5 神の属性から人間の本質へ

 というわけで、前回は第二種の認識、第三種の認識について話をしてきたのでした。今回は、じゃあそれはどのように使われるものなのか、というところから話を始めよう、と、クリストフォリーニさんはいいます。それは第三部、人間の感情ないし情念について論じた箇所に具体例が挙げられている、と。

 さて、第二の道程でも述べましたように、人間は思惟と延長というわれわれが知ることの出来るふたつの属性の双方をつうじてアプローチできる唯一の対象です。しかし、それがどういう意味かは、この箇所を通じてはじめてわかることになります。

 『エチカ』の第三部は、人間の本質についての妥当な認識に到達するのはどのようにしてなのかを示しています。そして、人間の本質とはある個物の本質なのです。その探究のもといとなるのは身体と精神というふたつの無限の様態で、これは属性と有限な事物のあいだの媒介として機能します。これのみが、直観知の具体例としてスピノザがあげている唯一の例だとクリストフォリーニさんはいいます。無限の知性であれば無限の属性を知り、万物に直観知を持つはずですが、限られたふたつの属性を元にしたとしても、個物の妥当な認識を導くことは出来るはず、たとえば延長の妥当な認識を元に身体の本質の妥当な認識を導くことも出来るはずですが、スピノザはそうはしません。かれが元にするのは共通概念なのです。それゆえに、スピノザは第二種の認識を元に議論を展開させます。

 では、人間の本質はどのように導き出されているのか。それは、『エチカ』第三部の定理2の備考に完全に示されているとクリストフォリーニさんはいいます。ここでは、心的世界と身体的世界は人間のなかで結合され統一されたものとしてではなく、分離されたものとして登場するのです。精神は思惟に属し、身体は延長に属する。相互のあいだに影響はない。そうした影響関係の確かな印は示されていないのです。ダマシオが聞いたら怒りそうな読解です。つうか、スピノザの理論では精神と身体は異なったふたつの属性のふたつの様態であって、この属性の唯一の接点は神のうちにのみあるはず。だから、身体と精神について語っても人間については何も知ったことにはならないのです。精神は身体の観念であり、人間の精神は人間の身体の観念であるといっても、人間という存在の特殊な様態については何も教えてくれることはない、つまるところ、属性という観点からの説明では、このふたつは分離されたまま。たとえ、精神と身体の結びつきがあるじゃないか!といっても、それは人間身体についての観念があります、という以上の意味ではなく、それは他の物体=身体に関してもみんなおなじことが言えるのですから、とくに人間について語っているということにはならないのです。

 だから、人間の本質を語るには別の視点、属性ではなく、それを接触させる神が必要です。いや、でもマルブランシュ的な意味ではなくです。どういうことでしょう?

 まず、スピノザは、すべての個体にとって共通で基本的なとある性格、すなわち、あらゆる事物は自己の存在を保持しようと努める、というはなしをもちだします。かの有名なコナトゥスさまでございます。フランス語だと自己保存へのtendance(傾向)かeffort(努力)か。つまり、人間の精神は単に身体の観念であるだけでなく、この身体を無際限に保持しようとする努力の観念でもあるのです。ここを出発点に、人間本性の認識へあらゆる面から考察が進められることになります。しかし、ポイントはふたつに絞りましょう。
 最初は、身体と精神の、伝統的には静的と考えられていた関係を動的なものとして考えてみることです。ということは、それらをふたつの分離された、あるいは分離可能なものとしてではなく、ひとつの原始的衝動という存在理由から説明するということです。
 二つめは、このコナトゥスを、慣性の法則形而上学的用語による言いかえとしてみることです。こちらのほうは、もう有名ですね。スピノザはたしかにガリレオデカルトそしてガッサンディらの慣性の法則の研究を受け入れ、一般法則として採用しました。

 われわれは、無限の属性と様態から出発し、そしていま、身体と精神との、ひとつの個物のなかでの統一についての内的法則を手にしています。ですから、問題はその特殊性を探っていくことになるはずです。自己保存の努力がすべてに共通な法則であるとしても、その本性が違えばその表現形も違うはず。その差異は本質の差異のはずです。

 人間にとってコナトゥスは、精神という面から見れば、自らの身体の力能を増大させることを意志し、その減少を避けることを意志することであり、身体という面から見れば、それはつねに自己を保存し強化しようとする衝動あるいは本能です。そしてそれは意識されたときには欲望という名で呼ばれます。スピノザは、そこに人間の本質を見て取ったのです。それらは、より完成度を高める方向に向かうときに喜びと呼ばれ、それをもたらす対象が外部にあるときは、その対象に大して愛を抱きます。逆方向に向かえば、つまり完成度が下がる方向に向かえば、それは哀しみであり、その対象が外部にあれば憎しみを抱きます。そんなわけで、スピノザにとっては情念は意外にも単純に非難されるべきものではないということになるのです。他方で、苦痛とか哀しみとかいう感情にはなんらポジティブな意味が与えられていません。北斗の拳の世界だったら夢想転生は使えないタイプです、スピノザせんせい。

 しかし、この意味で、喜びそして欲望そのものは、やはりそれが外部の原因によって引き起こされるものであり、その意味で受動的なものでしかなかったとしても、つねに豊かさの源泉なのであり、それについての明晰判明な認識を得ることが出来れば、受動性という条件はなくなるはずなのです。そのとき、それはもう情念ではなく、能動的感情となることでしょう。情念の源は同時に人間本性を花開かせる必然性の源でもあり、また情念が否定的な方向に向かうことが避けられないとしても、それはやはり同じように慣性の法則という自然の法から説明されるものでもあるのです。なぜって、この法則は、ある必然的な傾向を表現しているからです。どういうことか、というと、つまりあれです、自然な状態においては、いかなる運動も慣性にしたがって無限に動くわけにはいかないですし、同様に人間も外部の原因の優位の元に従属させられている、ということです。こうしてみると、人間本性とは、対象による強化ないし弱体化というプロセスに依拠した情念の集合体であるということができるかもしれません。欲望はしかしその中心にあって、強化へとむかう意識的努力を表しています。むろん場合によっては無知と盲目のなかで破壊へ向かうこともあるのですが。

 『エチカ』の目的は、人間がその感情的生を十全に開花させることのできる道を見つけることにあります。そしてそれは、特に選ばれた人間によってというわけではなく、自由な共和国の市民に広く向けられたものです。人間は情念に従うものであり、受動性はごく一般的な状況です。スピノザはそれを人間の隷従といいました。しかし、スピノザにとっては、この隷従の最初の表現として用いられている無知ということばでさえ、盲目的欲望に駆られる人間ということを意味しているのであって、決して教育がないとか、学問を受けていないということを意味しているわけではありません。われわれをその最大限の集団的自由へと発展させる導いていく道を見つけること、それが個人としては賢者となることであり、このふたつの道が、隷従から自由への道を進むこととなるのです。