死に金使い

 クロソウスキーせんせい曰く、欲動の動きが商業的性格を持っているということ。ホンマかいな、と誰でも思います。欲動って世知辛い現実原則の跋扈する市場とはいちばん遠そうじゃん、と。ですがこれはフロイトの昇華論を思い出させます。フロイトはいいました。昇華といったって、売れなきゃダメだから。ちなみに、ラカンはここを結構重視していました。

「芸術作品は、フロイトがそれを把握したレベルでは、彼自身それ以外には把握しようがなかったわけですが、市場価値以外の形では現れ得ないものです。それはなにがしかの価格を持つものなのです。間違いなくある特別の価格ということでしょうが、しかし、市場に出てしまえば他の価格とは別に区別できません。アクセントがおかれているのは、この価格ということですが、芸術作品はそれを、価値との特別な関係から受け取ります。この関係とは、私のディスクールの中ではそれを享楽として切り出されています。」(1969.3.26)

ちなみにわれらがプチブルラカン先生は結構なコレクターだったそうです。。。

 問題は、この市場の重視というフロイトの直観をどう理解するかということ。端的に、売れるとか人に受け入れられるという意味なのか。堂もそれだけではなさそうです。そうすると、そのことは同時に、売られ、交換されるということにたいしても、何か違った考え方を持ち込む必要を感じさせるものです。ここにおいて、クロソウスキーの生きた貨幣とラカンの昇華という問題圏は重なってきます。

 個人的には、クロソウスキーのいう意味でのシミュラークルにも、フロイトの昇華論の強い影響があるような気がします。(あとで触れますがさらには「見せかけ」semblantの話とも。)フロイトが否定するのは、昇華は抑圧ではないということです。抑圧、それは当然のことながら、抑圧されたものの回帰でもあります。ですから、たとえばある人の創作活動を、抑圧だと捉えることも可能です。何かの抑圧されたエネルギーが芸術に、あるいはスポーツに向かう。学校的施策ですね。

 でも、とある芸術家の創作活動があったとして、その作品を抑圧と捉えるのか、あるいは昇華と捉えるのか、このちがいはものすごく微妙であり、困難なことです。そして、フロイトはとりあえずそこに市場というものを持ち込みました。クロソウスキーはおそらく交換を。ですが、その市場や交換がわれわれの普通に使う意味でだけ解釈されたのならば、あんまり発展性のあることにはなりません。だからこそ、クロソウスキーにとってのこの問題をこの本を通じてある程度クリアにできれば、昇華という問題を解決する上で大きな助けになるかもしれない、という、いつもながらに手前勝手な方向から読んでみましょう。


「しかし、われわれのまえにある諸力は、下部構造の数々から副次構造の数々にわたって同じ戦いを繰り広げるような諸力である。したがって、それら諸力が最初はとくに経済的諸規範にしたがって現出するのだとしても、それら諸力はおのずから、自分自身を抑圧する仕組みを作りだし、そして同時に、自分がさまざまなレベルで受ける抑圧を破壊する手段をも作りだすのである。」(26)
 さしあたり、これがクロソウスキーのいう基体suppôtになります。絡み合う欲動の諸力。欲動はここでは、本能から「天引き」された(ちょっと言語が分からないのですが、もしもprélèvementであったとしたら、これはそのままseminare11, p.66のラカンの用語の借用ではないかという気さえします)かたちで取り分けられた力です。面白いのは、さしあたりたとえば欲動を身体に、抑圧を社会的規範に、などといったような階層わけをしないところ。このあたりは、以前の「ニーチェと悪循環」と変わりません。しかし、この欲動の一元性をキープしながら、同時に、抑圧という問題を無視しもしないところが美点でもありましょう。

「衝動の最初の抑圧が、基体の生理的・心理的統一性を形成する。」(28)
「この戦いは、基体の個体的統一性が、欲求のヒエラルキーに翻訳された価値のヒエラルキーのなかに組みこまれ、それによって限定されたときから、外部においても継続される。」(28)
 つまるところ、この諸力のなかでいちばん強かった奴が他の奴らの上にのしかかって抑圧する力となり、その抑圧が統一性uniteを形成します。しかし、このヒエラルヒーはそれ自体で完全に安定するものではないのかもしれません。それは外部の価値のヒエラルキーの中に組みこまれ、継続利用されることで安定します。結果

「個人にとっては、みずからの情動的営為の諸運動によってみずからの力を発揮することは許されていないのだ。統一性を所有する者としての個人が、その力を発揮するのは、自分の外部にある財を所有し、それを蓄え、さらに他の財を生産し、消費のためにそれを与え、それを受け取ることの能力によってである。」(28-30)
 さて、このような統一性は、内的にはファンタスムによって維持されます。その素材は欲動。それを加工して生まれたその産物としてのファンタスムです。欲動は以降、このファンタスムを通じて機能することになりますし、またこのファンタスムを経由することで、ファンタスムそのものに情動的な価値を高く与えることになります。

「ある個人の統一性は・・・いわばファンタスムと交換されたものなのである。統一性はファンタスムの束縛のもとで、はじめてみずからを維持するのだから。」(33)
 しかし、このファンタスムは先ほども述べたように、純粋に生体としての閉じた主体の圏内にだけあるものではなく、その他の諸々の力の構想のただ中から、そのつかの間のヒエラルヒーによって生まれた主体の内部にあるものです。ですから、このファンタスムを形成する過程の中には、容易に生体外部の諸力が入り込んできます。

「産業は、個人的なファンタスムのかずかずの生成過程に介入し、それらファンタスムを産業自体の諸目的に向かうように方向をかえ、それらを本来の場所から追放し、それを制度そのものの利害のなかに散逸させるのだ。」(40)
 この産業の介入の仕方はさまざまに異なります。
 手工業的世界では暗示の諸手段を通して。そこで、暗示された情欲は貴重品として流通するものとなります。価値はどんな感情を体験しうるかではなく、暗示の手段によって獲得される魅力が唯一無二の性格を持つことから与えられる、暗示された対象物との接触によって体験できるようになった感覚よりも、暗示そのものが高い価値を。(39-40)
 工業社会の体制は、暗示の機械化された諸手段を規格化するもの。ここでは暗示そのものは無価値なものになり、体験可能な感覚が、それについて暗示されたイメージよりも高い価値をもつという完全な逆転が起きます。(40)たとえていえばわれわれは泣きたいから泣ける映画を泣こうと決意して見に行くのであり、あるいはメディアの流す情報は情報そのものの価値よりはそこで得られる感覚(それもだいたいは「むかつく」でしかないような気もしますが)が真の対象となる、そんな感じでしょうか。
 ですから、産業はこうした道具的・興行的対象物の製造によって欲動の力を無力化するのではなく、逆にその諸規範によって欲動の力のファンタスム的表象をかき立てるものなのだ、とクロソウスキーはいいます(61-2)。道具による操作は、手作業の圏域を離れ、手や耳や目を解放し、同時にそれらの諸力を解放する。そのことで、これら諸力は身体的作用因に対して見せていた様相を棄て、道具的倒錯の力となるのだ、と。(62)そして、この倒錯の側からの報復は個人の統一性が消失し、状況に応じて肥大化する欲求の複合体がそれにとって代わる(75)ことによって果たされるのだと。

 では、これは産業社会にたいする異議申し立てであり、お説教なのでしょうか。そうではありません。クロソウスキーはそれを内的倒錯−統一性の解体か、それとも統一性の内的確立−外的倒錯か(98)、という、べつにどっちに転んだっていいことのないジレンマであると指摘します。そう、内的倒錯は統一性の解体、個人の統一性の消失をもたらします。ですが、統一性を内的に確立することは、上述の「外部にある財を所有し、それを蓄え、さらに他の財を生産し、消費のためにそれを与え、それを受け取ること」という、これもまた倒錯的な結果だけをもたらします。それをクロソウスキーはこう表現しています。


「きみみずから確立することなしに快楽を味わえ、さもなければ快楽を味わうことなく、ただ生存しつづけるためだけに、きみみずからを確立せよ。」(78/9)
 ここで、クロソウスキーの選択は、内的倒錯への同意であり、さらにいえばその洗練化です。

「欲望とその対象物の生産とのあいだに、みずからの諸衝動との相関において理性的=合理的にうち立てられた経済学という形で、調和が組織されることになるだろう。つまり、労力の無償性と非理性的なるものの価格とが、相互に釣り合うことになるだろう。」(99)
 そう、ですから、生きた貨幣とはそのための論理なのです。では、どうやって?

 次回は、そのあたりから見ていきましょう。