7 叡智から自由な共和国へ

 「われわれは自分が永遠であると感じ、またそれを経験する」(第五部定理23備考)

 この言明の意味を考えるところから、この最後の「道程」は始まります。ちなみにこのすぐ後ろが「精神の目は論証そのもの」という上野先生の著書の題名の出展だったりする。うん、やっぱり大事な箇所なのでしょうね。

 とはいえ、クリストフォリーニさんの面白いところは、これを理解すれば人間共同体内部、そしてそれを貫くスピノザ的賢者の道に従うことが出来るだろう、と述べているところです。あくまで、人間共同体というフィールドが中心なのであって、ひとり静かに神に酔えるもの、ということではないようなのですね。たしかに、この同時期そしてそれ以降の時期に、『神学政治論』そして『国家論』が書かれていることを忘れてはなりません。

 この「永遠感情」は二重かつ非宗教的な読解の鍵だとクリストフォリーニさんはいいます。なんのこっちゃ。いや、説明を聞きましょう。まず第一に、永遠と呼ばれるものはわれわれの本質ないし本性であり、われわれ個々人の生のサイクルの持続とは関係のない科学的法則としてのそれであるはずです。第二に、スピノザが永遠性を云々するときには、そして人間を論じるときには、主語はわれわれであってわたしではありません。つまり、普遍的な人間共同体がそれ固有の永遠性を経験し感じるのだ、とクリストフォリーニさん。なんかちょっと証明としては強引な気もしますが、まあ、とりあえずいいたいことはわかた、という。

 個体性っつうのは関係のネットワークであり、そして人間の個体性つまり個人性というのは、その人間が理性にしたがって生きているのであれば、その身体を超えて広がっている諸関係のネットワークを統御できればできるほど、強められていくことになるはずです。そして、賢者は、人間の個体性の全体にまで潜在的に広がりうる個体性をもちうることになるはずです。ここは、おそらくクリストフォリーニさんの指摘のなかで、もっとも印象的な一節のひとつでしょう。

 でも、理性にしたって生きているものの強められた個体性って、そりゃなんじゃらほい、というかたのためにもう少し詳しく、とクリストフォリーニさん。その本性にしたがって、同じように理性にしたがって生きている人間のあいだにはつねに和合が生まれるはずです。かれらは必然的に良い悪いについて妥当な観念を抱くはず。そして、良いが有用に、悪いが有害に同一視されると、第一種の認識によって騙されないものは、はかない虚構的な有用性しかない事物を追い求めることは止めて、真に有用なものを求めるはずです。真に有用なものは誰のためにもなるはずであり、ということは集団の有用性でもあるはずです。 スピノザは、個人と集団の利益の相互浸透を、アムステルダムの商家の出として、合理的なものと考えていたのでしょう。たとえば、よそ様の商売繁盛は自分にとって障碍ではなく、自分の商売繁盛のチャンスだったはずです。景気高揚。足を引っ張り合ってても仕方がない、という奴ですな。じっさい、世の中幸せな人は幸せを人にお裾分けしてくれようとするので、周囲の人の幸せは祈っておいた方が得策なのです、だいたいの場合。幸せの押し売りはごめんよとか、みみっちいことはいわない。

 とはいえ、いや、そうはいっても人間理性にしたがって生きている奴なんて少数じゃん(いないじゃん、といいたいところですが。個人的な感慨としては。)というかたのために、スピノザは『国家論』のなかで、本人的には個人の力にしたがって行動しても、社会の利益にしたがって生きることになるような制度的技法について論じている、とクリストフォリーニさんはいいます。

 じゃあ、『エチカ』ではどうだったのかというと、第四部定理35と37で理論的な側面が考察されています。

定理35:人間が理性の導きにしたがって生活している限り、かれらは本性上、つねに必然的に一致する
定理37:徳を追求するものは、各自自分のためにつとめてもとめる善を、自分以外の人のためにも欲するであろう。そしてその欲求は、彼に神のより大きな認識があるならば、それだけまた強いものになるだろう

 クリストフォリーニさんはそれを、理性に導かれた人間ほど、人間にとって有益なものはない、というこっちゃで、とまとめます。なぜなら、そういう人物は自分とそして他人の利益を一貫した形で探求してくれるから。自分も入っているところがミソ。これは、ホッブズの「人間は人間にとって狼よ〜」というアレに対する有力な反論です。ホッブズにとっては、出発点はだから万人が万人に対する戦争状態にある、ということで、暴力による死の不安と社会契約がそこから生じることになるのでした。ホッブズはそれを、「人間は人間にとって狼であるHomo homini lupus」「人間は人間にとって神であるHomo homini deus」のふたつの格言によって表しました。他方で、スピノザはその二番目、神の方を、原初の戦争状態仮説を抜きにして、ということはそのままの意味で捉えるというかたちで反論します。人間はその本性のおかげで、そしてその本性がより展開させられる限りで、人間にとって神である、と。

 人間は無限の宇宙のなかのカプセルのようなものです。そして、他の存在とともに、はじめてそれは純粋な力の関係、自然権として知られるそれを維持できるのです。そして、外部に向かっては純粋な力として発揮され、内部に向かっては調和の規則として現れてきます。だからこそ、スピノザ的賢者にとって、自らの完成は政治のなかに見出されます。これは、自己保存の法則と矛盾しない内的傾向を表現するための原動力となる要素としての役割を果たしているのです。これは、人間の知性が神の無限の知性に与る時と同じやり方なのです。上に上げたような、賢者の個体性とネットワークも、そのひとつ。

 ここに、人間の自己保存原則という共通の出発点を持ちながら、スピノザホッブズに反駁しえた理由があります。共同の生を営む基盤となるのは死への恐怖ではなく、孤立への恐怖なのです。そして、その恐怖が非理性的で情念に支配された人間を、集団に有益な行動へと向かわせる原動力となるのです。もっとも、スピノザ先生、あんまりヒューマニストではありませんから、ろくでもない連中からの親切は出来るだけ避けろ、とかいってはいますが、しかし人間のなかにあることを選んだものとして、全く避けろとはいいません。おうおうにして、こういうときの「親切」というのは、権力の側からの申し出というふうにまとめられるものなのです。あれ、さっきの『人の幸福』というはなしとは、ちょっと齟齬を来しますね。わたくし、あまり良いスピノチストではないのかもしれません。。。

 こうして、ここまでの七つの道程は、すべてが自由な共和国へと流れ込む、とクリストフォリーニさんはいいます。しかし、自由ってなに?盗んだバイクで走り出す?いや、茶々は入れないでクリストフォリーニさんの本題ともいうべき話をまじめに聞く。

 まず、スピノザには、ペシミストオプティミストのふたつの側面がある、とクリストフォリーニさんは指摘します。ペシミストというのは、人間の情念のあり方に対してです。しかし、こういうときのスピノザは、単に無学なものの集団について述べているだけと考えると、ちょっとそれは視野が狭い。たしかに『エチカ』や『神学政治論』では、こうした集団はvulgusという風に呼ばれています。民衆と訳されていますが、ニュアンスはもうちょっと軽蔑的。これはのちに、ネグリの概念化で有名になった「マルチチュード」と呼ばれるようになり、そのときこうした軽蔑的なニュアンスはなくなっていくのですが。ともあれ、こうしたわけで、スピノザが権力が無知者の元にある以上心配して当然だ、という具合にペシミストになったとしてもおかしくはありません。
 他方で、オプティミストというのはなんでしょう?それは、一定の限度を超えた抑圧的システムは不可能だ、という点にあります。これは、『神学政治論』のなかで、スピノザアリストテレスの運動理論に依拠していたことをもとに説明されています。くだんの運動理論というのは、ものは自分の本来の場所に向かって動くのであって、その傾向は外部の力によってのみ抑圧されるけれども、その外部の力がなくなればまた元通りその本性にしたがって動く、という理屈です。煙の場所は上にある、というわけで煙は上に動く。屋根があれば上には行けなくなるけれど、屋根がなくなればまた上がっていく、そんな具合といっても良いでしょうか。スピノザはそれを政治に援用します。結局民衆の意図に反するものは暴力的国家であり、長続きしないと。

 そして、ここでも例の三種の認識の話をすれば、第二種の認識が自由な人間を作るのだとすれば、第三種の認識は解放者を作ることになります。これがスピノザにとっての「有用性」の意味であり、『国家論』はこれにしたがって、第三種の認識によって理解された人間本性を元に、そしてつねに経験的に議論を展開させながら、より高度の共通の自由を到達するために権力の乱用をなくすべく組織化された国家形態へと向かっていきます。政治的自由、それがつねに最優先課題であり、そしてこの政治的自由がどういう状態かといえば、それは真の有用性を獲得する方向へと全市民の活動が進んでいくことを可能にしそして促進するような状態ということです。そして、人間本性にもっともよく対応した、完全に理性的な形式、それが自由な共和国である、と。ここが、『エチカ』のゴールであり、そして『神学政治論』および『国家論』というスピノザの展開と、『エチカ』をつなぎめでもあります。


 さて、こうして少々長々と、Paolo Cristofolini, SPINOZA - Chemins dans l'ethique, Presses universitaires de France, 1998.を、めずらしくレジュメというよりパラフレーズ風に紹介してきました。この本の持つ魅力のひとつは、いたって淡々と『エチカ』を7つの視点から要約しつつ、同時にそこにバランス良く、マトゥロンからドゥルーズそしてネグリやバリバールといった、(マトゥロンはともかく他は)ちょっと個性的なスピノザ読解との連携を可能にする芽を植え込んでいる、という点にあるでしょう。そしてまた、こうした恐竜時代の著者達の妙な熱さとは別種の静謐さも、魅力のひとつかもしれません。いや、イタリア語でちゃんと読めば、また違う文体なのかもしれませんが。

 とはいえ、この本で描かれるスピノザは、静謐な古典的スピノザ像とは一致しません。現代は、ネオホッブズ主義の時代と、よく言われます。残念なことに、われわれはそれに対抗する理論を多くは持っていない。しかし、その必要は誰もが感じています。そしてこの書でも、それだけでなくスピノザと政治を扱ったあらゆる書で、ホッブズは、どこかしら悪魔的で魅力的な敵役として登場しており、スピノザホッブズと多くをともにしながら、しかしそのホッブズに抗して共同体のあり方を考えていく者として描かれています。だとするなら、問題は一方ではおそらく現代におけるホッブズをあらためてより深くかつその広がりをしっかりと追っていくことであり、そうしてより真剣で偉大な敵役として設定されたホッブズをふまえた上で、他方では、こうした多くのスピノザ読解の流れを承けつつ、スピノザをさらに読んでいくことかもしれません。

 では、ラカン的観点から、そこに寄与できることがあるとすればなんでしょう?ラカンスピノザの(そしてこのシリーズでも多く取り上げた)「人間の本質は欲望である」を己の金科玉条のひとつにしていたことは、よく知られています。でも、それはどういう意味で?
 そのもっとも有名な箇所は、セミネール第11巻、第20章第3節にあります。ここで彼は、集団虐殺、ナチズムのドラマを取り上げつつ、「暗闇の神々へ生贄の対象を捧げることに抵抗することはほとんど誰もできない」と語ります。

 ・・・生贄とは何を意味しているのでしょう。それは、我々は、私が「暗闇の神」と呼ぶ、あの《他者》の欲望の現前の証拠を、我々の欲望の対象の中に見いだそうとする、ということです。
 これが生贄の永遠の意味です。これには誰も逆らえません。ただし、維持することの極めて困難なあの信、おそらくただ一人のみが満足に定式化することのできた、あの信に突き動かされている場合は別でしょう。その人はスピノザ。かれはこの信を「Amor intellectualis Dei 神への知的愛」という言葉で定式化しました。(seminaire 11, p. 247)

 この言葉の意味については、またゆっくりと考えてみなければなりません。