4月9日の補遺:しかし、女性の側にはそんなこと引き受けるなんらの理由もない、ということも、しかしながら、忘れてはいけないことです。だからこそ、性的関係はない、と言えるわけですから。次の引用箇所を見てください。


「性的行為というものの主観的なドラマ化の中で、女性を示し、女性に対象aの役割を押しつけるものは、その構造の中にあります。女性は問題のものを、つまりくぼみを、空虚を、この中央に開いた欠如というものを、女性が隠している限りにおいて。そして、これについてはこうもいうことができるのでしょう。これは私が象徴化しようとしたこと、ですが、男と女の間には、何らの関係もないrien a voirのだと。ここで私が使った言葉を覚えておいてください。言い換えれば、女性の側には、この対象aの機能を引き受けるなんの理由もないのです。端的に、この場合、つまり女性の享楽と、それが行為との関係で保留される、というときに、詐欺の力を感じ取ることができる、ということだけなのです。しかしこの詐欺とは女性の詐欺ではありません。何か別のものです。これはまさしくその場合、男性の欲望の成立によって押しつけられたものです。男の側にとっては、見いだされるものは、知以外の何かを目指すことの不可能さ以外の何ものでもありません。」(1968.3.27)


 ある意味では、対象aという議論の初めは、じつはラカンが倒錯の構造として論じていたものに根を持っていると言うこともできます。対象aという問題設定は、その点で言えば倒錯の一般化、ないしは希釈化ともいえます。


「ただ、この後、フロイトは、神経症の中に見ることができると思った倒錯とはそういうものではないということに気付くことになります。神経症、それは倒錯というよりはむしろ夢です。神経症者はいささかも倒錯者の特性を持ってはいません。ただ倒錯の夢を見ているだけなのです。これはごく自然なことです。なぜなら、それなくしていかにしてパートナーに到達することができましょう。」(seminaire XX, 80)

 他方で、男性はファルスを、というかペニスを、器官として所持しています。この幻想とファルスの共犯関係は簡単です。みなさん身に覚えがあるでしょう。自慰です。そんなわけで、ラカンは男性にとってのファルスの享楽を愚者idioteの享楽と呼ぶことにしたのでした。(seminaire XX, 86)器官によって支えられた享楽ですね。他方で女性にとっては、彼女たちが向かうファルスとは、la plus singuliere、もっとも特異的なもの、偶然との出会いによって、パロールによって支えられるものです。この話は、先年20041224で、「出会い系ファルス」と題して話したことにつながりますね。

 しかし、言っておかねばならないのは、この出会いをもたらすためには、つまり、女性が持っていないものとしてのファルスに自らを仮装して登場するよう決意させてくれるのは、男性側にその欠如の空間が無ければならない、つまりその空間、無こそを、男性側があらかじめ贈っておかねばならないということです。(そうしない場合は、女性たちはヒステリー化してこちらの弱みを鵜の目鷹の目で追求しては悦に入り溜飲を下げるという、いたってややこしい事態に巻き込まれることになるのです御同輩たちよ)。その意味では、どちらの側からも「愛とは、持っていないものを贈る」というラカンの言葉が確かめられることにはなります。

 まあ、そんなわけで、「見せかけ」の介在する愛は不可能ではないのかも知れない、けれど「見せかけではないあるひとつのディスクール」としての性的関係はどうも不可能かも知れない、というこの話のオチは


「男は、自慰的な享楽はすべてではないということに気づく必要がありますし、反対に女性はこの自慰的な享楽が彼女には欠けているという次元に対して開かれていなければなりません。」(1966.6.8)
 というちょいと哀しい展開で閉じられるのでした。(-人-)ナムナム