南の島に雪が降る日に、待ってる


 さて、これまで延々と見てきた、ラカンの性別化のはなしでの、この「すべてではない」は、以下のはなしに適用されるもの、ということにすると、だいぶ明快になってくる感じになります。


「すべての男でないものは女である、人はそれを認めてしまうようですが、しかし、女は『すべてではない』のですから、何故すべての女でないものが男であり得るのでしょうか。」(1972.5.10)

 そういうわけで、あの「すべてではない」は、「すべての男でないものは女である」は、女性の側からは成り立たない理屈だ、ということを指すために用いられるものである、ということ、そして、排中律からはじまって直観主義やらなんやらのややこしい話はそのことを説明するために持ち込まれたものである、ということです。また同時に、男性の側からはそれが成り立つことが自明視されている理屈である、ということです。「すべてではない」という言葉は、端的に世界はAか非Aかである、というかたちで現在の時点において未来に至るまで閉じられるものではない、ということを言いたがっているのだ、くらいに理解しましょう。

 この問題の背景にあるのは、性的な意味での同一化です、当然のことながら。引き続き、ラカンの言明を追いましょう。


「性的同一化は男であるか女であるか信じるということでできているのではありません。男の子にとって女とは何か、女の子にとって男とは何かを考えることから来ているのです。大事なのは、これは彼らが経験したもの、というわけでは、それほどないということです。それは現実的な状況です。それはつまり、男にとっては女の子はファルスであり、そのために男たちを去勢するのであり、女たちにとって男の子はまた同様で、ファルスとは彼女たちを去勢したものであるのです。なぜなら彼女たちはペニスしか手にできず、当てがはずれてしまうrateからです。男の子も女の子も初めは彼らの引き起こしたドラマを通じてしか危険を冒そうとはしません。彼らはつかの間ファルスになるのです。ここに現実的なものがあります。切り離されたものとしての性的享楽という現実的なもの、それがファルスです。」(1971.1.20)
 この発言からわかるように、男女はある意味で共通の問題に直面し、そしてその共通の問題を解決するために、共通の手段に依拠します。ところが、一見共通の手段として生じているかに思われるファルスは、どういうわけか男女にとって共通の機能を果たしてはくれない、だからこそ、性的関係を取り結ぶものとはならないのです。「、一方ではファルス関数と必然的に持つことになる関係を基盤にした普遍、他方には女性はすべてではないということから来る偶然的な関係というものがある」(1972.3.3)と、ラカンが言うように。前者は男性の論理であり、後者が女性の論理です。
 前者については、以前の『見せかけ』のなかでもちょこっと紹介しました、男性特有の神話的処理の方法があります。トーテムとタブーにおけるような原父。ではどんな手を使うのか、確認しておきましょう。


「おそらく皆さんはより簡単に第三項とのあいだで男と女が共通の裂け目に直面していうということは適当である、ということにお気づきになることと思います。そこから、たとえば男のあり方については、分析的経験からいえば、人工的に、神話的に、すべての男を作り出す以外には基礎付け得ないということが帰結します。ここからトーテムとタブーのような神話的な父が想定されます。」(1971.5.18)

 そして、12月の終わりの『愛の文字』、3月の終わりの『見せかけ』についてのまとめを通じて、われわれは女性の側がこのファルスの問題に関与してくるのは偶然的である、というラカンの発言を取り上げてきました。ここでも、それは共通の土台です。そして、女性にはこれに対応して、ドンファンの物語があるのだ、と。ちょっと勇み足を覚悟で言えば、おそらくラカンはこの原父神話を「すべての女性」という実無限的な集合を、そしてドンファンの「ひとりひとり数え上げて」という神話を可能無限的なもの、ととらえ、そして可能無限(潜在的無限)に対して用いられるべきは古典論理ではなく直観主義論理だ、という連想から作業を進めたものと思われます。一応「すべての無限は潜在的無限だ、とする直観主義の見解」(ダメット、前掲書255)と言われているくらいですから、この発想そのものは間違っていないことでしょう。

 
「この『すべてではないpas tout』が意味するのは、・・『不可能ではないpas impossible』ということです。女性がファルスの機能を知っているということは不可能ではありません。この『不可能ではない』これは何なのでしょう。・・・必然性が可能性と対置されるのと同様、不可能と対置されるのは偶然性です。ファルスの機能にある女性が議論の素材として現れてくるとき、偶然性の中に、女性の性的価値が分節化されるのです。」(1972.1.12)

 この偶然性との出会いの問題は、女性にとっては先ほどから述べているように、「男性と共通の課題」にたいする、「男性とは別の解決法」ということのなかにあるもの、と考えることができます。それをわれわれはラカンにならってドンファンの神話と呼んで来たわけでした。しかしながら、世の中好都合にドンファンがそうそう出てきてくれるものではありません。原父はどういうわけか限りなく100%の出現率を誇りますが。。。ともあれ、そこに女性の苦悩が誕生します。女性の場合は、具体的な証明手段を有さなければいけないので、この問題はよけい難しくなります。


「女性は男と同じくらい去勢に苦しんでいるのです。その症状の機能の中で問題になっていることから見れば彼女はその男と全く同じ立場にいます。彼女にとっては先ほどいったようなファルスとしての現実的なものが外在するということがどうであるかを述べねばならないのです。先ほどは未決のままにしておきましたが。問題なのは彼女にとってそこで呼応するものは何かということです。」(1975.1.21)

 この問題に直面したために、女性はこの外在を確認しに、旅に出なければいけません。(場合によっては白馬の王子様が迎えに来てくれる可能性もあるし。。。)しかし、実際に彼女がであうのはあまりいい男たちではありません。「しかしもし偶然に性的関係が彼女を巻き込んだなら、彼女はこの第三項、ファルスに関わる必要があります。そして彼女がそこに関わるのは、一つはそれを持っていることが確実ではないような男との関係を通してのみです。」では、いつまで待てばいいというのでしょう。それこそ、「南の島に雪が降る日」まで、約束は果たされないのでしょうか。

 おそらく女性たちは、父親というテーマを介して、そしてその約束を介して、∃x¬Φxの存在に気づいています。しかし、この命題は本当に構成可能なものなのか、その証明が、「そこで呼応するもの」がなんなのか、それがわからないのです。おそらく、それを¬∃x、という変な呼び方でラカンは表したかった、ように私には思われます。
 この¬∃xか、∃xのゆらぎのなかで、「ファルス関数の奴隷でないものが少なくとも一人au-moins-un存在する」なら、つまりは∃x¬Φxに。しかし、彼女が実際に目にするのは、そのことが確実でないもの、つまり彼女の知る範囲では∀xΦxな男たちです。
 男性の論理では、こうした原父を否定すれば、¬(∃x¬Φx)⊃∀xΦx、つまり、すべての去勢された男たちが出てきます。しかし、女性の論理では、それはあくまで、¬(∃x¬Φx)≡∀x¬¬Φxでしかありません。二重否定から肯定を導くことは、直観主義の論理ではできません。ですから、女性にとっての原父を否定したところで、じゃあ女性自身は、あるいはすべての男は、去勢されていなければならない、ということにはなりません。夢を捨てろとはいえないわけです。
 逆に、すべての男は去勢されている、の否定¬(∀xΦx)から∃x¬Φxが成り立つのも、古典主義のみ。こちらも直観主義では成り立ちません。ある意味で、このストーリーの冒頭にあった「約束」というのは、こんなものかも知れません。「すべての男がそうではない」からといって「あるひとりの男はそうだ」とも言えない、という。つまり、「あるひとりの男」の存在は、約束されているように見えて、保証はされていないのです。¬∃xというラカン的な表記は、もしかすると、ここを指すものと限定した方がいいかもしれません。

 まあ、そんなわけで、ラカンがここでペダンティックな意味だけでなく、直観主義を引っ張り出してくる必要があり、また訳のわからない量化記号のアレンジ版を出してくる必要があったのだとしたら、この点でしょう。つまり、原父の殺害は、そのまま去勢という運命の普遍的肯定の証明をもたらしてはくれないのです。逆に、去勢の普遍性の否定はドンファンの存在を肯定してはくれません。 ともあれ、そこに、女性的な立場のあいまいさが由来します。

 しかし、ラカンの言うように、約束、が果たされる日がくる、ということがあり得るとしたら、「不可能ではない」としたら、「偶然」が起こりうるとしたら、それはここでしょう。


「私は∃x¬Φxにも別の解釈をもっています。これは女性一般la femmeの享楽の場です。・・・そして¬∃x¬Φx、両方に否定がついていますが、これはこのためにla femmeが存在しないということです。」(1974.6.11)

 この場所は、前者は女性の享楽の場所であり、後で見るように、後者は《他者》の享楽の場です。∃x¬Φxを原父的なものとして考えるなら、原父は女性一般を知っていますから、女性一般の享楽も知っている。しかし、原父は存在しない。したがってla femmeも存在しない。しかし、だからといって、原父は存在しないともいえない。そのあいまいな揺らぎに、《他者》の享楽は位置しています。¬∃xというかたちで。
 しかし、この¬∃x、これは奇妙なことに、もう原父、ファルスとしての子供を授けてくれることが確実な原父ではありません。そこに、この話の微妙さ、難しさがあります。

 次回はそのあたりを見ていきましょう。