裏もの流出

 さて、前回はショーレムの論文を読みながら、『無からの創造』という問題を考えてきたのでした。

 ですが、こうして無が神の究極の属性とされるようになると、話はそれはそれで面倒を引き起こします。なんと言ったところで、聖書の神は人格神としての、啓示の神としての一者です。他方、こうした一元論的神学のもとになるプロティノスの一者はあらゆる規定性を欠いたものなのです。それは単に、世界の多性と分裂に対するアンチテーゼとして想定されたものなのです。
 プロティノスとその後継者たちは否定的表現に耽溺します。その一者に承認される唯一の述語は善です、一者それ自体が善というわけではなく、一者から流出する他のものとの関係において善であるというに過ぎません。ですから、「<〜を超えて>、<〜の彼方に>は、したがって一者のもっとも本質的な述語ということになる。」(『神の闘い』216)
 それは思考の彼方ですらあり、一者についてはそれが自分自身を思考するとさえ言うことはできず、存在全体の根底に対し意志と思考を認めません。ですから、「万物は必然的な過程を経て一者から流出したものであり、また再び多様な世界から一者のもとに帰ろうとする。聖書で言われるような創造行為は、したがってここには存在しない。」(217)

 そうすると、隠れたる神から創造者としての神の移行をどうしても考えなければなりません。それはこの業の決定的な要素を何と見なすかに依拠することになります。そしてショーレムは神の思考と意志という二つの規定を取り上げるのです。
 ちなみに、これ、業の属性というトピックとして、定番のもの、とショーレムは言っているように思えます。もちろん、業とは当然神の御業(みわざ)という意味だったのでしょうが、わたくし、しばらく業(ごう)だとおもっていました。。。そう、これを業だと考えた思想家がいたからです。シェリングですね。よければ、このへんも見ていただけると幸いです。

 さて、神の意志と思考。なぜでしょう?


 まず、一方の極に、やっぱりアリストテレスショーレムに言わせれば、この神は自らは永遠に動くことのない宇宙の動者。宇宙の最高のエンテレケイア(完全現実態、活力)ではありますが、この宇宙を生み出すものではありません。


「この神は創造などおよそ考えることもなく、世界を考えることもない。アリストテレスがこの神に関し述べうる最高のことは、それが自己自身を思考するということである。アリストテレスとの対決であるかぎりでの宗教の歴史において、きわめて大きな役割を果たしたのは、この<思考の思考>、思考のそれ自身における累乗という考え方であった。」(『神の闘い』242)

 ですから問題はここになります。


「彼らは、自己自身を思考する神、自己の思考の対象と/してまさに自分自身の思考以外には何ものも持たないこの神を、自分自身を思考することによって世界を生み出すような神として解釈することができたのであろうか。」(242/3)

 この「思考」と「思考の思考」の区別、精神分析プロパーの文脈であれば、「ビオンだ!」ということになるでしょうが、それはまあさておいて。ですがそこでも明らかにされていたように、思考についての思考、自分自身を思考するということは、当然のことながら二元性が含まれることになります。
 プロティノスにとっては、それは認めがたいもの。かれにとってはこれはもうすでに第一流出、純粋知性つまり一者がひとつの知的な規定を受け取るものであるからです。
 しかし、プロティノスは一者が自己自身を意志することにはこの分裂を見ていない、とショーレムは言います。ここに、後の論者はありがたい抜け道を発見したのです。


「自己自身以外の何ものも意志することのない意志、すなわち無限の意志にほかならない一者のこのような肯定は、プロティノスの神と一神教的諸宗教の神とを結合しうる重要な紐帯となった。」(『神の闘い』243-4)

 もちろん、だからといって問題がすべて解決するわけではありません。二つの神学の争いの基礎は残ります。「一方においては、すべてのものの始まりに立つのは、神の思考行為であり、この神の思考および認識は事物の産出に向かう神の意志に先行している。他方においては、神的意志こそ認識より高い段階を占める。」(『神の闘い』245)

 ですが、それよりも多分興味深いのは、無限なるものと、その意志ないし無とに、端的な同一性を認めるのか、あるいはそこに弁証法的な関係を持ち込むのか、という議論が展開されていたということ。
 ショーレムは、後者の代表として、カバラの伝統から、アズリーエールの「思考の意志」という考え方を取り上げます。
 未だ思考の内に隠れている意志、また思考の内で働き、思考の計画立案する能力によって初めて活動的となる意志(261)このような原意志は、思考を超出し、思考によっては把握できないものであり、そしてそれは最高の思考さえ意志の始まりである「思考の無」に由来します。「思考は意志の深淵から立ち現れてくる。しかしまたそこに沈んでいき、自己の根源へ帰還しようとするのである。」(262)意志から思考へ。そのなかで、意志の中に漠然とあった、かもしれない神意が現実のものとなり、規定可能なものになります。ソフィアの流出ですね。
 そして、大事なのは、神の自由、絶対的な自由がここに規定されたということです。これは必然的の生じるものと見なすことはできません。神がその流出を、そして創造を行うことの自由です。これを可能にする「無限にまでの意志」(「無限の意志」ではないことに注意、とショーレムはいいます。あとで見るように、カントールにとってはたいへん皮肉なことに)

 これはヘブライ語アーレフで象徴されます。これは数の一をも意味するもの。そしてラカンが、上で見たように、自分のUnという概念をパルメニデス集合論、と述べたとき、その集合論のなかでもとりわけカントールアーレフ、無限集合の濃度としてのアレフ(のなかのアレフゼロと、というべきですが)と関連づけて論じていた、ということをここでは指摘しておきましょう。カントールにとっての無限。でもあれ、実無限であって可能無限ではありません。ショーレムが「無限にまでの」とわざわざ注意したのは、そのせいなのでしょうか。

 とはいえ、ラカンアレフという問題は今のところ、話題の本筋とは直接は関係ないことは確かですが。。。むしろ、前回引用した


「神が自己自身の内に入り込むこと。そこから生じた無は、至る所で存在の中に入り込んで活動する。純粋な存在と純粋な非存在は共に存在しない。すべて存在するものは神が行う二重の運動、すなわち、自身の内に収斂するかと思えば、同時に絶えず自分の存在からなにかを放射するという運動の結果生ずるものである。」(『無からの創造』106)

という問題、これが、フォン=ノイマンおよびペアノの自然数論をどこか思わせると論じている論者が居るという紹介をしましたが、そちらのほうがより近道かもしれません。ラカンは、このUnをこうした自然数論における空集合と関連づけ(1972.4.19)ており、こちらの方は先ほどのアーレフの話よりはこちらのほうが若干本質的かもしれません。一者は無であり、その無が内在化し、運動することですべての存在が派生してくるということ。空集合をUn、1と呼ぶことは、数学的に正当化可能とは思われませんが、こうしたカバラの伝統を合わせて考えるとそれなりに正当化可能、かもしれません。

ついでにいうとショーレムの本ですから当然カバリストの名前がいっぱい、教義もいっぱい出てくるのですが、申し訳ないことに全く無知なので、極力省かせて頂いております。ご了承ください。

 まあ、脱線はさておき、ショーレムはこの流れを以下のようにまとめます。


「初期カバラーのこうした展開のうちに、超越的で非人格的なものと考えられた至高の一性が、神性の聖書的な観念と結合されえたのは、ひとえに、神の一性が動的な一性と理解されたが故にほかならない、と。この動的な一性、生ある絶対者と見なされる神性、その隠れたる生が無限者の自己から出て自己へと帰る運動として考えられる神性の観念のうちに、その表現を見いだす。・・・こうした神の一性それ自体の弁証法的な運動過程が、そしてそれと同時に全創造の内的過程が描き出されることになるのである。」(『神の闘い』275-6)

 すでにここまでの展開の中で、フィヒテへの影響、シェリングへの影響という問題は、ある程度共通のトピックのなかに確認可能だということを見てきました。最後はおそらくヘーゲルでしょう。ショーレムのこうしたまとめを踏まえ、ここまで使われてきた用語を踏まえた上で、精神、および知という言葉を見てくると、ヘーゲルは突然非常に明解なものに見えてきます。
 もちろん、それはショーレムが初期カバラよりもヘーゲルよりもあとの人間として、二つを見通せる立場にあり、その二つを彼なりに意識的な意志無意識的にすりあわせて考察したからそうなったのだ、と考えることも可能です。ですから、カバラやあるいはキリスト教神秘主義といった教説の影響がヘーゲルに見られるとか、あるいはさらに踏み込んで、それを踏まえているなどと断言すること、は当然できません。しかし、一元論的傾向が共通に抱えることになるロジックとそのアポリア、あるいはそこからの脱出の模索、といった問題の構造化という観点から見るのであれば、非常に興味深く読めるのではないかなあ、と思ったりします。
 そのなかで、ここでショーレムを通して透けて見える解決策があるとすれば、それは潜在的なものとしての無にたいし、非常に奇妙なことですが、原初の言葉を発するという、無からの創造によって、そこに現勢化された無を付け加えることで、世界の創造が一方では一者からの流出という新プラトン派的な思考に、他方では無からの創造という、奇妙な歴史的断絶性をもたらす人格神の要素あるいは出来事性を矛盾なく弁証法的な運動に取り込むことが出来たということなのでしょう。そのことは、おそらくパウロを解釈するバディウ(このへん)にも意識されている問題なのかもしれません。とはいえ、バディウモデルでは、この一元論の持つダイナミズムまでまるまるお湯と一緒に流してしまった感がなくもないのですが。出来事という言葉には、ここで見られるような「意志」(あくまでこの文脈限定の意味で、です)が欠けています。

 そしておそらくラカニアンであれば、それを欲動と呼ぶことになるのでしょう。