夏の終わり

 わたくしの住む小さな町では、とあるお祭りが終わるともう秋の始まり、とじいさまばあさまがたがよく話しています。

 まあお年寄りの言うことは聞くもので、季節は一気に秋。今年の夏もああ、何もしなかったわ、という森高千里の名曲が頭の中を駆けめぐりそうな今日この頃ですが、ここは何食わぬ顔で、好評の(なんてことはちっとも無い)スピノザ・シリーズから、ピエール・マシュレ「ヘーゲルスピノザか」(鈴木一策、桑田禮彰訳、新評論、1986)を取り上げましょう。

スピノザが近代哲学の中心に位置するのはたしかで、スピノザ主義にあらずんば哲学にあらず、といった観があります。」(「ヘーゲル哲学史講義」下巻(長谷川宏訳、河出書房新社)、245頁)とヘーゲルが述べていたことは、よく知られています。あらゆることに口を出したヘーゲル先生が、スピノザに口を出していないわけがなく、スピノザにたいする言及はその浩瀚な著作体系のはしばしに見出すことができます。というよりは、シェリングヘルダーリンヘーゲルという3人の巨人がともに過ごした青春の(この時期をモデルに少女漫画を書いたら絶対いいのが書けると思うのですが)、まさに中心的トピックの一つであったとさえいうことができる位置を、スピノザは占めています。じっさい、ヘーゲルシェリングに向けたわるぐちとスピノザにあてたわるぐちとは、言い回しが多くの面で共通します。(マシュレはシェリングについてはほぼ触れていませんが)。つまるところ、スピノザは、それを受容したシェリングはじめドイツの同時代の哲学の一つの象徴であり、それを乗り越えることがヘーゲルの任務でした。まあ、ヘーゲルが星野鉄觔ならスピノザメーテルみたいなもんです。青春の幻影。(いやそれはあっているのか?)

 マシュレの著作の意図は、とってもはっきりしています。まず、マシュレはこう述べます。

ヘーゲルは、自分にとってスピノザが哲学上の特権的な対話者であるとみなしています。しかしまた、ヘーゲルにとってスピノザは反対の立場の代表者でもあります。つまり、かぎりなく親しいものであると同時にかぎりなく縁遠いものでもあるわけです。そして、ヘーゲルは、自分自身の思弁的企てにとりくむ前に、なんとしてもこのスピノザの立場と決着をつけなければならないのです。」(2)


 しかし、ヘーゲルスピノザに取り組み、手っ取り早く片を付けてしまおうとすればするほど、あるいはヘーゲルスピノザの学説が哲学全体にとってもつ重要性を確認し、ヘーゲル固有の哲学的観点に統合しようと努力すればするほど、ヘーゲル自身の企てが試練に掛けられる格好になっている、とマシュレはいいます(1)。それどころか、ヘーゲルスピノザのなかに自分自身の限界を読みとったかのようである。と。その観点からいえばスピノザを読むヘーゲルはなによりもまずヘーゲルを読むスピノザになっている、つまり、ヘーゲルスピノザを批判的に読解しようとすればするほど、逆にスピノザをつうじてヘーゲルの難点が浮き彫りにされていくようである、と。(3)だったら、その路線をもっと突っ走って、スピノザヘーゲルを読んだとしたらどうでしょ?というのが、マシュレのこの本のコンセプトです。そしてマシュレは、ポイントを三つに絞ります。すなわち、ヘーゲルの誤認は1,幾何学的方法、2,属性と実体の関係、3,否定としての規定の位置という三点に関わるものだと。(2)以下、マシュレの記述は第一章で実体を扱ったのちに、第二章、第三章、第四章でそれぞれこの三つのポイントを論じていくことになります。




 ということで、まずは第一章、「スピノザの読者ヘーゲル」を扱ってみましょう。とはいえ、実際には実体論というほうが正確な内容でしょう。この章ではその言葉は使われておらず、ヘーゲル自身の著作からは「東洋的」という言葉をつうじて紹介されていますが、それはヘーゲルによる、スピノザのなかに残る新プラトン主義批判、といってもいいでしょう。もちろん、それが「新プラトン主義的解釈をつうじて広まったドイツロマン派の時期のスピノザ主義批判」でないという保証はありませんが、それはさておいて。

 スタートにあるべきは、全てを包含する一者。すべてはその一者から展開されるものでなければなりません。みずからの外部に何ももたず、かえってその展開、それもその自己展開によってのみ、すべてが叙述され尽くされるもの。ヘーゲルは、そうした立場ととき東洋的なものと呼びました。それは、始まることが目に見える姿をとったもの、神話的なものであるとマシュレは言います。
 では、神話とは何でしょう?神話とは絶対者が最初に自己を肯定する契機であり、こうした始源の一者を肯定するものです。スピノザにおいて、その一者は実体と呼ばれている。しかし、その実体は、主体の個別性を排除する実体のただなかで自己を肯定するものだ、というのが、ヘーゲルの批判となります。(32)どういうことでしょう?なにか始源のものが真であるとしたら、その様態それ自体は真ならざるものであることになります。なぜなら、実体のみが真であり、そして一切はこの実体に帰着させられねばならないはずだからです。(33)
 その証拠に、一切の規定は否定である、という原理をスピノザは立てたのだ、とヘーゲルは言います。純粋で無媒介な存在である一者は、一切の規定された実在性を溶解したものであり、有限者を無限者のなかに消滅させたものであり、個別性や差異をなくしたものである、という方向で解釈されるのです。(34)つまり、何かが実在しているとしたら、それは一者に何かの規定を付け加えたものであり、つまるところそれは一者の何かを否定した結果誕生したに過ぎないものであるということです。それをヘーゲルは、絶対者は単純で塊のような同一性から、実体として肯定され、ついで属性へ、さらに様態へと移行する。この移行こそ、実体の観点を組織立てるものである(39)という風に述べています。

 じゃ、ほな属性ってなに?様態ってなに?ということになると、こうなります。まず、属性とは外部から必然性なしに実体を形容するから空虚な形式であると。そして、無限者は分割され分散し、自己を失って、仮象上複数になる。すなわち、実体から属性への移行とは、絶対者の仮象の生成のことであり、その移行において絶対者はその統一性を細分化された純粋な差異の中で思考しはじめるのだと。(43)いいまわしはややこいですが、要するにそれは、本来規定性を欠いた(という言い方は不正確ですが)原初の実体に、なにか形容詞がつくということです。この形容詞は、それ以外でないものを否定することでのみ成り立っている。つまり、地球が青いなら、それは赤白黄色どの花見ても綺麗だなのもろもろの他の色ではない、というかたちで、他を否定することで成り立っているものです。世に言う「他の誰でもないあなた」というのが、他の全ての人間の否定であるというのとおなじこと。この場合、否定というと日本語の語感ではちょっと強すぎる気もしますが。しかし、問題なのはそのどの部分を否定するのであろうが、それは原初の一者の一部を恣意的に規定したことにしかならず、だからこそただの仮象であり、他にいくらあってもよいことになります。

 そうすると、様態というのは、絶対的外面性という領域でとらえられた実体のことであり、絶対者の自己外在性のことであるとされるようになります。これまた、なんじゃらほい?という感じですが、マシュレはそれを、存在の可変性と偶然性のなかへ自己喪失した絶対者のことであるとしています。(43)つまるところ、いっさいの必然性は一者の存在自体にあるのであって、この一者のそれがどのような形で外化されようが、それは一者マイナスもろもろの多くのもの、というかたちで一者から外在化されるに過ぎず、それはどんなものでも良ければ何の必然性もなく切り出され浮上するものに過ぎない、ということです。新プラトン主義の用語だと下降ですが、堕落と訳しても良い。

「絶対者について純粋に語るということは、翻って、実体ではないものはすべて実在性をほとんどもたないと主張することになる。絶対者が生成することは、絶対者がその最初の完全な状態から遠ざかり衰弱することでしかないのである。」(45)


 うん、割と扱いは悪いですね。というか、世界に実在すると思われるあらゆるものは、この一者の一断面を恣意的かつ偶然的に外面的に切り取っただけのもので、つまるところ一者から流出し堕落し出来が悪くなったものでできあがっているのがこの世界ということになってしまいかねません。
 この種の新プラトン主義が必ず抱える弱点は、もうおなじみ、流出せなならんいわれがない、ということです。最初に自己充実した始源の一者を立ててしまった以上、そこからの流出、堕落が起きる必要はないのです。ヘーゲルはそれを、自分で前進しようとする行く手に自分で乗り越えられない障害をしつらえ行き詰まるという、典型的な流産の試みであると、考えました。つまるところ、スピノザの哲学は「まだ〜ない」の哲学(22)であり、「精神現象学」でいえば「まだ主体でない限りでの実体」の観点(23)の哲学であると。ヘーゲルにとって、絶対的始源から出発して自らを展開するとされる第一概念が認められる、という点にスピノザの魅力はありました(27)が、しかし、ヘーゲルにとって、スピノザの哲学で言われる自己原因とは、能動的な自己反省が欠けた実体でしかありませんでした。ヘーゲルは、真理を予告する徴をスピノザのなかに探求すると同時に、その真理の不在の実在的形式をそこに発見する、すなわち真理の発現に対して立ちはだかり、ただ欠如によってしか真理について語れなくさせる障害物を発見したのです。(25)


 だとすれば、この実体、自己が自己であることを無条件に肯定する、という意味での自己原因とイコールに設定されたスピノザの実体概念からは、この流出の謎が解けないことになります。ついでにいえば、流出とか堕落とか否定的な規定でしか現実性を、実在性を捉えることができないという貧しさにつながってしまうことも。そこで、ヘーゲルが考えたのが、主体、というものです。
 それによれば、この反省によって初めてその実体はそれ自身の過程の中で自由に自己実現できるのです。スピノザがそれを展開できなかったということは、スピノザの実体には自己が自己に対して無関心な抽象的同一性以外のものが含まれていなかったということであって、そのため自己le Soiが自己le soiに実在的に移行する可能性、内在的に運動する可能性をもちえなかったのだと。(29)そのなかにある内在的否定性をとりだし、そこからスピノザを再構築すること。(29-30)それがヘーゲルのプロジェクトということになります。実体としてだけではなく主体として。それはすなわち、この実体の中に、実体が世界の実在を生みだすに至るために必要な、真の意味での自己原因を探り当て、そしてそのことで、ほんとうの意味で実体の自己展開によってのみ世界を説明しようという意図に他なりません。



 それでは、次回は第二章、「幾何学的方法」を扱っていくことにしましょう。