調子のいい鍛冶屋

 といえば、ヘンデルの名曲。戦前の録音には多く見かける人気曲ですが、いまはどうでしょう?ピアノのお稽古用の教材では、今でも使われているんでしょうか、と聞いたら、ピアノ弾きの友人曰く「あれ結構難しいんだよ」。いわれてみると、まあそうかもしれない。

 まあそんなわけで、前回から、ピエール・マシュレ「ヘーゲルスピノザか」(鈴木一策、桑田禮彰訳、新評論、1986)をあつかっているわけでございますが、今日はその第二章、「幾何学的方法」から。前回同様今回も、この章題にもかかわらず、実質はふたりにとって真理とは何か、という問題を中心にしている、ということは、最初に触れておきましょう。あらかじめ簡単に種明かしとなる部分を紹介しておけば、こういうことになります。真理の問題において、スピノザヘーゲルはもっとも接近したように思われる。ところが、おかしなことにまさにその問題に関して、ヘーゲルスピノザをもっとも激しく論難している。でもよくよく見てみると、その論難で使われている文句は、じつはスピノザデカルト主義者たちに反対して展開した議論とよく似通っている。ということは、スピノザヘーゲルの非難に前もって答えていたことにならないか。それどころか、ヘーゲルスピノザの中に発見したと称する不完全さとは、じつはヘーゲル以上にラディカルであったスピノザ主義の急進性に耐えかねたヘーゲルによる、ある種の引き戻し作業という徴候を見て取るべきではなかろうか、と。(107-108)

 ということは、まずは手っ取り早く問題のイメージをつかんでもらうために、ちょっと長いですがスピノザ本人の一節を引用しましょう。

「鉄を鍛えるためにはハンマーが必要であり、ハンマーを手に入れるためにはそれを作らねばならず、そのためには他のハンマーと他の道具が必要であり、これを有するためにはまた他の道具を要し、このようにして無限に進む。しかしこうした仕方で、人間に鉄を鍛える力がないことを証明しようとしても無駄であろう。事実、人間は、最初には生得の道具を得て、若干のきわめて平易なものを、骨折ってかつ不完全にではあったが作ることができた。そしてそれを作り上げてのち、彼らは他の比較的むずかしいものを、比較的少ない骨折りで比較的完全に作り上げた。こうして次第にもっとも簡単な仕事から道具へ、さらにこの道具から他の仕事と道具へと進んで、彼らはついにあんなに多くの、かつあんなにむずかしいことを、わずかな骨折りで成就するようになった。それと同様に、知性もまた生得の力をもって、自らのために知的道具を作り、これから他の知的行動を果たす新しい力を得、さらにこれらの行動から新しい道具すなわち一層探求を進める能力を得、こうして次第に進んでついには英知の最高峰に達するようになるのである。」(「知性改善論」29頁)

 スピノザのこのたとえは、けっこう好きなのですが、いかがでしょ。そして、それが冒頭のネタにもつながっているわけですが、それはさておき、たとえ話の常として、このはなしも解釈はいろいろな方向から可能です。しかしこの場合、マシュレはこう読んでいます。これはすなわち、認識の企てに先立つ前提などはない、事物を認識するために最初の観念、つまりデカルトの意味での原理は必要ではない、ということを述べているのだと。(71)
 たしかに、デカルト的な方法とは、まずは第一に絶対確実な原理を手に入れ、その確実性を梃子にひとつひとつ進んでいくことになっているはずです。しかし、それはその気になればつねに無限背進を許してしまう。「我思う、『故に我あり』」と我思う・・・以下ループ。個人的には、一つの回路をループしているのならそれは安定しているということであって、大変結構ではないかと思うのですが、世の中的にはそういうことになっていません。ラカンもこのネタを毎年のようにそのセミネールの中でこねくり回し、しかも毎年違ったネタとして展開させていたので、その歴史をつづるだけで論文が一本どころか下手したら本になりそうな勢い、あまりに脱線がひどくなりそうですので、今回はご紹介するのはやめておきましょう。

 では、そうでなければ、この苦境をどうやって切り抜けるのか。懐疑論者のご意見通り、鉄を鍛えることは不可能だ、といってしまうのか。そんな必要はありません。道具は手持ちのその場しのぎの道具の助けを借り、最初はごく不完全だが次第に完全に対象を加工し、必要な機能により適した道具を増やしていきます。
 ここで本筋に戻って、知性にも、それとおなじことが起きています。知性は、まずは手持ちの諸観念を用いて作業し、それが本来の認識であるかのように役立て、それらに可能な結果のすべてを生み出させるようにしなければなりません。(73)だとするならば、認識とは、決して始まりをもつものではなくなります。なぜならつねに既に始まってしまっているからです。(74)そして、知性の用いる道具もまた、それ自体全く別の産物、完成品つまり真の観念を発生させるのとおなじ運動のただ中で、生み出されなければならないのであり、認識は、自分が道具そのものを作り上げたかぎりでしか道具を使用しないのだと。(72)

 以前クリストフォリーニさんのところでちょっとご紹介したように、この特徴は『エチカ』にも生きています。『エチカ』冒頭の諸原理はまだ抽象的な観念、粗末な道具としての小石に過ぎないが、それが実在的な結果を生み出し、出発点において発揮していなかった現勢力を表現し、その意義をもつようになる、とマシュレも述べています。つまり、『エチカ』そのものが認識の実在的なプロセスであり、その前進に応じて自己把握、つまりその発生の現実的運動の中にそれ自身の必然性を構築していくような書物なのだと。(77)

 では、ヘーゲルにとっての真理とはなんだったのでしょう?マシュレの読解によれば、ヘーゲルが論難したのは、数学的な論証のスタイルです。ヘーゲルによれば、それはみずからの対象を構成することはできないやんか?というのです。しなくてもいいじゃん、という気もしないでもありませんが、ヘーゲル先生は、そないなことゆうてるから、結局自分らな、自分の前にまったくできあいのままに見出すような外的所与として、自分の対象があることを前提とするようになるんや、せやさかい、、方法は内容の、あるいは事柄それ自体の実在的な運動にとって無縁なままやと。無縁やったらどないやねん、という気もしますが、せんせいはさらにいいます。だから、数学的な論証はそれ自体としては真と見なされない。適用の水準で立証されるがゆえに真なるものと見なされるだけである。つうことは、方法とはテクノロジーに過ぎんっちゅうこっちゃと。(54)

 しかし、哲学の意味では、真理は内容の自分自身との合致を意味しているはずである、と議論は続きます。何ものかを真に認識することは、外在的な、従って主観的な観点から出発してその何ものかの表象を形成することではなく、その物自身の本性を、その本性を構成する運動のただ中で反省されるがままに展開することなのだ、と。(105)それが、ヘーゲルにいわせれば有限な学と無限な学のちがいということになります。有限な学ではつねに対象は外在的なものと見なすような抽象的な認識を、無限な学では、自分自身が自分自身の内容であり、こうして絶対的なものとして実現されているような具体的な知を対象にするのです。(59)

 あれ?ということは、ここでスピノザヘーゲルは、どちらもとってもご近所さんになったのではないか、とマシュレは見ます。スピノザにとっても同じように、方法は真なるものの明るみに出すための条件ではなく結果であり、方法は認識内容の展開の前に置かれるのではなく、その展開を表現し反省していることになっていました。(65)マシュレ自身の言葉を引用しましょう。「スピノザでは、方法と秩序という観念は、先行する尺度によって形式的に規定されることをやめ、思考の実在的な運動を表現しているのだ。」(68)

 では、どこで二人は別れてしまうのか。マシュレはそれをこう読みとります。スピノザは思考を実体のひとつの属性とすることで、思考の運動を絶対的に客観的なものとして構成し、そのことによって思考の運動は主体への顧慮から解放されている。こうして一切の合理性の基礎にある本質的な原因性が目的論的前提なしに定義される。(88-89)ところが、「ヘーゲルは逆に、実在的なものとして生みだされ、生みだされたとき精神の啓示として現象するいっさいのものを、精神に従属するよう強制する高みから展望して、精神を主体としてかつ全体として考えているのである。諸形式のヒエラルキーを、理性の運動にしっかりとすえる、この従属化が、ヘーゲル目的論の鍵である。まさにこの目的論をスピノザは排除するのだ。」(110-111)それが、スピノザの『倫理学』とヘーゲルの『論理学』の差異であり(77)、本質的に目的論化されたヘーゲルの精神の展開とは逆に、スピノザが構築する認識のプロセスは絶対的に原因的であり、前もって立てられた一切の規範に対して自由であるのだ(79)、と。

 では、スピノザの立場はどういうものなのでしょう?それは、精神の自動機械、という言葉によって表現されるかもしれません。スピノザにとっては、観念は画布の上の無言の画のような、言ってみれば死んだ単なる表象ではありませんでした。どのような観念でも現動的だ、というのです。観念が現働的といわれても困りますがな、という気もしますが、それはこう解釈されます。

「真の観念は、いっさいの外的な手本から独立に、精神の本性に固有の諸法則に従って精神のただ中に形成されるのだ。それゆえ、諸観念の秩序とは、諸観念を現実に生み出す秩序のことである。」(69)


 ここでの要点はみっつです。まず第一に、精神には精神に固有の諸法則があり、ということ。第二に、真の観念はいっさいの外的な事物の模倣というものではなく、それら外部からは独立していると言うこと。第三に、観念は観念を生みだし、さらにいえば観念についての観念を現実に生みだすものである、ということです。

 本来のスピノザの主旨から言えば、この第一の諸法則を明らかにすることに重要な意義があるはずですが、そこはマシュレの論旨の都合上やや手薄です。そこで、手順としては、まずこの第二および第三の部分から説明しましょう。マシュレはこう述べています。

「観念は、どのようなものでも、その原因に従って充全である。すなわち、観念は、その内在的な規定のただ中で、自分を生みだす心の作用する力を表現する。・・・それは、それを実現する労苦すなわち加工労働に取り組んでいる思考の具体的な−−−ほとんど物質的な−−−企てのことである。」(76)


 つまり、観念は、そもそもが画に描いた餅と画そのもののような関係にあるわけではない、外的事物とその表示の関係にあるわけでもない、そうではなく、それを生みだしたなにかの力を表現しているのです。それゆえに、観念は観念へと連鎖する自律的な体系である、ということになります。ラカンを読んでいる人であれば、それがシニフィアンの定義と直接に連結するものであることが分かって頂けると思います。シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象代理する。ここに主体が入るのが、ラカンがヘーゲリアンであったゆえんでもある訳ね、ということになるのですが、今は脇道にそれるのはやめておいて。もちろん、それは言葉尻が、というか言葉のごろが似てるだけだけではないかい、という疑問もありましょうが、「人々が誤って、スピノザにおける汎神論と形容できると考えたもの、それは実は、神の領野をシニフィアンの普遍性へと還元することでした。」(seminaire 11, p. 241)というラカンの言葉を理解するのは、ここを手がかりにするのが一番良いのではないかと思います。

 では、それは何を表現しているのか。それをヘーゲルからラカンの路線であれば、そこに主体をあてたい誘惑に駆られます。しかし、スピノザでは、それは実体です。当然のことですが。マシュレを引用しましょう。

「観念は、その原因に、すなわち、結局は実体に連れ戻されるような様相に従って、自己の内につねに何かを肯定しており、実体は自己の諸属性の一つである思考の形式のただ中で諸観念に表現されるのだ。心とは霊的自動機械である。心は、まったく虚構的な虚構的な仕方の自律性をもつ主体の自由意志に従属するものではないからである。」(94)。

 後半は「主体」のニュアンスを感じてもらうために引用に残しておきましたが、その解説はいったん措いておいて、まずは前半の方に集中しましょう。ここで述べられているのは、真の観念は、その対象に対応している(画と画に描いた餅が対応している)が故に自己の対象にとって充全なのではなく、充全であるが故に、自己の対象に対応している(98)ということです。そもそも、充全とはどういうことなのかといえば、観念を観念自身に結びつける観念の内的原因性、さらには、観念を無限な実体の個別的な肯定作用にしている、すなわち実体の現動にしている内的原因性、を表現している(95-96)ということとされています。そしてまた、それを認識する主体にかんしても、認識の能動的性格は自由な主体の主導権に帰せられはせず、観念それ自体が、実体の無限な原因性を個別的な(singuliere)仕方で表現しているかぎりで、能動的なのだ(100)と述べられています。

 なるほど、こうしてヘーゲルスピノザの出発点と分岐点が見えてきます。両者ともに、なにか絶対に確かな認識の基礎があるはずであり、それは外的な事物に確実に対応しているが故に真理となるはずである、という対応説を否定します。それは、見ている自分と見られている世界の極端な二分化を前提にしていますから。しかし、あるひとつの何かを、マシュレの言いぐさを借りれば小さな小石を、とにかく道具として使ってみることで、自らが認識すべき物そのものがまたその道具の使用によって生みだされていき、ついには一つの世界を構築するに至る。そのとき、世界はその出発点の自己展開ということができ、その本性が何かという問いに対する答えは、その展開によって構築された世界そのものが回答してくれることになるはずです。再度引用すれば、「その物自身の本性を、その本性を構成する運動のただ中で反省されるがままに展開する」(105)ことになるわけです。真理は自分自身と自分の内容との一致にある、つまり、自分自身の展開されていった内実が自分自身に等しいことが真理なのです。その人の真理とはその人の人生である、というと、これはちょっと通俗化しすぎですか。やっぱり撤回しましょう。

 しかし、この展開、観念の観念あるいは概念の内的な自己運動か、その展開についての考え方で、ヘーゲルスピノザには決定的な差異が生まれることになります。

スピノザにとって思考は一つの属性である。すなわち、絶対的に無限である実体の無限な形式、それも思考という類において無限な形式なのである。ヘーゲルとっては、思考は、自己の主体としての精神である。・・・思考の合理的展開は、思考の内にすべての実在性、すべての内容を吸収するがゆえに、思考を絶対的に唯一のものとして発見する。まさにこの思考の排他的な特権をこそ、スピノザの哲学は認めないのである。」(110)


 スピノザにとっては、実体の一つの形式に過ぎない、つまり世界の表現の一形式に過ぎません。そこでは、要素間の階層的従属といういっさいの観念が排除されています。さらにいえば、スピノザは思考を実体のひとつの属性とすることで、思考の運動を絶対的に客観的なものとして構成し、そのことによって思考の運動は主体への顧慮から解放されている。こうして一切の合理性の基礎にある本質的な原因性が目的論的前提なしに定義される(88-89)とマシュレは述べています。しかし、ヘーゲルにとっては、実在的なものとして生みだされた、現象するいっさいのものを、精神に従属するよう強制する高みから展望して、精神を主体としてかつ全体として考えるべきだ、とされているのです。

 マシュレは、このことをヒエラルヒーの排除/肯定、目的論の排除/肯定という言い方で対比させています。これは必ずしも正確ではないかもしれない、とわたくしは思わないではありません。むしろ、問題は主体ということばではないかという気がします。先ほどもちょっと触れたように、主体/客体の極端な二分化がヘーゲルにとっては否定すべきものだった。しかし、そのことは主客渾然たる世界を意味するわけでは全くありません。むしろ、主体そのものを、不在のもの、(マイナスとか、無い、とかいう意味での)否定的なものとして捉えることで、世界の展開の、思考の運動の原因と、というかもちろん、自己原因と、措定することが目標でした。つまり、世界は主体を不在とすることで主体そのものの表現として構成されるのです。ここで、われわれはラカン的なシニフィアンの解釈に近づくことになります。他方、マシュレはこの非在としての主体という側面をやや見落としがちで(とはいえそれらしい言及がないわけではありません、念のため)なにか主体をとても実体的なものとして捉えてしまったようなところがあります。いや、実体としてだけではなく主体としてっていうんだから、そりゃ当然なんじゃないの?という意見もありましょうが。。。とはいえ、マシュレのように「ヘーゲル=ヒエラルキースピノザは階層性がない」みたいにわかりやすく受け取られかねない言葉でまとめてしまうのはちょっとヘーゲルに不公平かもしれません。


 しかし、そう考えると、なんと困ったことに、問題は前回と同様、原因という新プラトン主義的が共通で抱えるアポリアということになります。そういえば、ラカンはこんなことを言っていました。

神は自己原因である、そうスピノザはいいました。うまいこと言ったと思っていたのでしょうか。まあ結局いいんじゃないでしょうか。彼は非常に強い人間でした。自己原因を神に付与したという事実によって、コギトというものの曖昧さを用いて似たような主張をしそうなもの、少なくともある連中の心の中にありそうなものが消散させられたことは確かです。・・・主体とはこうした原因に依存しています。こうした原因は主体を分割させ、それが対象aと呼ばれます。ここで、強調しておくべきことが示されています。主体は自己原因ではありません。主体は喪失の帰結なのであり、喪失の帰結のなかに主体を位置づけなければいけないのです。この喪失が、何が欠如しているのかを知るために、対象aを構築するのです。(1968.1.10)

 これもこのアポリアの回避の一つのやり方です。ですから、やはり難しいのは、この新プラトン主義特有のアポリアを、スピノザがどう回避したのかという点になろうかと思うのです。その点を念頭に置きつつ、次回は、第三章、「属性の問題」を扱っていくことにしましょう。