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 さて、精神療法の業界でも、一昔前、トラウマの現実性をめぐっていろんな議論があったことはよく知られています。
 一方ではそれは紛う方なき現実であると断じ、他方はインチキ学問にとちくるったカウンセラーに吹き込まれた物語を信じ込んでるだけだと断じ、それはまあたいそうな争いになったものでした。まあ100年前にも似たような議論が流行していたとか、そういうことはさておいて、ここにある背景の構造はなんでしょう?

 一方には、病気は人間がかかるものであり、人間は自然の一部であり、自然の一部であるからには自然法則に従うはずであり、自然法則は人間の意志や意図とは無関係に働くものである、という考え方があります。そりゃそうです。わたくしが念じても地球の回転は止まらない。祈っても病気は治らない。しかしもっと大事なのは、主体の意図が入らない証言であればあるほど、信憑性は高い、というよりそれこそが現実だ、という考え方です。この考え方に従うなら、トラウマは、ある一定以上のストレスが掛かればある程度の個体差はあれ誰でも異常反応を起こす、ということになります。逆に、その一定以上のストレスの存在が認められないのであれば、その症状の存在そのものが疑わしいものになってきます。詐病?わがまま?気合いが足りない?

 ということは、その相方は、とても敵対しているように見えてかれらとは実は仲の良い一幅対であることが分かります。その名も構成主義。社会的現実とは、人間の手によって構成されたものである、という考え方です。この考え方にしたがえば、トラウマの現実性というのはさほど問題になりません。問題は何らかの事実をどのようにその主体が構成したのか、そしてその構成の仕方をより良い方向に向けていけば、病は解消するはず。
 などといってしまうのは、構成主義的な見地から心理療法を行っている方から見れば許し難いほどの単純化で、実際の臨床がそんなおおざっぱな概念のもと動いていくわけもないのですが、ここはとりあえず。そうすると、バビンスキーの説得療法から現代の認知行動療法に至るまで、大きく言えば論理的ないし合理的な判断へとクライアントを導いていくことをゴールにするものも、あるいは構成主義のようにそこに他者の承認と共感といったファクターを含めるものも、まとめてグループ化できるから、というだけのための理由で選ばれた、ちょっと大きすぎる枠組みだと思ってください。

 ともあれ、ここにあるのは、一方では自然法則は超越的であり、われわれはそれを発見し利用することはできてもそれを構成することはない、という信念であり、他方ではそれと対になって、社会に関してはわれわれは大きなコントロール能力を持っていて、それをかなりの自由度を持って構成できるという信念です。
そうすると、精神薬理学が作用を及ぼすことからも分かるように自然の側に位置づけることもでき、しかし精神と言うからには社会的なもののようにも思われる心という問題に関しては、時としてグレーゾーンが生まれてしまう、ということになります。現実には、カウンセラーさんたちは医師の精神薬理学的な指示と連携しつつ、この境界線を上手に見定めているわけですが、とりあえず構造的にはこの両極、自然と社会、人間をコントロールするものと人間がコントロールするもの、という枠があることは確かです。



 ということは、この枠自体を何とかしないと、実際のところを描くことはできないかもしれない、という疑念が湧いてきます。今回取り上げる、ブルーノ・ラトゥール「虚構の近代 科学人類学は警告する」(川村久美子訳、新評論、2008)は、そういった問題に対して、大きな示唆を与えてくれます。いや、くれるかもしれない。この訳書は英語版を元にしたということで、わたくしの手元にあるフランス語版には載っていない増補箇所がかなりありますが、こうした増補と、それから数多く付された訳注のおかげで、だいぶ読みやすいものになっています。微妙に哲学系の訳語の選択に関してはちょっとという箇所もありますが(少なくともジローばっかりはジラールになおした方がいいような気がする)、全体としては訳者の川村先生と、それからもしかしたら編集さん(最近こういう風に訳注やレイアウトの充実した訳書が多くなりましたが、かなりの場合編集さんががんばってくれています)の努力で、特に科学史的な面に関しては十分なサポートを得つつ読み進めていくことができます。


 さて、虚構の近代。ちょっと大きく振りかぶって、という感じですが、これ、原題を強いて訳すと「われわれはけっして近代的であったことはなかった」ですから、テーマになっているのは近代である、ということはよく分かります。で、近代って何?

 ラトゥールは、ボイルの真空実験をめぐる、ボイルとホッブズの議論を踏まえながら(そういえばスピノザもこの話にちょっと噛んでいますね)、このように話をまとめます。まず、第一に、自然を社会とは一線を画したものとし、それによって自然の超越性を裏付ける。第二に、市民を完全に自由にし、社会を人工的に再構築するよう促す、つまり社会の内在性を裏付ける。(これを内在的と言っていいのかは正直疑問ですがまあラトゥールはそういう言葉を使っています)。そして、第三に、権力の分離を実現する、つまり自然と社会は互いに接触を持たないことにする、と。

 こういう分離の手続きを、ラトゥールは純化といいます。この純化は、当然のことながら、ふたつの方向で進められました。まず、ボイルらは、自然を作るのは人間ではなく、われわれは自然の秘密を暴いているに過ぎず、訓練を受けた忠誠心あふれる科学の代理人が無言の物体に語らせていると宣言します。こうして、事実は人間の創作活動から完全に離脱していくことになります。他方で、ホッブズらは、なんといってもかれはあの人工社会身体リヴァイアサン(ちょっとかっこよくない?)を提唱した人間ですから、人間だけが社会を構成し自分の運命を定めるとしています。実際にはそれはさまざまなモノを動員するからこそ堅固なものになるはず、なのですが、なにはともあれそれはただ理性の力だけで構築されたモノとされています。つまるところ、近代の実践というのは、すべてをこの二種類の純粋形のなんらかのブレンドと定義したうえで、それを分割して純粋形を取り出し、そのあとで、それらがどう仲介され統合されていったのかを描くのだと。冒頭に話をした、精神療法に関しても、綺麗におなじことが言えることはおわかりかと思います。

 もちろん、この作戦にはひとつの懸念がつきまといます。それは、近代的懐疑といってもいいような代物です。科学者が語るとき、かれらはモノの名において、ものの代理人として話をしている。君主が語るとき、君主は市民全体の代表として語っている。でも、もしそれぞれが自分について、自分の利害について語りはじめたらどうなるでしょう?前者の場合自然は失われ、ただの人間同士の論争に後退してしまいますし、後者の場合、自然状態へ逆戻りし万人の万人に対する闘争が再開されるはず。この二重の疑惑の解消不能性が近代の懐疑であって、それぞれはこの疑惑を払拭すべく、日々精進に努めるはずです。前者は大変熱心にそうなさっていること疑いないが、しかし後者がその努力をしているところを見たことがない、というツッコミはさておいて。


 ですが、この懸念はある二重の戦略によって回避されます。一方で、われわれは自然の超越性、すなわち自然法則を前にしてわれわれは無力である、と説き、他方で自然の内在性、つまり、われわれは無限の可能性を持つ、と説きます。社会に関しても、一方で社会の内在性、すなわち、われわれは完全に自由であると説き、他方で、社会の超越性、すなわち、社会のルールを前にわれわれは無力である、と説きます。このことで、自然に関しては、自然の超越性を維持しながらも自然を動員し、人間化、社会化することができ、他方、社会は私たちが創作したものであるはずなのに、われわれを離れて持続し、われわれを支配し、結果として自然に似た超越性を持つそれ自身の法則を有するもとのされるのです。ラトゥールの小咄を使うと、われわれは社会を意のままに作ることができるのかという問いには、社会の鉄の法則があると答え、ほな社会ちゅうのはその鉄の法則に従って動く機械かといえば、いや全ては神に帰属し神が人間に全てを与えたと答え、ちょっとまて社会ってのは神さんから解放された、世俗的なものではないのかと問えば、いやいや精神性は解放されているからと答えると。

 最後の神さんに関する理屈はちょっと面白いところで、ラトゥールはこれを「半ば抹消された神」という奇妙な名で呼んでいます。16世紀の宗教革命と、17世紀の科学的事実と市民の同時的登場により、神学上の主題は再編され、神の超越性と内在性を同時に取り込むことが可能になったというのです。どういうことでしょう?それは、万能の神が降臨し、人々の心の中の心に語りかける、という意味だとされています。つまり、神は不在であるが、そのことは人々が心の中で神にこっそり救いを求めることを妨げず、神様は精神の中でのみ効果的に救済をさしのべるのだと。ラトゥールの持論によれば、半ば抹消された神は仲裁作用を提供するという意味で、二元論的メカニズムを安定させるといいますが、これにはまだわたくし、今ひとつ説得力を感じていません。しかし、強いて言うなら、最初にマクラで振った、精神医学と精神療法の境界線、というか縄張りの線引きが可能なのは、この神さんの存在のおかげで精神性の自由というものが確保されることが広く認められているからだ、というのであれば、それは納得のいくところです。

 この二重の戦略は、たとえば社会学者の二重視の中にも生きています。かれらにとっては、一方では、モノは意味を持たず、社会の映像を投影するスクリーンとしてだけ利用されるものです。ほら、モノは記号であって、それ自体の固有性は別段意味がなく、社会的価値が反映されてそう見えるだけのモノだという、あれです。しかし、他方では、モノは人間社会を形作るほど強力なモノであるとされたりもします。ほら、技術決定論とか、そういう議論がありますよね。どっちなの?という。同じような議論をラトゥールは哲学に関しても適用しています。例えば、実在するが無定型の物質に人間精神は思いのままに形を与えることができる、という点にカント的定式は生きている、という風に。このあと、じつは弁証法ポストモダン言語学的転回等々にもその議論は応用されますが、ここはいったん措きましょう。



 ともあれ、こうした「純化」のプロセスが近代を彩ります。純化によって、存在論的に独立した領域、人間と非人間の領域が生みだすこと、これが近代論者の立場を表すものであるとラトゥールは考えます。しかし、それってほんまか?それだけか?とラトゥールは問います。

「もし私たちが近代に一度も足を踏み入れたことがないのだとすればどうなのか−−−比較人類学が可能になるのである。そしてネットワークがしかるべき場所を得ることになる。」(26)

 まあそれはいいけど、じゃあなんで足を踏み入れたことがないってことになってるの?というところから、次回に。