4 想像力から学知へ


 さて、ほかの「道程」とちがって、この第四の道程はとっても短く、一部の例外を除いてほぼ『エチカ』第二部定理40備考2に絞ってお送りします、と、クリストフォリーニさん。見事な割り切り具合です。

 というわけで、浅学非才の身としては、まずはてっとりばやくこの備考の内容を思い出しておきましょう。簡単に言うと、ここでは第一種、第二種、第三種の認識が説明されています。第一種のそれは想像(表象imaginatio)あるいは意見(opinio)と呼ばれるたぐいのもので、知性によって秩序づけられていない、経験的な認識やあるいは記号を見聞きしたときの観念とそれに類似した観念から形成されるものです。第二種のそれは事物の特質について妥当な認識を有するところから生まれる認識で、これは理性(ratio)ともよばれます。第三種は直観知(scientia intuitiva)、というわけで、この「道程」の訳として掲げた「学」は、ここにならえば「知」と訳すべきなのですが、この辺は面倒なところ。学知、くらいにしようかと思います。「神のいくつかの属性の形相的本質の妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へ進む」とありますが、さてなんのこっちゃ。そのあとスピノザがひっぱりだしたたとえ話もよくわかりません。ということで、ここをクリストフォリーニさんに教わるのが今回の目的。うん、たしかに一番ややこしいというか謎めいていることで有名なこの第三種のはなしですから、一節まるまる割いてパラフレーズしても十分なところです。
 学知的な認識というからには、普遍概念に到達しなければいけない、そのためにスピノザはこの三種の認識を持ち出した、と、クリストフォリーニさんはまず措定します。最初にまず、曖昧な経験という形でわれわれの知性に提示された個物をもとにして、われわれは普遍を形成します。つまり、なんどか出現した諸事実のあいだの結びつきには、法則による一貫性があるんじゃないかとわれわれは考えてしまう傾向がある、ということです。なんかヒュームっぽい切り口ですね。これはあらゆる迷信の源でもあり、スピノザは「神学政治論」において、こうしたルクレチウス的な宗教というか迷信批判にのっかっている、とクリストフォリーニさんはいいます。うん、ここまではそんなに難しくない。

 しかし、この第一種の認識はふたつに分裂します。たしかに、上でもちょっと触れたように、スピノザは普遍概念は記号を元にして形成されることもある、と述べていました。そして、われわれはそれに類似した観念を形成する。この観念によってわれわれは諸々の事物を想像します。ここでは、想像はまたしてもネガティブなものとして再登場しているわけです。そして、否定的なものとして語られる想像は憶見と同一視されているところが面白い、とクリストフォリーニさん。つまり、ここでは前節で述べたような、想像力がその力能を発揮し、不在のものを表象する力を見せた時ではなく、判断するものとされているときにかぎり、ネガティブなものとして捉えられるということです。ギリシャの伝統ではimaginatioはfantasia、とopinioはdoxaということになりますが、アリストテレスの「霊魂論」以来、これは全く別の話として用いられるふたつの術語です。第一種の認識というのも、ふつうは想像よりは憶見に関連づけられるべきもの。しかし、スピノザはそれを強引にひとつにし、その上で今述べたような違いを出していくことによって、ばかげたファンタジーによって人々をペテンにかける神学者の欺瞞と戦うための道具を手にしたのだ、というのが、クリストフォリーニさんの読解。この辺から、なんかちょっと分からなくなってきますね。みじかいぶんだけ証拠不足な気がしますが、判断は控えて先に進みましょう。

 さて、第二種の認識はというと、第三種と並んで、まず理性があって、そんでもって真偽の区別ができる、ということになっています。そのためには妥当な観念が必要だけれども、想像力のもたらす表象はその役には立たない、というのも、観念の秩序と事物の秩序の対応は、想像力のなかには存在しないからです。それは、たんにわれわれの身体の変容にのみ対応するのですから。これに反して、妥当性っちゅうもんはそもそも、形成された観念の対象が、あらゆる物体=身体と共通の特性を持っているからこそ得られるのです。この共通特性は、すべての身体にも共通なのですから、当然人間の身体の共同体を形成することになります。そうすると、スピノザの理屈では精神の共同体も形成されることになる、自動的に。つまりそれが、すべての人間精神に共通な、共通概念という奴になるのです。身体=物体の共通の自然本性をダイレクトに表現するときこそ、それは必然的に真であるということになり、またその外に真はありません。これが理性的認識の基礎となるものです。

 他方、第二種の認識は理性とも呼ばれておるわけでございます。これは、共通概念と、事物の特性の妥当な認識をもとにした普遍的概念の形成の方法、ということになっております。これはつまるところ、この時代、すなわちガリレオデカルトの科学の時代における科学的知の構成過程を要約しています。つまり、「学知(科学)」は一般法則の定式化をさす、ということです。しかし、デカルトの方法が思惟の自律と、思惟が自分自身にとって透明であることを一方の特徴とし、他方で、世界の外にある神がその最終的な保証人となる、という構成をとったのにたいし、スピノザは諸物体=身体にとって共通なものであり、その本性の内的秩序を構成するものを、確実性の根拠にしているという点に違いがあります。共通概念は徹頭徹尾、事物の秩序から展開されるのです。

 しかし、ここでいまひとつ分からないのは、やはり重要なキーとなる共通概念についての説明まで、ちょいと短くなりすぎているところでしょう。というわけで、ここはそれを補足すべく、ドゥルーズスピノザ 実践の哲学』から「第5章 スピノザの思想的発展」における、共通概念の説明を援用しておくことにしましょう。いや、ドゥルーズで補足して良いの両者のあいだの見解は大きく違ったりしないの?という声もありましょうが、特にこの節ではいくつかの箇所でドゥルーズの言い回しに近い語句が見つかるなど、影響関係は顕著だと言っていいと思います。*1

 ドゥルーズはまず、共通概念をこう説明します。すなわち、個々の事物はそれに特有の関係で組成されているはずですが、ということは、それをつうじて他のものと組み合わさるなにかがなくてはなりません。このとき、共通概念は複数のものの相互のあいだに成り立つ関係の組成についての観念です。ここで、共通概念と本質とを混同してはいけません。共通概念は、あくまで身体=物体の諸関係の組成、あるいはその組成がひとつの単位を構成していることを示しているのです。共通概念とはですから、さまざまな物体=身体が適合を見る一致点の観念だ、ということになります。もうひとつ、これは『スピノザと表現の問題』のほうから補足しておけば、こうした共通概念の形成の基礎がまず想像力にある、ということも、前節との関連で指摘しておくべきことでしょう(第十八章)。

 さて、こうして共通概念は妥当な観念であり、必然的に神の観念へと私たちを導くことになりますが、しかし、神の観念そのものは共通概念ではありません。というのも、神様のほうは単なる諸関係の組成ではなく、組成される諸関係の源だからです。というわけで、ここで神様が果たすべき役割は、第二種の認識から第三種の認識へと移行する橋渡しとなることです。というのも、そこには共通概念に向かう一面と本質へ向かう一面と、両方があるからです。

 ドゥルーズのまとめを借りて、こう表現することも出来るでしょう。共通概念は諸関係の組成をつうじて、適合する身体と関係づけられ、その結果として喜びの変容を引き起こすときに形成される、と。それがもたらす決定的に重要な帰結を二箇所引用しましょう。頁数の参照先はGilles Deleuze, Spinoza, philosophie pratique, Ed. modifiee et augm., Editions de Minuit, 1981.でございます。

「もしわれわれが、自分自身の身体と適合した身体=物体に出会い、その結果われわれに喜びという変状をもたらしたとき、この喜び(すなわちわれわれの活動能力の向上)はわれわれに、ふたつの身体=物体のあいだに共通概念を形成しよう、つまりその両者のあいだの関係を構成し、その構成のなかで両者が一体となっていることを把握しよう、という気を起こさせる。」(160)
「共通概念はひとつの技芸、倫理学そのものの技芸なのである。すなわち、良い出会いを組織し、経験されたもろもろの関係を構成し、力能を養い、実験することである。」(161)

 さて、この引用を最後に、ふたたびクリストフォリーニさんにもどりましょう。クリストフォリーニさんは、事物のあいだの共通性が明晰に知覚される場としての、精神の日常生活、あるいは知的認識、そこには、スピノザにとっては、ある種の自然的な自発性、受動的ではない自己調整ともいうべきものが見出されている、といいますが、その意味は上のドゥルーズの言明をひくとかなりわかりやすくなります。

 こうして、われわれは第三種の認識に到達します。その到達点は普遍性のなかにはありません。この「直観知」なるものは、神の何らかの属性の妥当な認識から発して、個物の本質の妥当な認識に及ぶことから生まれるとされているのです。

 うん、それはすごそうだけど、で、それってなに?ということで、ひとつひとつ検討していきましょう。まず、属性の妥当な認識とはなんでしょう?それは、属性の特性を認識することです。ふむ、ではどうやってそれを手にしたのか?ということになると、そこにたどり着くまでのプロセスは共通概念の時と変わることはありません。しかしその目的とする対象の中身は違います。というのも、共通概念は事物の特性を認識することだったわけですが、他方で、属性を認識することとは、実体としての神を認識することだからです。なぜって、属性とは知性が実体の本質を構成するものとして把握するもののこと、だからです。そしてわれわれは実体を直接に把握することはなく、属性をつうじてのみ把握するからです。この属性の認識はもっとも普遍的なものです。なるほど、ここで、神をなかだちにして第二種と第三種の認識がくるっと置き換わる、ということの意味が見えてきます。共通概念のときには、属性は「何かの本質の一属性を示すもの」という意味においてではなく、何かと何かが共通であることが表現されている、共通であるからには属性はいっしょでなければならないよね、という意味で用いられていましたから。しかし、この共通概念が展開された上で成立した属性からスタートする第三種の認識は、そうした共通概念が十全なかたちで表現している神の実体の認識でもあるはずであり、逆に個物をそこから把握することが出来るはずなのです。それは、少々個人的に勇み足を付け加えて良ければ、かつての新プラトン主義な一なる実体からの流出論的な個物の生成を説く論理から、まず個物のあいだの構成と、そしてそこから構成された「全体化する一」をもたない一としての神、そしてその神の表現たる個物、という順序を踏むようになったのだ、といってもいいかもしれません。

 話を戻しましょう。こうした、もっとも普遍的なかたちで認識された属性を元にしつつも、だからといってそこから別の普遍的認識へと上っていくのではなく、事物の認識へと降りていくこと。それが、第三種の認識の目標です。しかしそれは、事物そのものではなく自分自身の変容を知覚する想像力には不可能な技であり、また一般法則を探求することが目的な第二種の認識のなすところでもありません。個物の本質は直観知の対象とするところなのです。だからこそ、それぞれの持ち分はといえば、第二種が法則の学知を、第三種が本質の学知を、ということになるのだ、そうクリストフォリーニさんはまとめます。