構成しています。(152)
 この構造化により、マシュレの解釈するスピノザからは、ライプニッツ的な予定調和を介入させる必要がなくなります。思えば、ここまでの解釈を読んだ方の中には、属性を一つのモナドと考えて、それぞれの属性が充全に実体を表現していると考えることも、ここまでの議論では敷衍できなくもなかろうか、と思われた方もあったかと思うのですが、ここにおいて、スピノザライプニッツから離れます。

 スピノザの名高い言葉、「諸観念の秩序および結合は諸事物の秩序および結合と同じものである」も、この流れで解釈されるとマシュレは言います。この定式は、非常にしばしば、思考に依存するものと延長に依存するもののあいだに一致がある、ということを定式化していると考えられてきました。100%理性的に観念が秩序化されればそれは諸事物の秩序とそっくり対応するであろうとか。それが否定されます。なぜなら、諸観念も実体の他の変状と同様に諸事物であるからです。
 したがってこの命題は、一つの属性の元に含まれるもの全体は、それが自己と同一的であるのとまったく同じ仕方で、他のあらゆる諸属性のもとに含まれるものと同一的である、と解釈されねばならないとマシュレは言います。なぜならば、あらゆる属性には、同じ秩序と同じ結合が実現されているのだから。

 こうして、スピノザヘーゲルの論争から、言ってみればヘーゲルの誤解、ないしは誤解したかった理由も含めて、これまで実体、真理(方法という観点から見た、だけど)、属性と扱ってきたわけでした。しかし、これらの諍いの根本にあるものは、究極的には「すべての規定は否定であるomnis determinatio est negatio」という言葉とその解釈をめぐるものとなる、とマシュレは述べます。次回は、その第四章「すべての規定は否定である」を勉強していくことにしましょう。