使用価値

 先日、女性の身体イメージを拒食を中心に論じた後輩の論文を読んでいたときのこと。
 それ自体はとてもよい論文だったのですが、やはり年来の疑問がむくむく頭をもたげてきてしまったので、やっぱり聞いてしまいました。「こういうとき、女性の身体の使用価値はどうなっちゃうんでしょう?」

というわけで、今回は一部若干女性に対し不適切ないし誤解を招きやすい表現が含まれております。申し訳ございません

 どうも世間一般には、女性の痩せ願望は、まあそりゃあテレビから雑誌からファッション誌から、メディアにのって流通する女性の身体に近づけようとする努力である、とされています。もちろん、そんなに単純なものではないことは当然議論もされていて、とくに拒食が病膏肓に入るようになると、いわゆる「身体イメージ」としての身体像の等価物(写真、映像のなかの女性身体)との類比対比より、体重計の数値との戦いがメインになってきたりします。主人の欲望から知の欲望へ。あるいは主人のディスクールの中のエージェントの欲望から、知のディスクールの中のエージェントの欲望へ。

 まあ、それは良いのですが、前者はやはり流通するイメージ、つまりは交換価値に還元されるものです。かような身体であれば社会的に高い評価が得られる。後者はちょっと変わってきて、かような数値であれば痩せていると知が判断してくれる。どちらにせよ、ここでは他者は性的他者ではありません。
 ん?痩せている→綺麗だ→高い価値がある、と判断する他者は男性ではないのか?とおっしゃる旨もありましょう。それはもちろん間違っていません。われわれ男性も、グラビアでスレンダーでスタイルの良い女性にハァハァし、ちょっとぽっちゃりした女性だと、うーんグラビアは無理じゃないかなあ、などと、おのれの姿を顧みることなく御託を並べていたりするのですから。

 ですが、それはあくまでグラビアの話。いや、おつきあいしている女性にも、それを望むことは十分にあり得ますが、それは人前、まちなかで、隣を並んで歩いて見せびらかしたいという時。一応性的他者の本分(?)たるべきベッドの中では、必ずしもそうとは限りません。まあふくよかとはいわずとも、ちょっとくらいぽっちゃりしているかんじのほうが、ちょっとスレンダーすぎる女性よりはだいぶん気持ちいいことは皆様ご承知の通り。

 まあ、そんなわけで、いささか不謹慎ながら、性的他者たる男性から女性の価値をみたとき、上述のようなグラビア的価値を交換価値、ベッドの中での価値を使用価値とさせて頂きましょう。この場合、世の女性たちはなにゆえ交換価値に重きを置き、使用価値を重視してはくれないのか。
 もちろん、使用価値はマーケットとしてニッチすぎる、という問題もあります。使用価値が生じるのはベッドの中であって、そして同じベッドに入る男性の数と、まちなかで彼女をチラ見して評価を付けてくれる男性の数では後者の方が桁違いに多く・・・ついでにいえば、交換価値なら別に性的他者としての男の眼差しは関係ない、それは社会的評価というものだ、というふうに言うこともできるかもしれません。さっきとは逆にね。よく女性たちが、男は関係ないむしろ同性の目の方が、とおっしゃるように、逆に性的同一者(?他者の反対語のいいのを思いつきませんでした・・・)という形で性が入ってくることもあるのかもしれません。

 ちなみに、この話にはちょっとした裏付けがあります。4年ほど前、とあるデートクラブが摘発されました。デートクラブというのは、お店には控え室のようなところに女性がたくさんいて、マジックミラー越しに品定めした男性客がそのなかから気に入った女性を指名して、デートに連れ出せる、というシステム(らしい)ですが、このクラブはいわゆる「デブ専」、つまり女の子が太った女性ばかりだったのです。
ブログであればここで当然元記事のリンクが張られるべきなのですが、ちょっと出てこないのです。知っている方がおられましたらコメントくださると幸いです
 で、経営者の言い訳がふるっています。この商売は決して儲からなかった。むしろボランティアだった。というのも、彼女たちは控え室でアホほどお菓子を食う。おまけに暑がりで冬なのにものすごく冷房を入れさせる。経費がかさんで仕方がなかった。でも、彼女たちは普段、太っていると馬鹿にされ、引け目を感じて生きているのに、ここにくればみんなにちやほやされる。自分を普段馬鹿にしているであろうちょっと可愛い女の子が同じような商売をしたときよりも、さらに高い指名料がつく。そのことで、彼女たちは自信を取り戻していった。だから・・・

 もちろん、太った女性が希少価値があったからじゃないの?という意見もありましょうが、それを言うなら可愛い女の子だって希少価値があります。まあ、厳密な調査の裏付けがあるわけではないので、不毛っちゃ不毛な議論ですが。ひとつだけ言えるのは、人間の価値というのを交換価値だけで考えてしまうことによる不幸さが、使用価値を考え合わせることで多少でも取りかえすことができたかもしれない、ということです。この場合は残念ながら、決して人様にすすめられるような方法ではなかったのですから、そこまで大層なことは言えませんが。

 ちなみに、こちらでは、「20%の商品が80%の売り上げをたたき出す」という、パレートの法則の時代のおわりが簡単に紹介されています。そこから考えれば、インターネット等のメディア技術の進展が「売れ線のかわいい女の子」というマス目当ての商売を変容させていった、その過程にこのデブ専デートクラブがあったのかもしれません。ですが、それはそれとして、また別な形の分析が必要でしょう。ここでは、ひとつ使用価値の問題に絞って。(もっとも、このニッチなニーズと使用価値という問題が密接に関連しているという可能性は高いと思います。でも、この辺はきちんと詰めないといけないところですから、今回は印象論として、という範囲内に自制。)

 さてさて、だいいち、このデートクラブ、そもそもこれを使用価値のモンダイといっていいのかも疑問なのです。たとえば、女子校の制服を着ていれば、自分に高い値が付くと知っている女子高生(なんちゃって含む)、彼女たちは自分の使用価値の評価を求めているのでしょうか。むしろ、記号を身にまとうことで自分が生きた貨幣になっているのではないでしょうか。そして、貨幣とは交換価値以外の何ものも含まないもの、のシンボルなのではないでしょうか。

 で、それ以来、うーん、身体の使用価値、使用価値、と思っていたのですが、まあやっぱりこれしかないかなあ、ということで、クロソウスキー「生きた貨幣」からいってみましょう。

 クロソウスキーは手短にこういいます。


「財の仕様、つまり享楽は、それらの財が製造の効率性の回路のなかで非生産的であると判断される限りにおいて、不毛なのである。・・・産業社会の時代において、道具の製造は不毛な使用=慣習の世界と決定的に袂をわかち、製造の効率性の世界を創設する。」(16)

 ああ不毛ですかそうですか、という身も蓋もなさ。

 しかし、それ自体はまあさして突飛な主張ということもないでしょう。クロソウスキーの面白いのは次。


「対象物の製造を最初に推奨したのは神々であり、そのために製造者は神々の前で自分の存在を正当化しなければならなかったわけだが、しかし、偶像の製造が無用であると判断された瞬間から、個人のなかでの欲動の働きがまさしく商業的性格を持っているということを無視する長い歴史がはじまった。つまり、情動的=病理的有用性がさまざまな形に偽装されることの誤認が始まったのだ。」(21-2)

 そう、クロソウスキーの「生きた貨幣」とは、ここにすべての可能性を賭けています。あとで見るように、生きた貨幣とは別にアイドルや映画スターのように、そのイメージが価値として流通している人間のことを指しているわけではないのです。というか、すくなくともそれだけの人間を指しているわけではない。

 次回は、そんなあたりを中心に引き続きクロソウスキーを見ていきましょう。