6 情念から知的愛へ


 ここまでの『道程』で、われわれは自由な人間の形成、すなわちいかにして人は賢くなるかを見てきた、と、クリストフォリーニさんはいいます。とはいえ、自由と賢いこととはいっしょとはかぎらない。ほな、このふたつの語が相互にかつ必然的に含意するところは何なのか、というはなしになります。自由とは情念との関係で登場し、賢さは認識の探求についての文脈で登場する。しかし、その両者は次第に錯綜していきます。この『道程』では、それをさぐろうではないか、とクリストフォリーニさん。
 まず、前節でも論じた三種の認識について、それは下位のものから上位のものへ階梯を上昇していく、というような話ではない、というところから、クリストフォリーニさんは切り出します。これは、知の構成の異なった様態を分節化する目的があってなされたものなのだと。そして、自由な人間というものを組み上げていく上でも、想像力は抑制されていくとかそういうことはなく、つねにアクティブだと。
 他方、第二種と第三種に関しては、前者は法則の学であり、後者は本質の学であるということを見てきました。第三種に関しては、人間本質の認識へ向かいつつ、その基礎にあるのはすべての個体の本質たる自己保存への努力が基盤に見出され、それはまた慣性の法則と一致するものと考えられていた、という点も見てきました。その意味では、第三種の認識もやはり法則の学というべきかもしれませんが、そこにいたるまでの道のりには違いがあります。第三種の認識のケースとは違い、第二種の認識では、法則を知っていてかつそれが適用される対象を知らないまま、ということはありえるからです。ともあれ、こうした種類の違いは方法およびやり方の違いというべきものです。

 では、まず人間的自由の探求を、情念の認識を元に始めてみましょう。そこには三つの原則があります。欲望、喜び、哀しみです。もちろん、これらはみな外的原因を持つ受動的状態に過ぎないわけですから、人間の隷従の条件のはずです。しかし、それがいかにして反対物に転化するのか、それを見ていくことにしましょう。
 まず最初は哀しみから。というのも、これが一番シンプルだからです。その反対物への転化、つまり能動的な哀しみってないから。それはより程度の低い完全性を目指すということで、自己保存の原則に背きます。だから、哀しみはいつでも外的原因からやってくるものです。でも、その含意はもう少し複雑です。例えばその含意のひとつは実践的かつ倫理的です。つまり、好んで酔っぱらった馬鹿とかどうすんの?って奴だとクリストフォリーニさんはいいます。まあ、活動は落ちますわな。あるいは自殺だったら。スピノザはここでも、人間の自由な決断としての自殺は不可能だと考えます。自己破壊は自己保存の原則という人間本性に背くから。いずれにせよそれは外部の原因によるものだとスピノザは考えるのです。さらに、その含意のなかには、原罪というユダヤキリスト教の柱に対する攻撃も含まれています。アダムがみずから堕落することを望んだというのであれば、それもやはり上記の法則に矛盾します。

 他方、喜びはどうでしょう?ここまでの記述では、人間は外的な原因にたいして無力であるかのようですが、しかし自由へいたるチャンスがないわけではないのです。完全性へと向かう動きから生まれた喜びは哀しみよりも強い。言いかえれば、われわれが自らを向上させようとする努力は、われわれの本質たる自己保存の努力とより合致するものだということです。このように、ふたつの欲動が重なり合うところに、受動的喜びから能動的喜びへの変容の鍵が隠されているといってもいいでしょう。喜びも最初は受動的なものですが、しかしそれに対する妥当な観念をかたちづくり、それを手に入れることを望めば、それは能動的なものに変わり得るものです。

 でもそうはいうが、人間は絶対の自然的必然性のなかにあるとされていたのだから、そんななかで能動的であるとはどういうことなのでしょう?スピノザはそういうとき、「妥当な観念」「妥当な原因」という言葉を多用しますが、能動的という言葉はたしかにこの妥当性にふかく関係づけられています。事物にたいして、その本性に合致する観念を抱くことが出来、それを自分で内的に変容させて混乱させてしまうことがなければ、われわれの思惟は現実と合致しており、その観念は妥当であるということが出来ますし、事物の明晰判明かつ妥当な状況が把握されれば、それに向き合うわれわれの態度もまたこの観念と合致するもの以外ではあり得なくなります。そのとき、われわれは自らの行動の妥当な原因となり、われわれの行動は能動的なものになります。それでも人間の自由とは自然によって規定されたリズムとは独立の作用を引き起こすことだ、という考えに固執するものにたいして、スピノザはこういいます。人間の自由は神の自由より小さいものではない、というのも、神は自然と同一視されている以上、法則無しにはあり得ないからです。自然の一部であることを理解した人間にとっては、人間は自由という面で神におよばない、などと位置づけられることはなくなります。

 スピノザにとって、完全性は現実性と同一です。事物は完全性に近づくほど現実性を帯び、喜びは完全性という意味での自己実現となります。哲学の伝統では、人間は世界の中心にあるかあるいは世界の頂点にあるかしますが、スピノザの思想のなかには目的論が存在せず、そしてまた世界の創造者もいない、つまりスピノザの神は世界の創造主ではないがゆえに、人間が世界の中心ということもあり得なければ、また人間が他の動物と比べて完全性が高いということもなくなります。もちろん人間には人間の良さもありますが、それは人間自身にとっての良さという意味でしかありません。馬が人間になっても出世ではなく堕落、なんて例えも出てきました。そして、その完全な実現化、そしてその喜びは、その本性の潜勢力を十全に発揮するところに求められます。ではその十全な展開とは何かといえば、それは自分の目的にあわせてその力を理性的に発揮し、他人との関係を理性的にコントロールできるという点にあります。ここにスピノザの、ホッブズにたいするアンチテーゼがありますが、人間にとって人間ほど有用なものはないからこそ、そういえるのです。

 欲望、それは意識された衝動ですが、それが何故人間の本性であるのか、それは、何にも増して感情のなかにこそ、能動性へといたる理由が含まれているからです。欲望が能動的になるとき、それは感情が自らについての明晰判明な観念と一体化するときのことであり、このとき、欲望は二重の力を手にすることになります。一方では、それ自体肯定的な、元々持っていた自己保存の努力。そして、他方では妥当な観念から得られる力。それらは、われわれの力のコントロールの及ぶところではない、原因の宇宙のなかにある力ではありますが、しかしわれわれのアトム的な言存在のもつ力よりずっと強い、諸原因の総体についての妥当な観念を持っている、ということでもありましょう。だからこそ、それと合致するところから生まれる喜びの力は、哀しみの力より大きいのであり、人間は死ではなく生を思索する生き物となるのです。

 こうして、スピノザは「至福」という観念を持ち出すにいたります。

 それはなんでしょう?何か神秘主義的な法悦なのでしょうか?しかし、スピノザはこの観念によって、神秘主義の対極に立つ、とクリストフォリーニさんはいいます。

 スピノザにとって、喜びや悲しみはより大いなる完全性あるいはその逆へ向かう移行として考えられています。焦点は事実に当たっているのであって、感情に当たっているのではありません。もともと、すべての感情というのは、心的イメージに変換された身体の変容であり、ということは受動的な感情ないし情念は身体と想像力の同時性という含意もあることになります。しかし、受動的情動は感情ですが、能動的情動はそうではありません。それは、能動的になれば身体と魂の喜び苦しみとは縁がなくなるとか、そう言う意味ではなく、知的な能動性とはわれわれの本性と外的事物の本性に対する妥当な観念を構築することにある、ということを意味しています。そして、至福とは事物の総体に対する妥当な観念の所有をさすのであって、幸福感や満足感という感覚をさすものではないのです。

 こうして、われわれは最後に神の知的愛という言葉の簡単な解説ができるところまで到達します。神とは自然であり、すなわち諸原因の無限の総体です。他方、愛はこう定義されます。「外的原因の観念に伴う喜び」そして喜びは完成度が低い方から高い方へ向かうことです。事物の原因を認識すれば、当然完成度も上がる。つまり、われわれの完全性を増大させてくれた外部の原因の原因でもある、ということになるのです。ややこしい。でも、だからこそ、こうした原因の認識は神への知的愛ということになるのです。

 さて、まとめとして第五部の主要ポイントふたつをあげておこう、とクリストフォリーニさんは話を結びます。

 1. われわれは個物をより多く認識するにつれて、神をそれだけ認識する(第五部定理24)


 さて、第三種の認識とは個物の認識である、ということは既に述べました。この認識は同時にまた諸法則の認識でもあり、つまりは諸原因の体系の認識でもあります。ですから、ここで表明されている理論的結論は、至福とも呼ばれる認識の頂点は、絶対者の観照ではなく、諸々の事実、諸々の事物にたいする地道なまなざしであるということです。

 2. きわめておおくのことに有能な身体をもっている人は、その最大部分が永遠であるところの精神を持つ(第五部定理39)


 さて、どういうことでしょう?スピノザにとって永遠なるものとは、身体からの直接的印象によって左右されない、そして普遍的必然的諸法則と適合した観念という性格をもっているはずの思惟ではなかったのかしら。とはいえここで、身体の尊厳は損なわれるのではなくむしろ埋め合わされています。妥当な認識を持つためにはよりよい事物の観察器官を持たねばならず、感覚器官を持たねばなりません。もちろん、それを道具で補うのもおっけー。なにせガリレオと望遠鏡の時代と同じ世紀のひとですからね。しかし、それだけではありません。よりよく組織化された社会に生きていれば、それだけ多くの事物に適合する身体を持つことが出来るはずなのだ、とクリストフォリーニさんはいいます。そこでは、有用な労働が理性的に分配され、それぞれの力能は他のメンバーの力能と統合されていくのですから。

 スピノザにとって、賢明さとは、こうした社会的次元が含まれるものです。それを最後に考察しよう、とクリストフォリーニさんはまとめます。では、それを次回に。