欺瞞の全体系

 前回までは、エディプスコンプレックスにおける男女差のねじれ、というところから、男性の性別化のロジックにおける古典論理、という視点から問題を整理してみました。端的に言って、排中律によって強いられる「未来に関する決定論的な見解」によって、男性の性別化のロジックには時制の問題が影響しない、ということを述べたのでした。
 以前一度載せましたが、無いと話が見えづらいので、もう一度マテームも貼っておきましょう。

性別化の図

 さてここで、問題なのは、女性化のマテーム。ソーカル先生に怒られたことからもわかるように、量化記号に否定をつけるやり方はありません。というか、たとえば¬∃x¬Φxという書き方をしたとしたら、この先頭の¬は後ろの∃x¬Φx全体にかかる、というのがふつう。ですから、数学的知識を前提にこれを見る人からすれば、この時点でわけわからん大混乱が起きているように見えて当然です。ですが、ここではラカンせんせいの書き方に敬意を表して、¬∃xの場合は、量化記号にのみかかる否定であるとし、通常の「先頭の¬は後ろの∃x¬Φx全体にかかる」という場合はあえて¬(∃x¬Φx)としています。ご了承ください。
 もちろん定義したらいいんじゃないの、できなくはないのかも知れませんよ、というかもしれませんが、そもそもラカン本人による定義はありません。ですが、ラカンの意図じたいはある意味では明解です。男性の側の量化記号は古典論理の意味で用いるとして、もし直観主義の論理であれば、量化記号は同じようには使えないのではないか。ということで、だったらその二つ区別した記号を使ったらいいんじゃん?なら、じゃあとりあえず量化記号の上に否定つけて区別してみました、というところでしょうか。
 念のために言っておくと、この区別の仕方が正当化可能なものであるかはまったく保証の限りではありません。というか、直観主義に関する諸々の著作の中でも、こんなことやってる人はわたしの知る限りいませんし、それどころかこうした発想のかけらもみれないように思えます(たぶん)。ということは、たぶんこれ、数学的にはなにかとてもあさってしあさってな方向に向かった努力だった、という可能性が高い、と私には思われます。
 しかしまあ、それはさておき、というか、とりあえず量化記号に否定がついている場合は直観主義っぽくやってくれ、という程度の合図だと考えると、まあ話は若干気楽になります。「ぽく」って、そんないい加減な言い方もないだろう、というお叱りは当然ですが、まあ前回話したような、「成り立つか、または成り立つことが証明されるような具体的手段を持っている」というような意味で、あるいは、「成り立つか、または成り立つことが証明されるような具体的手段を持っている」場合でないと証明とは認めないが、ある知識段階ではまだそれをもっているわけではない、という記号として、この「量化記号の上の否定」をとらえるべきかなあ、というのが、さしあたりのアイディアです。

 量化記号のうえに否定を載っける、というのは、たぶんまったく意味のない見当違いの方向に進んでいる、という個人的な感想を、先ほど述べました。それは、わざわざ量化記号の上に否定をつけるなら、それを利用した論理演算が可能でないと無意味だからです。しかし、そのような演算を行う場合、きちんとした数学的あるいは論理学的裏付けがない段階では、さらなる大混乱を招きかねません。
 しかし幸いなことに、管見の限りでは、量化記号の否定(という、常道でもない、定義もされていない無茶)、をさらに論理的に演算してみました、というような無茶の上の無茶があった、という事実がラカンのテキスト、講義録のなかにはないのです。ですから、ここは量化記号とその否定を表していると言うより、"¬∃"および"¬∀"という、ただの別の量化記号と考えた方が良いかもしれません。

 でも、なんだってそんなことを思いついたのでしょう?
 本人の弁によれば


「私がひっくり返ったAつまり普遍の量化記号の上に置いた否定の棒印によって、すべてではないpas-toutということが書き込まれます。これと置き換えられるべきものは、可算の記号、つまりアレフゼロです。・・・「すべての男」、に対置されるもの、それはここでは女性達les femmesです。いちいち数え上げていくのでなければ、おしまいまで到達できない、という点で。ですから私はすべての女性toutesとは言っていません、可付番の特性とは最後までいけないということですから。」(1974.2.19)
 微妙に錯綜した記述ですが、まあ論文ではなく口頭の講義なのでこんなものでしょうか。ともあれ、ラカンの量化記号、¬∀、「すべてではない」と(一般のラカン解釈でも)理解されてるものが、実無限的な無限と可能無限的なそれの対置で、可能無限的なほうの無限における普遍(という言い方はできるのでしょうか)を指すものとして構想されている、とは言って良いでしょう。


 ついでに言うと、この原父さん、その定義から「すべての女性」を知っている、ということになります。この場合、「すべての女性」というものを知っている人間が殺害されてしまった、ということで、女性に関して「すべて」というかたちで語ることを可能にする知はなくなった、ということも言われていたりします。ちょこっと念頭に入れておく必要がありましょう。定義から言って、原父さんはこれまでの女もこれからの女も込みで、すべての女を知っていたはずなので、まあ無限の女、といって良かったとすると、その濃度はアレフゼロということになります。逆に、その原父さんがいなくなったいま、残された手は「ひとりひとりの女性を数え上げる」しかない。晩年のラカンせんせい、1971年の5月の一連の講義の中で、原父神話をこういう形にアレンジして、こんな話もし始めます。これによって「すべての女性」という性別化のマテームの中での重要な項が、古典的な性の神話に関連づけられることになります。というわけで、おぼえておいて損はないでしょう。

 よく似た指摘はウィトゲンシュタインにもあります。


 「有理数は、数えることが不可能であるから、数えきることはできない。しかし有理数を用いて数えることはできる−基数を用いて数えるように。この斜視的な表現法は、これまで有限集合だけを扱ってきたのと同じ確かさで、無限集合を新装置によって扱うという、欺瞞の全体系の一部をなしている。
 それは<可算>と呼んではいけなかったのだ。これに反し、<可付番>というのは意味があるのではないか。またこの表現は、有理数概念の適用をも知らしめる。というのは、有理数は数えきろうとすることはできないが、それらに番号を割り当てようとすることはできるから。」(ウィトゲンシュタイン、『数学の基礎』、282)

 個人的には、どこかでウィトゲンシュタインのこの話をラカンが聞いた可能性の方さえ、高いのではないか、と思われるのですが、このあたりに関連してウィトゲンシュタインに直接言及した形跡はありません。ウィトゲンシュタインの読者であったことは、諸々の講義から確実とは思われるのですが。
 まあこのへんは、話を大きくしてしまうとただでさえ不正確な話がよりいっそう不正確になるので、この辺でやめましょう。

 とりあえず、ここでは、女性の享楽、という無限集合を、ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば「新装置」によって、ある種実無限的に扱うことが可能になった、ということ、そしてその「新装置」を原父神話としましょう、ということを押さえておきましょう。当然のことながら、それは男の夢です。まあ、ハーレム神話ですしね。
 でも、ハーレムには実はもう一種類あります。それは、このように初めから「すべての女性」というような無限集合としてのハーレムではなく、ひとつひとつ数え上げていくこと。可付番、とウィトゲンシュタインなら言うでしょうし、「うる星やつら」の諸星あたるくんなら、さらに律儀に「弁天様鞍馬ちゃんお雪さん涼子ちゃんしのぶ・・・」(あってますっけ?)と延々と名指していきます。無限なので数え終わることはありません、というか、最後の名前「ラム」は呼ばれない仕組みになっています。それが、彼が原父というインチキハーレム、「欺瞞の全体系」の主ではなく、ドンファンであることをみずからに誇っている、ということなのでしょうか。

 ちょっとはなしがそれました。しかしここで、女性が抱え込んでしまうことになる問題、それは、古典論理に従う男性ならば、排中律によって「決定論的な見解」を持つことができたのに対し、ではこのような無限という問題を意識したならその「決定論的な見解」は失われてしまうのではないか、そのとき、女性はどのようなロジックに従って自らの性を性別化することになるのだろうか、ということです。

 次回からは、この話をまだまだ考えていくことにしましょう。