支払いの自由

 ここまで二回、クロソウスキーの「生きた貨幣」を見てきました。
 クロソウスキーせんせいの夢は、内的倒錯がそのまま交換のエコノミーに乗って流通していく可能性、に賭けられていました。交換、それはとてもセクシーなものです。
 そのための基本方針はこうなるでしょう。


「経済的主体が「統一性」として振る舞うことをやめ、自分自身の「解体」を手中におさめ、みずからの対象物を製造するというあらゆる情感が持つ能力だけにしたがって自分を再構成するということになりさえすれば、情感能力のかずかずは、同じ数の製造物となって開花するだろうということ−このことを主体は見ようとしない。」(89-90)
 さらにいえば、ここでのクロソウスキーの交換にたいする偏愛は注目に値します。製造だけではいけないのですね。交換が必要。贈与じゃないあたり微妙に愛がない気もしますが、そういう軽口はやめましょう。だからこその経済的主体です。なぜなら、ここで、倒錯的ファンタスムはそれ自体としては理解不可能であり、交換不可能であるがゆえに、倒錯的ファンタスムはそこに普遍的に理解可能な等価物を構成する必要があるからです。そこには二つの機能が想定されます。第一に金銭のファンタスム的機能。自分を売ったり買ったりすることで、通貨がさまざまなパートナーの間で倒錯性を外在化させる、という意味での自己の売買です。第二に反規範性の閉じた世界と制度的規範の世界の媒介、とクロソウスキーは述べます。

 ここでは、クロソウスキーにならって、生きた貨幣と産業的奴隷(映画スター、アイドル、等々が列挙されていますが)とを対置してみるとわかりやすいでしょう。産業的奴隷は自分自身が受け取る支払いと、自分から見た自分自身の価値との間に区別を設けています。お仕事とプライベートの区別。プライベートの私、が持つささやかでちっぽけな幸福。その限りで、記号としての資格を要求することはできなくなるのです。むしろそのことによって、おのれを記号として、貨幣として構成する、生きた貨幣になるどころか、かえって悪いことに、生命のない貨幣に実直に従属しなければならない(139-140)立場に追い込まれるのです。
 彼は給与を受け取る受け取らないも自由であり、人間の尊厳は手つかずに残されている(141-2)。いいことじゃないか?いえ、その留保のために、かえってそこに従属しなければいけなくなるのです。ちょっと考えればわかりますが、今度はその「にんげんの尊厳」とやらを受け取り続けるために、給料を受け取り続けなくてはならなくなるからです。主人と奴隷の弁証法のパロディーみたいな話ですね。人間、小銭を儲けたつもりで大金をなくしている、というのはままあることです。
 おもしろいのは、これは、精神分析風にいえば欲望の距離、とでもいうべきものの無化に近いものであるといえることでしょう。われわれは、なんらかの象徴的な役割を引き受けると同時に、内面の秘密を想像的に抱えます。バタイユを批判したドゥルーズ風にいえば、上に司祭のまなざし、下にちっぽけな秘密。クロソウスキーの描く産業奴隷の、支払いと価値の区別はそれによく似ています。
 逆に、生きた貨幣となった産業的奴隷は、価値の記号という資格を、つまり欲求の満足ではなく、原初的倒錯の直接的満足に対応する財という資格を引き受け、富を保証する記号、その富そのものとしての価値をもつものです。しかし富としてはおのれが体現する要求以外のあらゆる要求を排除する富であり、記号としては本来の意味での満足も排除する記号である(139)、とクロソウスキーはいいます。
 おそらく、この意味での記号に対応するものがあるとすれば、アントナン・アルトーの「残酷演劇」における記号でしょう。このことは、また別に論じなければなりません。

 さて、ここでのクロソウスキーの文脈に一番近いところで、ラカンはこう語っています。


「倒錯は社会を扇動する要素をもちこみ、神経症は文化の新しい要素の創造を利用し、こうして円環は閉じるのです。」(seminaire8, p.43)
 精神分析において、あの「天引きされた」ところ、本能と欲動を分かつマイナス部分。ラカンなら、余白margeといったもの。これはなんと呼ばれているでしょう?そう、モノ、もの自体、la choseです。しかし、ものChoseというその基盤へのアクセスを与えてくれる媒介、こうした限りで、この媒介とは一つのシニフィアンに過ぎない、ともラカンはいいます。そのよい例が、ラカンにとって昇華の典型例であった宮廷愛の、愛の対象たる貴婦人。これはもうラカンにとって「生きた主体を一つのシニフィアンに同一化させること」(1962.3.14)に過ぎません。

 「昇華の出発点は欠如であり、この欠如の助けを借りて、昇華によって作品が作られるのです。作品とは常にこの欠如の再生産なのです。」(1967.3.8)
 ラカンはそういいます。ですから、生きた主体をひとつのシニフィアンに同一化させる、ということもまた、そのこころみの一環に過ぎません。ラカンは時として、このもの自体のことを空胞、と呼びました。組織学から借用した言葉です。それはシニフィアンのシステムの中心においてあり、そして、この空胞をまるで伝言ゲームのように伝え、引き渡していくことを、コミュニケーションを定義しうるものかもしれない、と夢想します。(sem7, p.179)そして、それが「我々は昇華と呼んでいるこの空虚の見かけ上の洗練化が産み出されるということ」(1959.6.24)なのです。ここでは、この空胞もまた、クロソウスキーの夢と同じように、交換される対象であることに着目するべきでしょう。生きた貨幣ではなく、生きた主体をひとつのシニフィアンヘ、という夢。

「こうしたシニフィアン的な素材の中で欲望の行き詰まりを転換していくこと、ここにこそ我々は昇華の過程を位置づけなければなりません。」(1959.6.24)
 交換、であるからには、その普遍的な《他者》が必要です。そして他者にあってはこの空胞は《他者》の欲望、その謎と呼ばれます。「その機能を示さないようにするために、われわれは必然的に、現実性の中にはっきりと象徴化されたものの中にしか、自分の位置を見つけようとしなくなるのです。既存の現実性、つまり社会的文脈です。」(1959.7.1)なぜなら、この謎、それは相手から自分に交換のために差し向けられたモノであるという時点で、自分に向けられた謎となり、さらにいえば自分の中にある名づけ得ぬ何かをその他者が知り、その精神を犯し、享楽しているという幻想的な恐怖でもあるからです。「神経症者にとっては、知とは知を想定された主体の享楽です。だからこそ神経症者は昇華できないのです。」(1969.6.4)

 しかし、実際には、知を想定された主体はおらず、そこには空虚があるばかりであり、だからこそわたしはそこに自分自身を記さねばならない。強いて言えば、転移の解消という文脈での昇華の運動はそう位置づけられます。


「昇華とは、知を想定された主体が還元されていく先を熟知しているものの特性です。芸術の創造のすべては享楽とは区別されたものとしての、この知の中に残される還元不能なものを取り囲むことに位置づけられます。しかし何かがその試みを記しています。主体の中で、永久に、その十全な実現が何故不適応に終わってしまうかを、それが示している、という意味で。」(1969.6.4)
 こうして、この空胞の伝言ゲームに参加するということで、「昇華とは、論理的な主体のレベルにあるもので、そしてここにおいて、ロゴスの秩序の中での創造者の仕事と呼ばれるにふさわしい仕事の全てが展開され、設立され、制度化されるのです。」(1959.7.1)ということになるのです。

精神分析の仕事は、昇華として自己を無化しながら繰り返されるのです。」(1968.3.20)
 しかし、ここで意外なお知らせをしなければいけません。
 じつは、昇華という語は、1970年代にはいると、さっぱり使われない語になります。もちろんラカンにとって。sublimeという言葉、直訳すれば崇高ですが、これが場合によっては昇華と訳せないこともない、あるいはsublimerという動詞の活用形は見られなくもない、のですが。なにはともあれまるっとsublimationと出てくるケースはわたしの知る限りほぼなくなります。
 しかし、精神分析にとって昇華という概念はとても大事で、それがさっぱり使われなくなってしまうとはわたしには思えません。だとするなら、それはどこかべつな文脈に回収されたのでなければならないことになる。
 で、それは「見せかけsemblant」ではないのかなあ、と思うのですが、それはまた別の話。