3 身体から想像力の力能へ

 今回、この想像力の議論を以て、クリストフォリーニさんの議論はその真骨頂の一端を示してくれることになります。こうした「スピノザにおける想像力の称揚」という議論は、同郷の先輩ネグリ以来で、もしかしてイタリアの伝統なのかしら、と思ってしまうくらいですが、まあそんな勝手な想像はさておいて議論を追っていきましょう。

 人間の認識が、身体の構造をもとにどう展開していくのか、その道程をたどるのが、この第三節の目的です。

 たしかに、スピノザでなくても、想像力というのはロマン派以前の合理主義的精神のなかでは至って評判が悪い、はず。つまり、ありとあらゆる誤謬と迷信の原因である、という具合です。たしかにスピノザもそんな幹事のことはたくさん言っている。デカルトは言わずもがなです。デカルトにとってはそれでも、いや幾何学を理解するとき図もあった方が便利だからたまには役に立つかな、という具合でしたが、パスカルにとっては理性の的。でもこのとき悪口を言われているのは、同時に身体そのものであることもわすれてはいけません。身体性は誤謬の原因。そもそもが、想像というのはこの当時身体的知覚の表象に過ぎない扱いなわけで、それはまあ、知的認識からは遠そうな気がしてこようというものです。

 スピノザにとってはどうでしょう?スピノザも悪口を言っていたような気もしますが、そうはいっても、たとえば『神学政治論』のなかでは、預言者のえる啓示はいきいきとした想像力の産物とされています。いや、それは啓示そのものの悪口ではなくて?と思われる方もいらっしゃいましょうが、まあそれは追々見ていくこととして。でもすくなくとも『エチカ』のなかでは明らかに批判的に扱われているじゃないか!と思わなくもないのですが、事態はそんな単純でもない、というのがクリストフォリーニさんのおっしゃりよう。かれは、想像力は精神の力能puissanceと力量virtuの源泉だとスピノザは示している、というのです。それは、想像力とは身体を持ったものにしか存在しない、ということに基礎を置いています。ということは、この身体観をめぐる相違が、哲学者たちのご意見の相違の源泉にあるはずでもある、と。

 さて、『エチカ』第二部の要は、第七定義、観念の秩序と連結は事物の秩序と連結と同じである、というくだんの定義だとクリストフォリーニさんはまず第一石を置きます。
 ふつう、この定義は身体=物体と精神の並行論を扱うものだと考えられています。つまり、デカルト的な心身二元論に対抗して、スピノザはふたつの異なった過程が調和する一元論を説いたのだと。たしかに、スピノザデカルト松果体説をぼろくそに言ってることで知られています。『エチカ』第五部序文とか。
 とはいえ、身体と物体は必ずしもイコールじゃないんだから、事物と観念の対応って言ったからって、身体と精神が対応ってことにはならないんじゃないの、という疑問もありましょうが、スピノザは端的に、観念は何らかの事物の観念である、と述べているのであって、両者が分離したところにある観念の世界は存在しない、と述べているに過ぎないとクリストフォリーニさんは考えます。つまり、プラトン的なアレですアレ、イデアとか、あるいはデカルト的な思惟する実体と延長とか。

 でもスピノザにとっては、実体としても様態としても二元性は存在しません。延長という属性から考えられた神=自然は世界の身体=物体性の総体として、思惟という属性から考えられたときは事物の観念の総体として存在します。身体もまた、物体として存していると同時に、感情だったり精神だったりといった思惟可能なもの、つまり観念の対象のなかにも包含されるものです、ということが言われているのです。「たとえばスピノザの哲学を私が考えているとき、この哲学は観念の体系であって身体ではないが、私の観念の対象であり、したがって私の観念の秩序と一致する事物の秩序である。」というのが、クリストフォリーニさんのたとえ。

 クリストフォリーニさんは、ここから精神の本性の説明を開始します。それは実体ではなく、観念の入れ物でもなければ観念を生み出す活動でもない。ごく単純に、ひとつの観念なのだと。もし身体が存するなら、神のなかにはその観念が存する。この観念はその身体の精神である、と。だから、私の精神は私の身体の観念である、ということになるのだと。そしてこの私の精神としての観念が神のうちにあるがゆえに、私の有限な知性は神の無限の知性の一部となるのだと。そして神は内在的であるのだから、神のうちにある観念は事物のうちにもあると。

 まあ、いいよ、百歩譲ってそれを認めるとして、そうすると人間は無数の事物から構成されているわけだから、無数の精神から構成されてるの?ということになります。無数にして単一なの?困りますね(靖国神社は喜ぶかもしれない)。この場合、重要なのはスピノザによる個体の定義で、複数の身体でも相互的に恒常的な関係があればそれは個物を構成する、とされています。つまり、個体の精神というのも、いくつかの不断の交換と継続的変容という自然な変化にさらされつつある個々の身体=物体の集合の観念とされるのです。もちろんこれは外界からの無数の圧力にさらされていて、それに対する反応が身体の情動に、つまりはイメージあるいは表象像になります。「精神は身体の観念であると同様に、われわれのもとに外界の事物が姿を現すよすがとなるイメージは、外界の原因による刺激というかたちでわれわれの身体のなかに生み出される運動の観念である。」(27)こうして、スピノザの言うイメージ、というか想像力の本性を理解する十分な手がかりが得られます。

 スピノザにとって、想像力とは不在の事物あるいは現実に存在していない事物をあるものであるかのように表象する能力です。というと、なんですか夢や幻覚のたぐいですか、ということになりますが(おとしめられますが、とクリストフォリーニさんは言いますが、べつにおとしめてないぞ、と、立場上言わせて頂きましょう)、そんなことはないと。事物との出会いによってわれわれの身体のなかに生み出された変化という観念を示しているのだと。つまり、一方ではわれわれに変化をもたらした外界の事物の影響を知ることであり、また同時にその外界の事物の本質は知らない、ということなのだというのです。ちょっとややこしいですね。

 もちろん、不在の事物を想像する能力がなければ、言語運用にコミュニケーションにも差し障ります。物理的現象の関連性を考えることも出来ませんし、人間共同体で生きていくことも出来ません。だから、不在の事物を想像する能力は人間の悪癖ではないのです。それが第二部定理十七注解で書かれていることだとクリストフォリーニさんは言います。そしてスピノザは、あらゆる個物がまずは想像の対象である、というところまで、話を極論化します。そして、それらを不完全なもの欠陥品として排斥する必要は何ら無いと。むしろそれは精神の力であり、あとはそれを現実の自然本性ないし事物の本質と混同しないために、べつの技芸が必要なだけなのだと。

 まあその話は次の「道程」でお話しすることにして、今は情動的生と想像力の緊密な関係を指摘して話を終えよう、とクリストフォリーニさんはいいます。

 事物のイメージは身体の変状である、それが第三部のテーゼのひとつです。ということは、感情や情念は、身体の変状であると同時に変状の観念でもあります。しかし、感情はつねに情念、つまり受動的なものとは限りません。「われわれはわれわれの感情の揺れ動きについての明晰判明な観念に到達することができ、そしてわれわれ自身を好ましい形に変化させる能動的な主体であり得る。それがスピノザが第三部の終わりで述べたことである。そこでかれはつねに受動的な情念と、能動的になりうる感情のあいだの違いを述べている。」(29-30)ほうほう、大胆です。たとえば第三部定理29では、想像力は人間の社交性の本質的要素であるとされており、他の人々に喜びをもたらすと想像されることは何でもやっちゃうというのも人間の自然的傾向であるとされています。だから、われわれの行動の結果によって集団の向上につながることを想像するということが、理性にしたがって行動することの誘因となるのであり、だからこそスピノザ的な賢者の生活の本質的部分は共同体の生活のなかでの能動的な成員であることなのだと。

 たしかに、『エチカ』第五部の定理20では、神への知的愛は、この愛を育むために人間たちが結合するところを想像したとき、その人間たちが数多くなればなるだけ大きくなるものだとされています。つまり、想像力のもつ力能を賢明に導き発展させることが賢明であるということの意味なのです。それは時間や空間といった多くの境界線を乗り越せさせる力を持ちます。世界が非合理な情念につきまとわれていることを知りつつも、われわれはより完全で、より豊かな人間本性を企図し、それを社会内部に実現させるために力を注ぐことが出来るのです。

 こうして、この道程では、身体性と密接な関係にあるということが弱点ではなく長所であることが示されます。