一夜限りと一乗寺/一情事

 さて、前回は、《他者》の享楽、というところで話は終わったのでした。
 《他者》の享楽、という言葉は、ラカンの文脈では、60年代末までくらいは確実に、倒錯者の目指すもの、というような位置づけをされています。神経症者が《他者》の要求、精神病者が《他者》の不安。この位置づけは年代によって微妙に変わったりしますが、まあこのあたりが基本形でしょう。とはいえ「悪夢に不安を感じるということは、まさしく《他者》の享楽への不安として経験されるもの」という発言もあったりするくらいですから、例によって何か一つを定義する言葉として使うことはできないと思いますが。

 話が若干移行してくるのは、70年代に入ってからかなあ、という感じですが、まあともあれ、ゆっくり見ていきましょう。
 まず、《他者》の享楽の前提となる、トーテムとタブーの神話があります。原父の神話ですね。すべての女を独占するハーレム大王様、と、その欲求不満の手下たち。楽しい集団です。


 「フロイト的神話、それは父の死と享楽とを等置することです。・・・死んだ父は享楽である、ということは、不可能そのもののシーニュとして我々の前に姿を見せます。」(seminaire XVII, 143)

 ですから、さしあたり、享楽の管理人として、死んだ父がいる、そして、そいつがどうも享楽を独占し、カギをかけ、不可能なものにしている、ということになります。死んでますけどね。

 でも、忘れてはならないのは、この享楽は父の享楽とばかりは限らない、ということです。なぜなら、この父は「すべての女」を保持している。この父だけが「すべて」として女を知っている。もし、ファルス関数が、関数という言葉の哲学的意味(マルブランシュとか、ああいう古式ゆかしい時代の、ですね)にあるように、「世の中にはちいさい円おおきい円、いっぱいの円があるが、円の概念を把握しておけば、それらすべての円を把握できる。つまりは無限の円を把握できるのだから、あなたは無限を手にしている」みたいな感じで捉えられるものだとしたら、この原父こそ「女性関数」ないしは「享楽関数」と言いたくなってしまうような代物です。死んでるんで無いんですけどね。不可能って奴です。
 ともあれ、この享楽はですから、女性の享楽でもあります。それも、すべての女性の。
 さて、これまで、死んだ父は∃x¬Φx、というふうに表記されていました。それを踏まえて、以下の文章にかかりましょう。


「私がいいたいのは、∃xの否定、つまり¬(∃x)、つまり、性的関係が存在するということもあり得るようなところでは、この不在としての他、それは女性性の特権では全くなく、私のグラフの中ではA/というシニフィアンで書かれているものの指標でしかない、ということで、それが意味するのは、《他者》は、性的関係が問題となる瞬間から、それをとらえたと思ったときには、不在であるということです。当然、このファルス関数が機能しているレベルでは、二つの間に不調和がある、ということです。つまり、同じポジションにいるのではない、一方ではファルス関数と必然的に持つことになる関係を基盤にした普遍、他方には女性はすべてではないということから来る偶然的な関係というものがあるということです。/したがって私が強調するのは、上の欄では、パロールの書き込みに空白欄を残してしまう一方のパートナーの存在が消失していくということに基づいた関係は、このレベルではどちらの側の特権でもないということです。(1972.3.3)

 さて、ややこしくなりました。とりあえず、「∃xの否定、つまり¬(∃x)、つまり、性的関係が存在するということもあり得るようなところ」という言い方に注目しましょう。その逆を取ると当然、原父的なるものは、では、性的関係を不可能にしてしまう、ということでしょうか。この点については、少し保留が必要です。
 原父の不在、とは呼びますまい、ある種の未構成段階としての、¬∃x¬Φx、とりあえず、「あるひとりの原父が存在することは、ある段階では、それを具体的に証明する手段が構成されていない」という風に読むことにしましょう。これが、「偶然的な関係」ないしは「性的関係の存在の可能性」というふうに読まれうるものであり、ラカンの記号法のなかでそれがA/とされている、ということになります。それは《他者》の不在、とここでは読まれています。あるいは「《他者》の空虚」そして、前回の引用箇所を踏まえれば、「¬∃x¬Φx、両方に否定がついていますが、これはこのためにla femmeが存在しないということです。」(1974.6.11)ということになります。


「ある時期から私が、正確に言えば去年からですが、みなさんの前で口にしてきたことの基礎にあるのは、まさに、第二の性というものは存在しないということです。ランガージュの機能の中に参入してきたときから、第二の性はなくなったのです。あるいは異性愛といわれているものについて別な言い方をしましょうか。しゃべる存在のもとでは性的と呼ばれている関係にとっては、この立場においては、ギリシャ語でautreをいうために使われる語は、空虚になる、という意味なのです。ここでいう空虚とは、私が《他者》の場と呼ぶこのパロールにたいして、その存在が提供するもの、ということです。つまり、前述のパロールの効果が書き込まれるところということです。」(1972.3.3)

 ですから、ラカンの議論の流れはこういう感じになります。《他者》の不在、あるいは空虚、それは第二の性(男にたいする女、女にたいする男)ではなく、「異−性」を構成するパロールの場である、ということです。このパロールが、偶然性あるいは一回性に記しづけられているものであることは、言うまでもありません。したがって、というか、だからこそ、男の人は女の人を「口説かねば」ならない、つまり、パロールの場の中に巻き込まねばならない、ということになります。ディスクールの訳語が言説なら、パロールは口説にしたいくらいの話です。


「一緒に交接している二匹の動物がいるということです。そして、我々はその本質的な次元を持ち合わせていなかったのです。それは、まさに、この出会いが一回性のものだuniqueということです。・・・しゃべる存在の条件を知っているものは、何にせよ、この基盤に基づくこうした出会いが一回性のものとして反復されるということに驚くことはないでしょう。いかなる徳をも介入させる必要はここにはありません。しゃべる存在の元で、一回性のものから生み出されるものの必然性、それが反復されるのです。」(1972.3.3)

 うんうん、そうそう、そこでその空虚への化身としてファルスの話があったんだよね、ということまで思い出して頂けると幸いなのですが、次回はもう一ひねり行ってみましょう。